一章#29 百瀬美緒
SIDE:友斗
「なぁ綾辻。もう、こういうのはやめないか?」
俺のさよならを聞き、綾辻は決意したように顔を上げた。
「それは雫に告白されたから? それとも――私を美緒ちゃんとしてしか見れなくなったから?」
「……っ」
全身の血が勢いよく冷えていく。
猟猫のように目を細めた綾辻は、月の光みたいに微笑んだ。
きゅいっ、と目尻が下がる。まるで美緒のように。
「……違う。でも雫が好意を持ってくれているのは事実だ。そんな状態でセフレを続けるのは筋が違うだろ」
「ふぅん。そっか」
その反応を見て、最初に雫から料理を教わった日のことを思い出した。多分綾辻は、あのときに既に雫の気持ちに気付いていたのだろう。
でもさ、と綾辻が一歩踏み込んでくる。
「今日は私が優先でしょ。先に言ったのは私なんだから」
「それは……」
「それとも、妹には欲情できない? 美緒ちゃんにしか見えない私とはセックスができない?」
聞こえもしない自動車の駆動音が、耳の奥でこだました。
フラッシュバックする無惨な光景と目の前の少女の姿が綯い交ぜになり、頭が酷いエラーを起こし始める。
ぽん、とさほど強くない力で胸を押された。
脚に力が入っていなかったらしい。俺はそのまま、ソファーにばたんと倒れ込んだ。
ぺろりと舌なめずりをした雫が俺に馬乗りになる。
下腹部に感じる生々しい重みは、これまで行為の最中に何度も感じたものだった。
「ねぇ百瀬。答え合わせをしようよ」
「答え合わせ……?」
「そう。百瀬が雫と関わった理由、百瀬が私と関わった理由、百瀬が私とセフレになった理由」
心臓が冷えていく。
綾辻は気付いてしまったというのか?
何の関係もない時雨さんにすら話していないことなのに、よりにもよって一番バレてはいけない綾辻に気付かれてしまったのか……?
「ちょっと待ってくれ。どうしてそんなことを言い出したんだよ。俺には意味が――」
「つれないな、百瀬は。最後の前戯なんだからさ。もっとノってくれてもいいじゃん」
綾辻の手が頬に触れる。耳に触れる。耳の溝をなぞる。
蠱惑的に笑うと、あのね、と綾辻は呟いた。
「今日、霧崎先輩のところにいってきたよ。それで美緒ちゃんのことを聞いてきた」
「時雨さん?」
「うん。少し渋られたけど、この前の約束を使って聞き出した。私の名前に聞いたとき、霧崎先輩は変な反応をしてたから。あぁ、安心して。なるべく顔を見られないようにしたから」
細くて冷たい指が、俺の耳たぶを摘まむ。
甘噛みのように程よい力が、ゾクゾクと体に快感を与える。イヤイヤと頭を振るのに、雫は決して離してくれない。
「やめてほしいなら突き飛ばしてよ。百瀬ならできるでしょ?」
「…………」
「突き飛ばさないなら、哀してよ。そうしたらこの関係は終わりにしてあげるから。雫に話したりはしない。私だけが、百瀬の哀を受け止めるから」
唇の上を指が滑る。そっと口を開くと、今度は前歯を丁寧に撫でてきた。
ツーっ、と涙が頬を伝う。
このまま、流されてしまっていいのだろうか。
せめて隠しておきたかった弱さを、全部委ねてしまっていいのだろうか。
「百瀬。私に哀を注いで」
耳元で囁かれたその言葉が、俺の理性を決壊させた。
◆
百瀬美緒は、俺の二つ年下の妹だった。
そのくせ小さい頃から大人びていて、俺が悪いことをするとすぐに冷たい目で見てきた。なんだこの妹、と何度も思ったものだ。
父さんも母さんも忙しかったから無理にでも大人にならなきゃいけなかった、というのがあるかもしれない。
あとは俺が反面教師になっていた、とかな。
美緒はどちらか言えば気が強い方で、何か気に入らないことがあるときちんと言ってくる子だった。しかもその『気に入らないこと』は、大抵の場合、間違いを正そうとする義憤からくるものだった。
自分が兄だということを忘れて、かっけぇな、と思った。
美緒は強くて、キラキラと輝く本物だ。そう確信するのにそれほど時間はいらなかった。
ただ同時に、美緒みたいな奴が傷付きやすいということも悟っていた。子供のくせに、と思われてしまうかもしれないが。
強い人間は硬いが脆い。傷付いていないと虚勢を張り続けて、いつかぽっきりと再生不可能なくらいに壊れてしまうかもしれない。
当時の俺のクラスではちょっとしたいじめが起きていたから、尚更心配になった。もしかしたら美緒がターゲットになるかもしれない、と。
だから幼いながらに決意した。
空っぽで偽物な俺は、せめて美緒を守り抜こう。
美緒は俺にとって世界一大切な人だから、命に代えても守って見せる。
今から考えると、その感情は依存に近いものだったんじゃないかと思う。
自分は空っぽだ、って子供ながらに思っていた。
そんな俺がやっとのことで見つけた拠り所は、関わることに理由が要らない美緒の存在だったのだ。
美緒のために。
そう思ったら何でも頑張れた。
なのに――小学五年生の春。俺の目の前で、美緒が死んだ。
その日、俺は母さんと美緒の二人と一緒に出かけていた。
