八章#38 贖罪
SIDE:時雨
欲しいものも大切なものも、全部最初から決まっている。
彼と、あの子と、ボク。
三人ぼっちだったあの日々が欲しい。それだけだった。
――俺がいて、美緒がいて、時雨さんがいて。そんなあの頃を取り戻そうとしてる
彼の指摘が、頭の奥で痛々しく反響する。
見事に彼は私の願いを言い当てた。
けれども、彼は気付かなかった。それはあの頃のボクが欲しかったものだ。彼がいて、あの子がいて、ボクもいる三人ぼっちだったあの頃にこそ、ボクは日々が続くことを希った。
「時雨。父さんと母さんは今日、出かけるけど。時雨はどうする?」
「うーん。雨だし、いいや。ちょっと疲れちゃったから休んでる」
「そっか」
部屋に入ってきたお父さんは、もうすっかり着替え終えていた。
ボクだって女の子なんだから身支度に時間はかかるわけで。それなのにその状態で言うということは、端からボクが行くとは思っていなかった、ってことだ。
窓の外を見て億劫そうに返すと、お父さんは小さく安堵の息を零す。ただそれでも出て行くことはせず、なぁ、と迷うように口を開いた。
「時雨はクリスマス、何が欲しい?」
「ふふっ、なにそれ。そういうのはお父さんとお母さんで考えてくれるものなんじゃないの?」
「そうなんだけどな……父さんたちじゃ、最近の若い子が何が欲しいか分からないんだよ」
お父さんはそう、渋い顔で言う。
しょうがないなぁ、と苦笑して見せながら、ボクは頭の片隅でぼんやりと考えてみた。
――何が欲しい?
今欲しいものは、ただ一つだけ。
「赦し、かな」
「うん? すまない、よく聞こえなかったからもう一度頼めるか?」
「ネックレスって言ったんだよ。もうすぐ大学生だし、少しは着飾りたくて。センスはお母さんに任せる」
「そ、そうか……分かった」
適当にそれっぽいものを言うと、お父さんはこくと頷き、部屋から出て行った。
求められている答えを出すだけなら、これほど簡単なことはない。クラスの女の子が欲しがっているものを口にすればいいだけなのだから。
本当に欲しいものは、たった一つしかなくて。
でもそれは目に見えないし、どうやって手にすればいいのかも分かりはしない。それでもあの子の姉として生きられるように、ボクは赦されたいのだ。
――そんなのはやめるべきだ。そんな風に誰かを代わりにしようとしても、意味はない。澪は澪で、大河は大河で……あの二人は《《ちっとも美緒に似てないんだから》》
知っている。
あの二人は美緒ちゃんとは違う。けれど、だからなんだと言うのか。充分に似ているのだから、それでいいのだ。あの二人はあの子の想いを継ぐに値するものを持っている。
彼だってそうだ。
別に、美緒ちゃんと似た相手を美緒ちゃんの代わりに据えているわけではない。手を差し伸べるという行為自体を美緒ちゃんの代わりとし、依存しているだけ。
贖罪と救済。
行為が異なるだけで、美緒ちゃんがいないの代わりに“何か”に依存しているのは同じなのだから。
ぶるるるっ。
ベッドで寝転がっていると、スマホが振動した。音が鳴らないということはメッセージだ。メッセージはあまり好きではない。声を使ってさえ伝わらない気持ちがあるのに、文字だけで大切なことが伝わるはずがないから。
けれども無視をするのも気が引ける。今日は日曜日。冬星祭の準備で出ていた昨日までならともかく、休日に届くRINEというのは珍しい。
【入江恵海:今、家にいるかしら?】
恵海ちゃんからのRINEだった。なんともまぁ、珍しい。以前、ボクも映画に誘ってよ、と声をかけたときにはすげなくあしらったくせに。
【rain:いるよ~】
【rain:どうして?】
ベッドから体を起こし、んーっと伸びをする。
ぶるるっ、と再びスマホが振動したかと思うと、彼女らしいメッセージが届いていた。
【入江恵海:最近のあなたは無様だったから。どこかに放浪しているんじゃないかと思ったのよ】
……っ、無様か。
否定できないかもしれない。彼と話してから今日まで、あまり頭は回っていなかった。本当はクリスマスに向けて彼と二人を結び付けなきゃいけなかったのに。
