八章#41 涙時雨と恵みの雨と。
「ボクは、昔から何でもできたんだよ」
時雨さんがそう告げたのは、ドライブが始まってからだいぶ経った頃だった。
昼を過ぎ、ドライブスルーで買ったハンバーガーでやや遅めの昼食を済ませながら、時雨さんは思い出すように続けた。
「何でもできたから、世界がモノクロだったんだ。気持ち、分かる?」
「え、いや……何でもできたことないから分からないけど。でも、世界がモノクロだった、ってのは分かるかも」
美緒を守る。
その役目を得るまでの俺は、まさにそんな感じだった。
「つまらなかった。毎日毎日つまらなくて、一人ぼっちだった」
「……うん」
「そんなときに出会ったのが、キミと美緒ちゃんだったんだよ」
ちゅるちゅるとオレンジジュースを吸い込み、時雨さんはこちらを見遣る。何を思ったのか、ポテトを一本差し出してくるので、俺は素直にがぶりと食べた。
「キミと美緒ちゃんはボクにとって、月と太陽だった。二人はいつも、二人で。色んなものに、二人で色を付けてた。二人ぼっちなキミたちの世界は、ボクが想像したことないくらいにカラフルだったんだよ」
「うん」
その感覚は、よく理解できる。
美緒がいる世界は本当にカラフルだった。夢も、寝ぐせも、朝ご飯も、その日の天気も、くだらない遊びも、美緒がいてくれたから楽しかった。
「だからボクは、その世界に入りたかった。二人ぼっちに入れてもらって、三人ぼっちになりたかったんだ」
「だから、お姉さん?」
「そうだね。二人のお姉さんとして生きることを決めたのは、そのとき。そうすれば二人の世界に入れてもらえると思ったんだ。退屈でモノクロームなボクの世界が変わってくれるって信じてた」
幼い頃、俺たちはそれほどたくさん遊んだわけではなかったと思う。
それでも時雨さんの世界は、少しカラフルになったのだと言う。
「ずっと三人でいたかった。誕生日に会えるのは、どうしようもなく嬉しくて。夏休みに遊べることが、これ以上ないってくらい楽しみで。その分、秋がくるのは寂しくて。でも冬にはまた会えるから、ボクはモノクロな世界でも頑張れた」
でも、と時雨さんは少し震えた声で言った。
ドリンクをぎゅっと握ると、中の氷がじゃらと鳴る。
うん、と相槌を打つと、時雨さんは口を開いた。
「ある日、美緒ちゃんに相談されたんだ。キミのことが好きだ、って。男の子として、愛してる、って」
「えっ」
少し、いや、かなり驚いた。
時雨さんが美緒の気持ちを知っていたのだろう、とは思っていた。考えてみれば分かりやすかったから、気付かれていても当然だろう、と。
でもまさか美緒が相談したとは、思いもよらなくて。
話の先を急かしそうになるのを、ぐっ、と堪えた。
しばしの間の後、時雨さんは続けて言う。
「そのときまでボクは、美緒ちゃんの気持ちに見て見ぬフリをしてた。もっと早く気付いてあげられたはずなんだよ。ボクがキミを『キミ』って呼ぶのは、名前で呼ぶと美緒ちゃんがヤキモチを妬くからだったんだ」
「そう、だったんだ」
「うん。他にも、たくさんヒントはあって。お姉さんなら気付いてあげて然るべきだった。然るべきだったけど、ボクは見て見ぬフリをした」
どうしてか。
考えるまでもないことだろう。
「二人がもしも、想いで結ばれたら――ボクはまた、一人になる。三人ぼっちじゃなくて、二人と一人ぼっちになって……カラフルな世界にいられなくなる。そう思った」
「うん」
父さんが、俺と澪と雫とを見て心配したように。
三人はいずれ、二人と一人になりかねない。ましてそこに恋が絡めば、どんなに無理しても三人ではない時間は生まれる。
「嫌だった。三人のままがよかった。だって、ボクがその世界に入れてもらえるのは一年のうち何回かしかないんだよ。いつもはモノクロで、つまらなくて、それでもほんのひとときだけ、世界をカラフルにしてもらえたの――それを失くしちゃうなんて、嫌に決まってる」
だからボクは、と時雨さんは懺悔をするように言う。
否、おそらく『ように』は要らない。
紛れもなくそれは、時雨さんの懺悔だった。
「あの子に言っちゃったんだ。『その気持ちは持っちゃいけないんだよ。美緒ちゃんなら分かるでしょ?』って」
「……っ、うん」
「あの子の想いを、否定したんだ。そのせいで……美緒ちゃんは、いなくなった」
