八章#35 返り討ち
SIDE:友斗
世界に名を知られる諮問探偵は言ったそうだ。
『全ての不可能を消去して、最後に残ったものが如何に奇妙なことであってもそれが真実となる』と。
これは即ち、消去法を指しているのであって。
であれば俺と澪の推論は、必ずしも真実だとは断言できない。俺たちはあくまで集めた情報のもとに推論を組み立てたにすぎないのだから。
けれども――この推論へのカウンターは、ちっとも浮かんではくれない。
「時雨さん。今日、一緒に帰らない?」
生徒会の仕事を終えて、俺は真っ先に時雨さんに告げた。
もしも俺たちの推論が正しいのならば、一刻も早くそれを時雨さんに突きつけなければならない。次にいつ時雨さんが攻勢に出るのか分からないのだから。
時雨さんは迷ったように笑い、それから大河を見遣る。
「んー。ボクよりも大河ちゃんを送ってあげた方がいいんじゃないかな。それとも大河ちゃんとは――」
「霧崎先輩、違います。今日は私、澪先輩と帰る予定なんです」
時雨さんの言葉を遮って大河が言う。
嘘ではない。澪には今日、大河と帰ってもらうことにした。もともと今日は大河が家に泊まる予定だったしな。俺が時雨さんと話したいことがあるとも伝えてもらっていたため、援護射撃してくれたのだろう。
俺は大河に感謝の視線を送ってから、時雨さんに向き直る。
「そういうわけだから、一緒に帰ろうよ。時雨さんと話したいことがあるんだ」
「……っ、そっか」
時雨さんは一瞬顔をしかめ、元の柔らかい表情に戻ってから頷いた。
めいめいに帰り支度を済ませ、帰っていく。俺と時雨さんも大河に鍵の返却を任せ、帰路についた。
闇色の外は、思わず震えるほどに寒かった。
見上げた空には星々が浮かんでいる。このあたりは都内でもビルが少ないから、割と空は広い。オリオン座を見つけて、ふっ、と頬を綻ばせる。
「ごめんごめん、待たせたね」
「ううん。行こうか」
靴を履き終えた時雨さんと歩き始める。
時雨さんは、白いレースのマフラーを巻いていた。ホワイトグレーのダッフルコートを着込み、邪魔にならないように銀髪を流している。
白に包まれた時雨さんは、雪の妖精みたいだった。
「もうすぐ、クリスマスだね」
歩いていると、時雨さんが呟いた。
意味を勘繰りそうになりつつも、そうだね、と答える。
「ちょうど来週がイブだよ」
「イブは24日じゃなくて、24日の夕方以降のことですよ――って、大河ちゃんは正してきそうだね」
「はは……かもね」
肩を竦めることしかできないのは、気付いてしまったから。
大河の名前が出ただけで声が詰まりそうになる。
「キミは……もう、プレゼントは買った? お父さんからバイト代は払われてるでしょ?」
「いいや、まだだよ。昨日入金されてたからさ。流石に行く時間がないから、土日にでも行こうかな、って」
「そっかそっか。じゃあ選ぶの、ボクも手伝ってあげようか? この前みたいに」
この前と言われて、思い出すのはハロウィンのとき。
俺は時雨さんに、三人のために買うお菓子を用意してもらったのだった。
――キミにとっては、あの子も大切な存在なんだね
――ううん、なんでもない。四人仲良しが一番だよね、って思っただけ
なぁ、と思う。
あのとき時雨さんが考えていた“四人”って……それって―――。
「ううん、大丈夫だよ。自分で考えるから意味があるんだって雫に気付かされたから」
「そっか……」
がたんごとん、と電車が通り過ぎる。
静けさに満ちていた道はとたんに騒がしくなって、かと思えばまた静寂が戻ってくる。或いは、騒がしさの分だけ余計に音が消えているようにも感じられた。
