九章#28 ものがたり
またというか、やはりというか、夕食を終えると父さんたちは晩酌を始めた。明日以降のことを考えて今日は控えめにするそうだが、場の空気もあいまって、随分と盛り上がっていた。
そうなってくると、陰キャ的な素養がある俺はちょっと居た堪れない。騒がしい空間も好きだが、やっぱり静かな時間もほしくなる。しょっぱいのと甘いの、両方が欲しくなるのに似ている。
どうせだし書斎にでも行くかな。でもそうこうしてると、マジで帰省時の俺の行動がワンパターンになっていくよな……と思いながら書斎まで何だかんだやってくると、そこには先客がいた。
薄暗がりの本の世界。
中心で月の光を編むように立つその人は、朔と望の月を行ったり来たりする魔法使いのように見えた。
「おや、キミも来たんだ」
「……まぁね。時雨さんも、逃げてきたんだ?」
「逃げてきたわけじゃないけど……静かな時間が欲しいな、って」
「そっか。じゃあ、俺とおんなじだ」
畢竟、静寂を望むのは人間の性質のようなものなのだろう。
息を呑むほど本に満ちたその部屋に入るのを一瞬躊躇し、敷居を跨ぐ。時が止まったような感覚はもうしない。この部屋に、忘れ物をしてはいないから。
「真っ暗な部屋の中、美少女と美少年が二人。妖しい展開だね」
「またそういう冗談を……」
「ふふっ、いいでしょ。お姉さんには弟をからかう権利があるんだから」
「そんな権利ないってツッコミはさておいて……この前の一件で、俺のお姉さんはやめたと思ってたよ」
苦笑交じりに答えると、時雨さんはくすくすと口もとだけで微笑む。
わざわざ暗い中で話してもしょうがない。
書斎に入ってパチンと電気を点けると、闇の魔法が解けたように時雨さんの姿が浮かび上がる。
「む……折角雰囲気があったのに。キミは、女の子が『電気……消して……』とか言ってるのにあえて点けたままにする鬼畜主人公クンなのかな?」
「今日俺色んな人にツッコミまくってるんで、時雨さんが下ネタ方向に走りだすといよいよ体力が持たなくなるんだけど」
「おっと、失礼。イメージが壊れちゃうね」
イメージっていうか、そもそも下ネタにツッコミのは体力がいるからやめてほしい。澪だけでお腹いっぱい。いや、澪と時雨さんじゃ好意の有無って点でからかいの本質がまるっきり違うんだけども。
どちらにせよ、健全な男子高校生にとって毒であることは言うに及ばず。
明るくなった部屋をくるりと見回すと、時雨さんははてと首を傾げた。
「うーん……ここにはもう何もないね。ボス戦後のボス部屋みたいに、レアアイテムでも落ちてるかと思ったんだけど」
「流石異世界モノも書きこなすだけのことはあるけど、時雨さんがそれ言うとマジでキャラブレやばいね」
入江先輩がWEB小説投稿サイトを使っている以上のギャップ。ラノベ作家モノのラノベなら銀髪碧眼美少女がラノベ作家で、って展開も十二分にあるんだけど、リアルだとね……。
時雨さんは文学とか、絵画とか、気取った感じの芸術家なイメージがある。完全に髪の色に引っ張られてるあたり、俺も相当ステレオタイプだけど。
「そうだ。キミ、美緒ちゃんが書いた本を読ませてくれるって言ってたよね? あれって持ってきてる?」
「あ、うん。今部屋にあるけど」
ここに到着してから騒がしくて、うっかり忘れていた。
こくりと頷くと、ぱん、と時雨さんは両手を叩く。
「それじゃあちょうどいいや。これから部屋、行ってもいい?」
「え? まぁいいけど」
「よかった。ボクもキミに見せたいものがあるし、取ってから行くよ。先に待っててくれるかな」
「う、うん……了解」
見せたいものとは何ぞや。
そう思うが、聞くよりも先に時雨さんがトタトタと行ってしまった。やっぱりあの人は天気雨みたいな人だよな。
「…………行くか」
書斎中をぐるりと見回して、こく、と頷く。
美緒の姿を幻視することはない。
だって、美緒はここにいないのだから。
もう――美緒の死とは向き合った。
問題は、生とは向き合えていないこと。
あの子に寄り掛かってしか生きられなかった俺は、“何か”を見つけられるのだろうか。
見ないフリしている気持ちと、見当たらない“何か”。
少なくとも、答えがここや過去にないことだけは分かっている。
◇
「ごめん、待ったかな?」
「ううん、そんなに待ってないよ」
「それならよかった」
部屋で荷物を漁って『ブルー・バード』を取り出して待つと、すぐに時雨さんがやってきた。
その手にあるのは、小さな端末。
見たことがある。確かポメラと呼ばれる類のものだ。文章を打ち込むのに特化している携帯型の機会だと思えば間違いない。
「ポメラ……どうしたの?」
「うん? ああ、これは執筆用。流石にパソコンを持ち歩くわけにはいかないし、ボクはスマホのフリックがそこまで得意じゃないからさ」
「なるほど」
作家みたいなことを言う。
いや、マジで作家になるんだから当たり前か。ぐぬぅ、そう思うと茶化せないのが口惜しいな。ポメラを持ち歩いていつでも書けるようにしてる辺り、流石としか言いようがない。
「でもどうして持ってきたの?」