違う、と否定すべきなのだろう。
時雨さんのせいで死んだわけじゃない。俺だって美緒の想いを否定したのは同じなのだ。あえて悪者が誰かを挙げるのなら、それは俺だろう。
けれども時雨さんは、そういう話をしたいわけではなさそうだった。
「後悔したんだ。だから……ずっと、ずっとどうすればいいか考えてた。美緒ちゃんに赦してもらえる方法を――ううん。ボクがボクを、赦せる方法を」
「うん」
「ボクの世界がモノクロなのは、もう諦めればいい。でも美緒ちゃんの想いを途絶えさせてしまったことは、絶対に赦せなくて」
「っっ……」
「そんなときに、キミのお父さんが再婚した。澪ちゃんが目の前に現れて、すぐに大河ちゃんも目の前に現れて――ボクは、この子たちに想いを継いでもらおう、って決めた。そうすれば自分のことを許せる、って」
「そっ、か……」
それは、ある意味では澪や大河を代わりにしているのだけれども。
俺の思う『代わり』とは、少し違っていた。
「でも違ったんだね。キミと美緒ちゃんは、とっくに結ばれてたんだ」
「そう、だと思う。美緒の想いを誰かが継ぐ必要なんて、どこにもない。時雨さんはもう、自分を赦していいんだよ」
「……うん」
美緒は、きっと時雨さんを恨んでなんかいない。
あれはただの事故だ。
人生は、何が起こるか分からない。物事の全てにフラグがあるわけではなく、不可避な強制イベントが存在する。
きっと、だけれども。
もしも美緒が生きていたら、遅かれ少なかれ、俺は胸に秘めた想いを無視できなくなっていた。法も、常識も、倫理も飛び越えて、俺たちは結ばれていただろう。
時雨さんに贖罪の必要はなくて。
はは、と時雨さんは寂しげに笑った。
「赦してもらうことが……自分を赦すことが、ボクの生きる意味だった。キミが誰かを助けることに依存したように、ボクは想いを結んでボクを赦すことに依存したんだ」
「うん」
「だから、もう依存もできなくなっちゃった。いよいよ空っぽだね。昔からずっと、そうだったけど。本当に何もなくなっちゃったよ」
時雨さんがそう、作り笑うから。
俺は、ああやっぱり、と思った。
やっぱり、傍にいるだけじゃ何も見つけてはあげられない。
歯痒さを持て余した俺は、代わりに窓の外を見て――
「あっ」
――気付いた。
もう、雨音が聞こえないことに。
空がラムネ色に染まっていることに。
「ふざけないでよ、時雨」
優しくもあり、強くもある声が、車内に轟いた。
入江先輩は車を止め、ドアを開けて外に出る。俺は時雨さんと顔を見合わせ、入江先輩に続く。
そうして車の外に出ると、仄かな磯の香りがした。
「ここって」
「海……?」
「見れば分かるでしょう? 海まで来たのよ。といっても、冬の海だから流石に冷えるけれどね」
ああ、本当に冷える。
日はまだ高いけれど、そんなことお構いなしに吹く風がどうしようもなく冷たくて、『北風と太陽』を思い出す。
ざぁ、ざぁ、と波の音。
海はどこまでも広がっていた。空も、いつまでも広がっている。
宇宙、って感じがした。
「ねぇ、時雨――ううん、霧崎時雨」
入江先輩は時雨さんの方を向くと、びしっ、と指をさした。
強く吹く風が、金と銀の髪を美しく靡かせる。
向き合う二人は、芸術品かと見紛うほどに美しくて、俺は息を呑んだ。
「もう一度言うわ。ふざけないで、霧崎時雨。この私が三年間を費やして、それでもなお勝てなかった霧崎時雨が空っぽですって? だったらっ! だったら私は、一体なんなのッ?! 中身のない容器にすら負けて、負けて、負け続けた! 惨めな女だとでも言うつもり?」
「――っ、それは……それはそれ、これはこれだよ。勝ち負けが全てじゃない。分かるでしょ?」
「分からないわよ。あなたたちの言っていることは、何一つ分からない。当然よね、何も知らないんですもの。私は霧崎時雨の過去なんて何一つ知らない。それでも私は、霧崎時雨に挑んだの。何度も、何度も挑んで――ついに一度も勝てずに、終わった。勝ち負けが、私にとっては全てだったッッ!」
入江先輩は、強く吠える。
時雨さんは、くしゃっ、と笑い、申し訳なさそうに答えた。
「だとしたら、ごめん。ボクは……勝てちゃうんだよ。言ったでしょ。昔から、何でもできた。恵海ちゃんがボクを凄い人だと思ってくれるのだとしたら……それは、ただの幻」