彼があんな風に言ってくるとは思わなかったから、うっかり泣いてしまった。
人前で泣いたのはいつぶりだろう。
ふとそう考えて、明確にいつぶりだったか思い出せた。あの子のお葬式の日ぶりだ。
彼はきっと、覚えていないのだろう。或いは見てすらいなかったのかもしれない。あのときの彼は、とても虚ろな目をしていた。まるで太陽を失くした月みたいに。
だからボクが泣いて、泣いて、泣いて、彼のお父さんや葬儀会社の人を困らせてしまったことなんて知らないのだと思う。知らなくていい。情けない姿を知られては、ボクは彼のお姉さんでいられなくなるから。
「美緒、ちゃん……」
一言、そう呟いただけで。
カラフルなあの日々が蘇る。
同時にそれを終わらせてしまった、ボクの一言が木霊する。
『その気持ちは持っちゃいけないんだよ。美緒ちゃんなら分かるでしょ?』
あれは、ボクが小学五年生から六年生になろうとしている冬のことだった。
◇
2月ももうじき、終わりを迎える。その年は閏年だったから、29日まであった。月の最初から最近までずっとそわそわしていた教室も、流石に最終日となるとバレンタインからはだいぶ離れていた。
ふと、友斗くんと美緒ちゃんのことを考える。
彼は……来年、小学五年生。今年2分の1成人式をやったと聞いた。ならそろそろバレンタインのチョコを貰ってもおかしくないな。従姉だし、家も特別遠いわけじゃないからバレンタインのチョコくらい渡してもいいのだけど、そうしない理由がある。
今年から、美緒ちゃんが彼にチョコを作ってあげたいと言ったのだ。
妹から兄への、感謝のチョコレート。
まだ小学二年生なのに大人だなぁと思いつつ、ボクは美緒ちゃんのお母さんと一緒に手伝ってあげた。
「折角の初チョコなんだもん。ボクので霞ませちゃ、申し訳ないよね」
来年は、ボクもあげようか。
それとも彼は本命チョコを貰って、もう家族からのチョコなんて恥ずかしいと思っちゃうだろうか。
そう考えていた。
軽々しく、考えていた。
「時雨姉さん……っ。どうしよう……兄さんに、チョコ渡せなかった……」
帰り道。
違う学校のはずの美緒ちゃんは、ボクの下校路に立っていた。
「美緒ちゃん!? えっと……どうしたの?」
「分からないっ。けど。兄さんに、何故だかチョコを渡すのが恥ずかしくて。家で渡しちゃ、ダメな気がして。学校に持って行ったけど……そしたら、他の子から貰ってて」
美緒ちゃんは苦しそうにきゅっと胸を押さえながら言う。
初めてだった。
こんな風に美緒ちゃんが苦しそうにしているのは初めてで、ボクは戸惑いつつも公園で話を聞いた。
家で渡すのは、違う気がした。だから学校で渡そうと思ったのだけど、ちょうど渡そうとしていたところで彼は告白されていた。それを見て、苦しい気持ちになり、その日から今日までついぞチョコを渡せずにいるのだという。
「分かんないよ……。私、どうしちゃったの……?」
分からない、と言えればよかった。
もしくは、ただ照れてるだけだね、とでも言えたのならそれでもよかっただろう。
けれど違うことに、気付いてしまった。美緒ちゃんのその横顔を見て、流れる涙を捉えて、その輝きの切なさに気付いてしまった。
美緒ちゃんは、彼が好きなのだ。
でも家で渡せば、本格的に家族としてのチョコになってしまう。
ならせめて、学校で。美緒ちゃんは半ば本能的にそう考えたに違いない。
けれども――彼は別の子に告白されていて。
だから苦しくなっている。
「ねぇ時雨姉さん。教えて?」
上目遣いで言う美緒ちゃんを見て、どうして気付かなかったんだろう、と悔いた。そして同時に気付く。ボクは気付いていたのに見て見ぬフリをしていただけなのだ、と。
だって――ボクが彼を『彼』と呼ぶのは、『友斗くん』と呼ぶと美緒ちゃんが不機嫌になるからで。『兄さん』としか呼べない美緒ちゃんの、幼いヤキモチだったのだから。
「……なんだろうね。ボクには分からないや。ごめん」
それでもボクは、まだ見て見ぬフリを続けることにした。