まさか、『ブルー・バード』をデータ化するつもりじゃあるまいな? だったら既に文章に打ち込み済みだぞ。この冊子を万一紛失しても読めるようにパソコンにちゃんと保存してある。
あーうん、と頷くと、時雨さんは答えた。
「新作を書いたからキミにも読んでもらおうと思って。赤入れてくれるんでしょ?」
「っ……それ、恥ずかしいから思い出させないでほしいなぁ」
「やだよ。ボク、嬉しかったんだから。可愛い弟がボクのために一生懸命になってくれた日を、ボクは忘れないよ」
こっぱずかしくてしょうがない言葉を平然と吐く時雨さん。
俺はきまりが悪くなって、げふんこふんと咳払いをした。
「っていうか、新作を読ませるなら入江先輩の方がいいんじゃない? あの人、俺が先に読んだって聞いたら怒りそうなんだけど」
「そこは安心していいよ。恵海ちゃんに言ったら、そういうズルをするつもりはない、ってさ。投稿されるのを楽しみしてるって言ってたよ」
「うわぁ……そういうとこ、大河にそっくりだわ」
「だよねぇ」
ぷっ、と二人で吹き出した。
まぁ気持ちは分からんでもない。ほんとの本当に楽しみにしてる新刊って、フラゲしたくなかったりするんだよな。発売日まで待って、最大限に楽しみたくなる。
「そういうわけで。ボクの原稿と美緒ちゃんの作品、交換こにしようかな、って。二人で部屋で読書っていうのも詩的でしょ?」
「そうかもね」
詩的で素敵だと思う。
それに……時雨さん相手なら、二人っきりになっても変なことを考えずに済む。理性で欲を抑えつける必要がないのは正直なところ、ありがたい。
「じゃあそれで。これ、美緒が書いた作品」
「ええっと……『ブルー・バード』か。『青い鳥』の二次創作かな」
「そんなとこ」
時雨さんは『ブルー・バード』の表紙をキラキラと輝く眼で見つめた。ラムネ瓶のなかのビー玉か、あるいは溶け始めの氷みたいに見えるその瞳に、目を奪われる。
時雨さんはポメラを操作すると、はい、とこちらに渡してきた。
「ここのボタンを押せば下にスライドできるからね」
「了解。分からないことあったら聞くよ」
「うん、そうして」
言って、俺たちは互いに手元へ目を落とした。
時雨さんの反応も気になるが……それ以上に、新作への興味が大きい。大人しく読むことにしよう。
『12月に芽生えた恋の行く先は、1月ではなく13月だった。だから俺が1月にさえ進めば、この気持ちとはおさらばできる』
時雨さんの新作は、そんな一文から始まった。
舞台は現代日本。異世界転生も異能力もない、学園青春ラブコメのようだ。WEB小説らしく序盤で読者の興味をぐっと掴み、軽妙で読み応えのある文章が綴られていく。
これまでと違うのは、物語の視点と始点だ。
第一に、壬生聖夜の作品はこれまで一人称で綴られていたのに対し、この作品は三人称で紡がれている。ジャンルや物語のタッチを変えてもなお人称を変えはしなかったからてっきり一人称しか書けないのかと思っていたが、そんなことはない。むしろ三人称の方が上手いとすら思えた。
第二に、この作品はこれまでの壬生聖夜の青春ラブコメと違って4月から始まらない。物語の冒頭は12月24日、クリスマスイブだ。そこから一日一日を丁寧に描写されている。今は12月29日まで書き終えており、文量としては5万字ほど。
「……っ」
――なんて、分析や考察をする余裕はすぐになくなった。
だってこの物語は……ハーレムものだったから。
複数人に一度に恋をした主人公が苦しむ。そんな物語だった。
ドキリとした。
俺の心のうちを探られているのではないか、と怖くなった。
けれども主人公もヒロインも、俺や俺の周りの誰かとは似ても似つかないキャラ造形だったから、単なるニアミスにすぎないのだと分かる。
時雨さんなりのチャレンジなのだろう。最近は1対1じゃなくて主人公対複数ヒロインのラブコメも復古してきてるしな。
「読み終わった?」
「う、うん。時雨さんも?」
「もう三回読んじゃったよ。名作だね、これ」
時雨さんは『ブルー・バード』の冊子をぎゅっと抱きながら言う。
うわぁ、返してもらいにくい。
苦笑しつつ、俺も時雨さんの新作の感想を告げる。
「時雨さんの方も、面白かったよ。ハーレムなんて珍しいね。今までは単独ヒロインでやってたでしょ」
「今好きなのはこれなんだよ。前は、キミと美緒ちゃんが結ばれる以上のことを考えられてなかった」
「……そっか」
なんと返せばいいのか分からなくなって、小さく呟くだけにとどめる。
時雨さんは大人びた微笑を零すと、ベイビーブルーの泣きぼくろが楽しそうに僅かだけ動いた。
「やっぱり美緒ちゃんは凄いや。でも……負けるつもりもない」
「そっか。頑張ってよ」
「もちろん」
キミもね、と時雨さんは優しく言った。
「さて、じゃあボクは部屋で今日の分を書くことにするよ」
「うん」
「またね……あっ、残ったボクの温もりで変なことはしないように。雫ちゃんたちに言いつけるよ?」
「そこまで妄想逞しくないからねっ!?」
そっかそっか、とからかうように笑って、時雨さんは部屋を出ていく。
時雨さんが残した言葉を、俺はゆっくりと咀嚼した。




