一章#30 粉雪のようなあなたは
最低な話を語り終えた。酷く気持ちの悪い話だ。カラカラになった喉が粘ついている。
「そっか」
美緒のように笑う綾辻は、黒いレースの下着の他には何も着ていなかった。
それは俺も同じ。
嘔吐するような告白の間、俺たちは一枚ずつ互いの服を脱がせ合っていた。こんな風にセフレとして関わる以外に、俺は綾辻との関わり方を知らないから。
これは前戯だ。
弱さの吐露は、極上の行為をするための愛撫にすぎない。
そう言い訳することで最悪の懺悔ができている。
ちく、たく、ちく、たく。
時計の針は19時半に向けてたくさんの一秒を刻み続けている。夜を刻み、時を刻み、まるで裁断するみたいに過去と今を切り離していた。
妖艶な眼のまま、雫の指先が俺にそっと触れた。ひんやりと冷たい爪先は、火照った体に染みるようだ。
泣きたくなるくらい、心が満たされている。
「だから百瀬は昨日あんな酷い顔で帰ってきたんだね」
「気付いてたのか」
当たり前でしょ、と綾辻が頷く。
「百瀬のことも雫のことも、多分私が世界で一番見てきてる。二人がどこまで行ったのかまでは定かじゃなかったけど……告白かそれに近いことがあったってことはすぐに分かった」
綾辻との付き合いは長くて深い。雫には決して見せられない汚い面すらも、綾辻にだけは見せてしまっている。お互いに感情を見せ合ってはいなかったはずなのに、感情から零れだした心を澪は拾ってしまっているのだ。
「一つ、聞いてもいい?」
「……なんだ?」
「百瀬が雫の想いを聞いて困ったのはどうして? 妹の代わりにしようと思って関わったことへの罪悪感? 妹でしかなかった子の恋心への戸惑い?」
それとも、と綾辻は続けた。
「雫が美緒ちゃんの代わりになってくれないことへの落胆?」
「――ッ」
綾辻の手が俺の首元に到達する。
親指の腹が喉仏の上をトンと通過した。けほっ、と小さな咳が零れる。
「百瀬は美緒ちゃんの代わりが欲しかったんでしょ。罪悪感を抱えて、自己嫌悪を繰り返して。それでもやっぱり、美緒ちゃんの代わりが欲しくて堪らない」
「そんなことは――っ」
「ないわけないよ。だって百瀬はイく瞬間、必ず私のことを『みお』って呼ぶんだから」
言われて、はたと気付く。
そうだ。
俺は綾辻のことを、セックスの最後の最後だけ『みお』と呼んでしまう。それは美緒のことを性的に愛していたからでも、気分が昂って綾辻の下の名前を呼んでしまったからでもない。
綾辻と美緒が乖離する瞬間さえも、綾辻を美緒の代わりにしたいと思ってしまっていたのだ。決定的な瞬間に『みお』と呼んでいれば、本当に美緒の代わりにできる気がしていた。違いを見つけようとしてたなんて――嘘だ。
「気付いてないなら教えてあげる。この前の入学式の日。理屈をこねて私が義妹に収まるように話していたときの百瀬の顔は、とても満たされていたんだよ」
無自覚だった、なんて嘘を吐くつもりはない。
ああその通りだ。俺はあのとき、どうしようもなく満たされていた。
それだけじゃない。
トラックの駆動音を聞くと、俺の心は満たされてしまう。母さんと美緒が死んだときの光景を思い出すことができて――そのおかげで、もう一度美緒に会えるから。
告白しよう。
俺は綾辻と雫を美緒の代わりにしたくて堪らなかった。
狂ってるとか気持ち悪いとか、そんな生易しい言葉では言い表せないほどに、これは醜悪な感情だ。
でもしょうがないじゃないか。美緒は俺の全てだったんだ。幼い俺が見つけた、たった一つの光だったんだ。
「ごめん」