「それで――ボクに話って、なにかな? このシチュエーションじゃ、告白だって思われても仕方がないよ?」
音が消えていた世界で、時雨さんの声ががらんどうに響いた。飲み込んだ息は鉛のように重くて、でもそもそも鉛の重さを知りはしなくて、知らないもので喩えた自身の浅ましさを悔いる。
それは――今までの俺の、霧崎時雨その人との向き合い方に対しても同じことが言えた。
知らないくせに安堵したり、不思議な人だと思ったり、敵わないと決めつけたり。俺はこの人とちっとも向き合ってはいなかった。
胸のうちに広がるのは、あの日抱いた安堵への後悔。
――時雨さんが名前に気を取られてくれてよかった
そんなこと、なかったのに。
時雨さんは俺が思うよりも遥かに美緒を大切に思っていて、澪と美緒が似ているのが名前だけじゃないんだと気付くに決まっていたのに。
俺は勘違いをした。だから正すべきだ。
「告白というより……答え合わせ、かな。もしくは探偵の推理パート」
探偵くんが当ててみればいい。そう告げたのは時雨さんだ。
時雨さんは苦笑し、そっか、と目を細めた。一人ぽっちの泣きぼくろに目が行く。
「じゃあ聞かせてよ、探偵くん。推理小説でも書いた方がいい。そう言わせてくれたら嬉しいな」
「…………なら最初から。時雨さんはどうして澪に、美緒のことを教えたのか。あまつさえ、美緒の代わりになるように仕向けたのか」
「聞いたんだね」
まぁね、と肯う。
「他にも色々と聞いたけど……それは置いておいて。理由は単純というか、考えるまでもないことだった。行動自体が理由になってる。澪に美緒の代わりになってほしいと考えたから、だ」
「…………うん、それで?」
「次に夏休みのとき。大河の背中を押して、俺に踏み込ませたのは何故か。俺と大河のことを話すとき、わざわざ美緒のことを話題に出したのは何故か」
これも答えは単純だ。
「澪のときと同じ。大河にも、美緒の代わりになってほしかったから」
「…………」
澪も、大河も、それぞれ美緒と似ている部分がある。
澪は顔と笑い方が、大河はその真っ直ぐさが、美緒によく似ている。俺が二人と関わるようになったこと自体が美緒の面影を感じたゆえなのだから、時雨さんがそう感じるのは不思議なことではない。
「澪は俺の義妹になって、大河は俺の妹分のようになって。時雨さんは二人も美緒の代わりを用意した。でも夏休み、時雨さんには一つ想定外のことが起きた」
それは、と俺は深く息を吸って続ける。
「俺が美緒の死と向き合ったこと。あの子と向き合って、俺は変わった。澪と俺は義兄妹という“関係”ではなくなった」
澪と雫と大河。
三人がいてくれたから、俺は美緒と向き合えた。
であるならば、雫を計算に入れていなかった時雨さんにとって、俺が美緒の死と向き合ったことは想定外だったはずだ。
「それなのに時雨さんはそれを邪魔しようとしなかった。何故か……それは、時雨さんにとって美緒は俺の妹ではなかったからだ」
「っ」
「時雨さんは美緒の想いに気付いていた。だから文化祭や選挙を経て、俺と澪や大河を結びつけようとした。逆に美緒の代わり足りえない雫を排除しようとした」
どうして文化祭より前、雫に対してアクションを起こさなかったのか。
この答えはおそらく――俺が雫を好きではないことに気付いていたからだ。
想いが介在しないのに恋人になった。
その“関係”が長続きしないことなど分かっていたから、時雨さんは雫を歯牙にもかけなかった。暫定的な彼女にすぎないのだと確信していた。
しかし俺が美緒と向き合ったことで雫の存在が俺の中で大きいことに気付き。
ならば、と雫にアクションを起こし始めたのだろう。