美緒ちゃんが気付いていないのならいいじゃないか。もしも、それが恋心だと気付いてしまえば、三人ぼっちから二人ぼっちに逆戻りしてしまう。無関係なボクが二人の世界にいることは許されなくなるのだ。
そんなのは、嫌だから。
どうか気付きませんように、気付かないうちに『好き』が風化しますように。
そう神様に祈った。
――願いは、叶わなかった。
「私は、兄さんのことが好き。兄としてじゃなくて、男の子として好きなの」
ホワイトデーも終わった三月の下旬。
美緒ちゃんはボクに相談したいと言って、家までやってきた。そうして口から出た言葉に、ボクは運命を呪った。
或いは、それが小学二年生の戯言だと一蹴してしまえれば楽だった。
子供のくせにませたことを、と馬鹿にできたら幸せだっただろう。
でも美緒ちゃんの目は、どうしようもなく恋する乙女で。
宝石みたいにキラキラしていて。
認めざるを得なかった。
この恋は、絶対無敵の恋だ。
法も、常識も、倫理も、道徳も、全てに「知ったことか」と突きつけることが許されるような、神様の夢想で生まれた色褪せることのない恋だ。
そして――その恋に、ボクの居場所は存在しない。
「その気持ちは持っちゃいけないんだよ。美緒ちゃんなら分かるでしょ?」
導かれるように、もしくは抗うように。
ボクは口にしていた。
「美緒ちゃんはまだ、小学二年生だよ。彼は、うん、確かにかっこいい。同級生の子が子供に見えちゃって、だから比べてみると彼のことが好きだって思っちゃうかもしれない」
そんなエラーのような気持ちじゃないことくらい、分かり切ってるのに。
「でもね、それは勘違いだよ。勘違いじゃないとしたら、持っちゃいけない気持ち。分かるでしょ? 美緒ちゃんは妹で、彼はお兄さんなんだよ。血が繋がってたらダメなの」
「……っ、でもっ」
「いい子にしないとダメだよ、美緒ちゃん。サンタさんが来る日に生まれた美緒ちゃんは、誰よりもいい子にしてなくちゃダメ。分かるでしょ?」
分かるでしょ、分かるでしょ、と。
何度も言って聞かせて……ボクは、美緒ちゃんの想いを切り刻んだ。『間違い』の三文字のラベルをべたべたと貼り付け、強引に彼女の恋を終わらせた。
――美緒ちゃんは、死んだ。
ボクのせいだった。
誰が何と言おうと、ボクがあの子の気持ちを終わりにしたせいだった。残ったのは月と空だけ。
太陽に照らされない月は、永遠に新月で。
煌めかない月を抱く空は、常に空っぽで。
ボクらは二人ぼっちになった。
ボクのせいで。
ボクがあの子の想いを終わらせたせいで。
◇
「想いを、結ばないと……っ」
強く、強く思う。
これは贖罪だ。
あの子の想いを継ぐに値する子と彼を繋げて、美緒ちゃんの想いを結ぶ。そうしなければボクは、終わらせてしまったことへの赦しを得られない。
澪ちゃんと大河ちゃん。
あの子たちが想いを継いでくれれば、ボクはボクを赦せる。もう一度、彼とあの子の姉として生き続けることができる。
だから――
――とぅるるるるっ
唐突に、スマホの着信音が鳴り響いた。
スマホ画面を見て、顔をしかめる。電話をかけてきているのは彼だった。
「もし、もし?」
『おはよう、時雨さん。迎えに来たよ』
「へ?」
彼らしくなくて彼らしい、気取った言葉。
あんまりにも急だったから理解できずにいると、
『窓から顔を出してみてよ。そうすれば分かるからさ』
と言われた。
窓って……え? 今日は雨のはずなんだけど。
そう思いつつもベッドを下りて、窓際に寄る。
窓から外を見下ろして、家の前に車が止まっていることに気付いた。あれは……お父さんの車じゃない。
「えっと……もしかして、車?」
『そうよ、時雨。迎えに来てあげたの』
「えっ、その声って――」
恵海ちゃん!?
なんで電話の向こうから恵海ちゃんの声が……?
『ま、そういうことだから。雨の終わりを見つけに行こうよ。そうしたら何か、見つかるかもしれないでしょ?』
何一つ、分かりはしないのに。
キミは美緒ちゃんにキラキラした世界を見せたみたいに、言った。