捻り出せたのは、惨めな謝罪の言葉だけだった。
ごめん、と何度も繰り返す。
何に謝っているのかも分からない。誰に許しを乞うているのかも定かではない。どんな声で、何を思って口にする『ごめん』なのかも見当がつかない。
口の端から流れるよだれのように、だらしなく伝う涙のように。俺は何度も、何度も謝り続け――
「んんっ?!」
――るのを、生暖かい唇が塞いだ。
頭が真っ白になる。
俺は今、何をされている? いや、そんなのは見れば分かる。目の前にあるのは綾辻の瞳、鼻、顔、そして――。
どくどくと、甘やかな唾液が流れ込んでくる。口をほぐすようにゆっくりと挿入される舌は、さながら性交そのもののようだった。
接吻、キス、チュー。
そのどの形容も正しいと思えない。
――ファーストキスは、セックスによく似ていた。
「ぷはっ。すごい。キスってすごく気持ちいいんだね」
恍惚とした顔で舌なめずりをする綾辻。
その官能的な表情に反応して俺が身じろぐと、ンっ、と綾辻が甘やかな声を漏らした。
「そろそろ、だね」
「えっ……?」
「時間だよ」
綾辻が指さした先では無愛想な時計が19時半を報せていた。
約束の時間だ。
そうか、と否が応でもこの先のことを考えさせられる。
「ねぇ百瀬。私とゲームをしない?」
綾辻の唇は、泣きじゃくる子供のように濡れそぼっていた。
「ゲーム?」
「賭けみたいなもの。私が勝ったら、私と恋人になってよ。そうしたら雫が百瀬の妹になる。親同士の再婚で生まれた関係よりよっぽど強固な義兄妹関係でしょ?」
でも、と綾辻は口角を上げる。
「私が負けたら、私が百瀬の義妹になってあげる。正真正銘、美緒ちゃんの代わり。足を失くした人にとっての義足のように、手を失くした人にとっての義手のように。妹を失くした百瀬のための義妹になってあげるよ」
題して義妹ゲーム。
綾辻はそう、蕩けた目で言った。
「愛してるんだよ、あなたのことを。始まり方は不純で、続け方は間違いだらけだけど。でもこの気持ちだけは誰にも負けないって自信がある。雫よりも誰よりも、私はあなたを愛してる」
「……っ、な、ら」
「でも、私は恋人じゃなくてもいい。あなたの一番になれるならなんだっていいの。恋人でも、義妹でも、セフレでも、友達でも、クラスメイトでも――どんな関係でもいいから、私はあなたの一番でいたい」
綾辻はゆっくりと行為を進めた。
視線を決して逸らすことなく、体に触れてくる。繊細に撫でられるたびにゾクゾクと快感が体に回った。
綾辻の言葉一つ一つが甘美な毒になって体中を犯していく。
脳髄が言う。
義妹ゲームを受けろ、と。
綾辻が勝った場合、俺は綾辻と恋人になる。こんなにも魅力的な女の子だ。体の相性もいい。そのうえ、彼女の妹である雫をちゃんと義妹にすることができる。雫も綾辻が俺の彼女になったと知れば、義妹として振舞ってくれることだろう。
俺が勝った場合、綾辻が俺の義妹になってくれる。誰よりも美緒に似ている綾辻だ。しかも綾辻は俺の弱さを知っている。義理の妹ではなく、美緒の代わりとしての義妹になってくれるはずだ。
俺のおぞましい強欲を満たすことができる唯一の手立てが義妹ゲームだ。
この機会を失すれば、もう二度と俺が満たされることはない。
そう分かってしまったから、頭の中に浮かぶ無数の自責を、腐りきった悪魔の手がクシャクシャに丸めてしまう。
「ルールを聞かせてくれ」
そのときだった。
口を開こうとした綾辻を妨げるように、
――とぅるるるるるっ
リビングにけたたましい着信音が響いた。