「色々言ったけど……まぁこの辺は全て、これから話すことの前提だよ。推論のための推理。この仮定が間違っているなら、俺は探偵じゃなくてピエロだったことになる」
だから教えてよ。
俺はそう、時雨さんに言う。
「ここまで話したことで間違ってたことはある?」
「……ないよ。何一つ、間違ってない。澪ちゃんの行動も、大河ちゃんの行動も、文化祭のアレコレも、選挙の一件も、雫ちゃんの苦悩も――全て、ボクの思惑通りだった」
否定、してほしかった。
そんな風に思っている時点で、俺は時雨さんに幻想を押し付けていたのだと気付く。
「さて、名探偵クン。キミは一体、どんな答えを見つけたのかな?」
体の奥がキンと冷えた。
冬だから、当然だった。
思い出すのは、壬生聖夜のこと。
作品それぞれが12の月をテーマにし、各月によって作品の雰囲気が異なっていた。
喜劇的なのは1月、5月、7月、8月、12月の5か月。逆に悲劇的だったのは2月、3月、4月、9月の4か月。
前者には何があるのか。
澪と話したことを踏まえれば、、答えは見えてくる。
1月と8月は帰省したから、俺と美緒は時雨さんと会うことが多かった。7月も夏休みで、時雨さんの家に招かれて遊んでもらったりした。
5月と12月はそれぞれ、俺と美緒の誕生日。時雨さんを家に招いてバースデーパーティーをしたこともあった。逆に9月は夏休み明けで学校の行事も盛んになるため、ほとんど時雨さんとは会えなかった。
では問題は、2月から4月にかけて何があるのか。
ここに一つの答えがある。
時雨さんは美緒の想いに気付いていた。いや、相談されたのかもしれない。美緒は小二の2月のときから少し様子がおかしくなり、3月にもその状態が続いた。そして――4月に俺に想いを告げ、美緒は死んだ。だから悲劇的な空気が流れていたのだろう。
加えて――あの人のペンネームだ。
壬生聖夜。俺は当然のように『みぶ』と読んでいたが、『壬生』には『みお』という読み方もできる。聖夜、すなわち12月24日は美緒の誕生日の前日。縁もゆかりもない『みぶ』より『みお』と読む可能性の方が、よほど信じられる。
だとすれば、だ。
『カミサマに物語を捧げます』
このカミサマとは一体誰だ?
一般的に、クリスマスはイエス・キリストが生まれた日だとされている。文献を漁って計算すると、彼の逝去は4月なのだそうだ。
12月に生まれて、4月に死んだ存在。
明白だった。
「時雨さんは美緒のことを俺と同じくらいに、ううん。もしかしたら俺以上に、大切に思っていたんだ。だからこそあの子の死と、本当はまだ向き合えていないんじゃないかな」
時雨さんの欲しいものは、物語に描かれていたものそのものだった。
「俺がいて、美緒がいて、時雨さんがいて。そんなあの頃を取り戻そうとしてる」
それは、少し前までの俺とよく似ていた。
美緒の死を受け止めることができず、依存対象として雫に声をかけて。
よく似た顔の澪と関わり、代わりにせんとし。
性格が酷似した大河が離れていかないように補佐というラベルを貼りつけて。
そうして美緒を取り戻そうとしていた俺、そっくりだった
ならばこそ、俺は言わなければならなかった。
「もしそうなら――もう、そんなのはやめるべきだ。そんな風に誰かを代わりにしようとしても、意味はない。澪は澪で、大河は大河で……あの二人は《《ちっとも美緒に似てないんだから》》」
「……っ」
「美緒は死んだけど……ここにはいないけど……でも、それは終わりってことじゃないんだ。先にゴールで待っていてくれるだけで……俺も時雨さんも、いつかは美緒のところに行く。あの子は今、見守ってくれてるんだよ俺たちを」
故人のことを悼むのは悪いことではない。
忘れられないことだって、悪いことじゃない。