「っ、違うっ! 私は時雨を凄い人だなんて思ったこと、ない。けど! それでも私は、霧崎時雨の今を知ってる! この三年間のあなたを、私は誰よりも見てきた!」
「それは思い上がりじゃないかな?」
「思い上がりじゃ、絶対にないっっっっっ! だって私が……っ、私が、あなたを見つけたんだッ!!」
もう堪えきれなかったと言わんばかりに入江先輩は時雨さんの胸倉を掴む。
冷たく、後ろめたそうに目を逸らす時雨さんとは対照的に、入江先輩は目に大きな滴を浮かべていた。
「『君と迎える1月がこんなに嬉しいなんて、思いもしなかった』」
聞き覚えのある言葉が、響く。
「『カカオの匂いで目が眩みそうな、苦い28日間。今年はもう1日おまけがあるらしくて、嫌気が差した』」
「っ」
「『12月じゃなくて、3月が本当の終わり。僕はそう思っていた』『4月――カミサマが死んだのは、この月の初めらしい』」
5月、6月、7月、8月。
「『一人ぼっちで長い夜を眠らなくちゃいけなくて。寂しくて丸くなる僕が、9月の「9」になったのかも、と思う』」
10月、11月。
そして――
「『12月。それは神様が生まれた月らしい』」
――12月。
聞き覚えがある、なんて次元じゃない。
ここ最近、何度も何度も読み返した壬生聖夜の作品の一節たちなのだから。
「『カミサマに物語を捧げます』――そう言ったあなたを、世界で最初に見つけたのは私。霧崎時雨のことは知らないけれど、私は壬生聖夜のことを知ってる! ちっとも空っぽなんかじゃない、あなたのことを知ってる」
「……ッ、あれは! 全部、美緒ちゃんに捧げて――」
「ならどうして、WEBに投稿したの? それは読まれたかったからでしょっ!?」
「違――わ、ない……けどっ」
「壬生聖夜に作品には、希望があった。ハッピーエンドもバッドエンドもメリーバッドエンドもあって、楽しかったり哀しかったりしたけど――全部、希望があった。寂しさに寄り添って、色のない時間に色をつけて、最っっ高に面白かった!」
だから、と叫び、入江先輩はぎりりと時雨さんを睨む。
「何もない、わけがない! 何もない人間が何百万文字も書けるわけがない! 物語を舐めるなッ!」
「……っ、でも……! でもボクは――」
「――それでも足りないなら、生きる目的が見つからないなら!」
時雨さんの言葉を遮って、入江先輩は言葉をぶつける。
「私のために、書きなさい! 私があなたの物語を演じるから、あなたの物語を寄越しなさいよ。13月も、14月も、15月も――何百月分になっても演じてみせるから。あなたが描くカラフルな世界を、私があなたに見せてあげるから」
「……っ」
「今は、それで我慢しなさい」
「っ、っ」
幾度と打ち寄せる波が、ざあざあと泣く。
天を仰ぐと、もうあっちの方でも雨は止んでいた。やっぱり、さっきの雨は通り雨だったらしい。
境目で薄らと見える虹は、海と雨の架け橋のように思えて。
いつかのカミサマと少年の物語を思い出した。
あのときも、カミサマは迷ってたんだっけ。手を取っていいのか、って。それは、依存する対象を変えるだけじゃないのか、って。
なら―――
「壬生聖夜先生。ファン第一号が、これだけ熱烈に愛を叫んでくれてるんです。筆を折る、なんてことはないですよね?」
《《あの日》》美緒が俺の背中を押してくれたみたいに。
頑張って、と祈った。
「書いてください。あなたのありったけの言葉で、物語を紡いでください。甘ったれないでください。足りないと思ったら……赤入れますから」
「っ……うん。ボクは――ボクはっ!」
「うん」「ええ」
「ボクは、霧崎時雨で、壬生聖夜だから! 大好きな美緒ちゃんが傍にいてくれるから! ……書くよ、恵海ちゃん。書いて書いて書いて、いっぱいいっぱい赤入れられて、恵海ちゃんに演じさせてみせる」
ぽとり、ぽとり、と降る時雨。
昔、思ったことがある。
涙を流すって意味の名前だなんて哀しそうだな、と。
でもそんなことはなかった。涙にはちっとも悪いことじゃない。
悲しい涙を流せるのは優しい証で。嬉しい涙を流せるのは幸せの証で。
そんな心の恵みが、いつか海になって。
そうして、空の青さを映し出すから。
――お疲れさま、兄さん
――よく、頑張ったね
波打つ音が、美緒の声に聞こえて。
うん、と俺は笑った。