母さんと美緒が楽しそうに話し、俺が後ろから見守って歩いていた、そのとき。
――きぃぃぃぃぃぃ
耳をつんざくようなブレーキ音が、昼下がりの街に鳴り響いた。
「危ない――ッ!」
止まる気配のないトラックに気付いた俺は、全身全霊で叫んだ。
でも、その言葉が届いたのかを確認するより先に嫌な音が鈍く鼓膜を叩いた。
「嘘、だろ……?」
小学五年生にすぎない俺にとって、あまりにも理解しがたい光景だった。
ついさっきまで目の前にいたはずの母さんと妹が、呆気なくトラックに吹き飛ばされてしまった。
少し遠くに吹き飛ばされた二人の体は、酷く無惨な姿でアスファルトに転がっている。だらだらと流れている鮮血が、痛々しく二人の死を報せていた。
二人は死んだ。即死だったらしい。
苦しまずに済んだという意味では不幸中の幸いだったのかもしれない。轢いたのがトラックじゃなかったら、二人は酷く苦しんだはずだ。
俺はたった一人、事故から生き延びた。
仕事を切り上げて駆け付けた父さんは、俺のことを抱きしめてくれた。
ぎゅっ、と。
伝わってくる微熱は優しかった。
「辛かったな。二人の最期を見て、辛かったよな……でも生きていてくれてありがとう。ありがとう」
ぽたぽたと涙を流す父さんの声を聞いたとき、俺の頭の中には美緒の声が響いた。
――兄さん、ちゃんとして
――ママとパパに迷惑をかけちゃダメだよ
――頑張って、兄さん
無理だよ、美緒。
俺が頑張れたのは美緒がいたからだ。美緒が見ていてくれないと、俺はちっとも頑張れない。
だってさ。
俺は母さんが死んだことの何倍も、美緒の死が哀しくてしょうがないんだ。
二人の死を平等に哀しめていないんだ。親不孝者にもほどがある。こんな俺に、何ができるって言うんだよ……っ!
――兄さん。言い訳は聞きたくないよ
――頑張れない兄さんのことは好きじゃないな
――かっこ悪いよ、そんなんじゃ
どうしてそんなに強いんだ。
二つも年下なのに俺のことを巧く誘導して。死んだあとでも俺の背中を押すって……どんだけいい子なんだよッ!
兄さん、兄さん、兄さん、兄さん――。
何度も頭の中で響く美緒の声が、弱くてどうしようもない俺に虚勢を張らせた。
「父さん。俺、大丈夫だから。二人のことは哀しいけど、俺は二人の分も強く生きていくから」
弱者には強くなることはできない。
でも強く在る振りならできる。
太陽の光を借りて月が輝くみたいに、俺は美緒の輝きを心に抱いて輝いているフリをするんだ。
この日、俺はそう決意した。
暫く経って、俺は何とか虚勢を張って生きられるようになった。
でも周囲の同情を受け続けたら虚勢があっさり剥がれ落ちてしまう気がして、俺は逃げるように色んなところを歩き回っていた。
そんなある日、一人でぽつんと寂しそうにしている女の子を見つけた。
小さくなって本を読むその姿を見たとき、俺の中の美緒を求める気持ちが目を覚ました。
「なーにやってんの」
そう声をかけたのは、その子を美緒の代わりとして見てしまったからだ。
妹の代わりが欲しかった。
守るべき存在を手に入れることで、心のバランスを保とうとしていたのだろう。
自分が如何に異常なことをしているのか気付いたのは、雫が懐いてくれたときだった。
勇気を出して変わることを選んだ雫の姿を見て、さーっと血の気が引いた。
雫は美緒じゃない。
当たり前のことなのに見ない振りをして。そうして美緒の代わりにしてしまった自分の幼稚さが、恐ろしかった。
父さんに中学受験をしたいと頼んだのは、雫の学力なら追って来ることはないだろうと思ったからだ。
だから入学した先で綾辻と出会ったとき、俺は運命を呪った。
だって――綾辻は、驚くほど美緒に似ていたから。
名前が『みお』と同じ読みだっただけではない。
顔が似ていた。全く同じではなかったが、美緒が成長したら綾辻のようになるんじゃないかと思えるほどだった。
孤独というより孤高と呼びたくなる在り方も美緒を彷彿とさせた。
何よりも、目を細めてきゅいっと目尻を下げる笑い方が、泣きたくなるくらいに美緒と似ていた。
――今度こそ美緒の代わりを見つけた
一瞬でもそう思ってしまったとき、自分が本当に気狂いの異常者だと自覚した。
それは決して抱いてはいけない感情だ。
だから何とか自分を正気に戻すために、綾辻と美緒の違いを躍起になって探した。
運動しているときと、綾辻から性を感じるとき。
そのときだけは、綾辻と美緒が乖離してくれた。
美緒は運動が苦手で、しかも初経が来る前に死んだ。だから運動神経が抜群で女性の体になった綾辻の姿だけは、美緒と切り分けて考えられたのだ。
――お互い、シたいときに利用しあうだけの関係。百瀬にとってもメリットはあるんじゃないの?
その通りだった。
セックスをしているときは、綾辻を美緒とダブらせずに済む。
繰り返しセックスをし続ければ、他の違いも見つけられるかもしれない。
そう期待したから、俺は綾辻とセフレになった。
そして何度も、何度も、何度も。
俺は妹の顔をした少女と交わり続けた――。