だって俺は、まだ美緒のことを愛してる。もしも生き返って俺に抱き着いてくれるのなら、心からの言葉でプロポーズすることだろう。
《《でも》》死んだのだ。
今はこの場に居なくて。
それでも俺たちは、生きていきたいと思っている。今周りにいてくれる人のために。
その『周り』には故人も含まれているのだから。
「あの頃は、いつかまた取り返せる。それは誰かとじゃダメなんだ。代わりの誰かじゃなくて、美緒本人と取り戻さなくちゃ意味がないんだっ! だから――今はあの子に嫌われないように、叱られないように、かっこよく生きていかなきゃダメなんだよッ!」
ああ、くそ。結局頭の中はぐちゃぐちゃだ。時雨さんに届けたい言葉はもっとたくさんあるはずなのに、口をついて出てくるのは不恰好なものばかり。
それでもうどうか、届きますように。
そう祈って見つめた時雨さんの瞳は――酷く、冷たかった。
「そんなの……キミだって、できてないじゃん」
「――ッ!?」
「キミの本質は、あの頃から変わってない。キミだってあの子たちを、美緒ちゃんの代わりとして捉えてる」
「っ、そんなことは――」
「ない、わけがないよ。じゃあどうしてキミは文化祭のとき、もっと早く澪ちゃんを助けてあげなかったの? 気付いていたことを友達に話しておけば、澪ちゃんはもっと早く自分で答えに辿り着いていたかもしれない」
「それは……っ、澪が自分で気付くって信じてて――」
「本当に、それだけ?」
体が、冷えていく。
体の芯から外側へと冷たさという名の熱が電波して、どうしようもなく凍える。戦慄く唇は言葉を編んではくれず、代わりに時雨さんが続けた。
「選挙のときは? 話し合う。たったそれだけのことを、キミは本当に思いつかなかったの?」
「っ、それは話をしても――」
「――意味がないくらいに意思が固まってるように見えた、って? 本当に? 大河ちゃんの誠実さなら何か光明を見出せる可能性はあった。もっと大河ちゃんを信じてあげれば、幾らでも方法はあったはずだよ。事実、ボクは幾つも用意してあげた」
頭が真っ白になる。降り積もる、残酷な雪みたいに。
「雫ちゃんのときは? どうしてキミはボクに任せず、雫ちゃんのもとに自分で駆けつけようとしたの? 生徒会でも、クラスでも、同じことだよ。キミは何かと自分でやりたがる。困っている人を助けて、力になりたがる」
それは、と時雨さんは俺を指さした。
「人のことを思った、優しいものなんかじゃない。あの子たちだけじゃなくて周囲の人みんなを美緒ちゃんの代わりにして、誰かの力になれる自分に依存しているんだよ」
「…………っ」
「キミは美緒ちゃんの死とは向き合ったのかもしれない。けれど、《《美緒ちゃんの生とはちゃんと向き合ったの》》?」
言葉が出なかった。
だって――否定できなかったから。
誰かの力になることで……助けることで、いてもいいんだ、と俺を認めることができた。
「ボクだって、キミと同じだよ。美緒ちゃんが死んだことなんてとっくに分かってる。それでも……それでもキミたちはっ! 死程度で分かたれちゃいけないんだよッ! あの日ボクが否定してしまった想いを守らないと。それが……それがっ、お姉ちゃんとしての役目なんだからっっ!」
冷たい目からは、涙がぽとりぽとりと零れていて。
俺は一歩もそこを動けなくて。
「キミが美緒ちゃんの兄としての生き方以外を知らないように、ボクはあの子とキミのお姉さんとしての生き方以外を知らない。それが悪いことだなんて思わない。思ってやらないよ」
時雨さんはそう言い残して、闇へ去っていった。
追いかけることも、引き止めることもできない俺は、ただただその場で立ち尽くした。
クリスマスイブまであと一週間。




