一章#27 セフレとの話(急)1
月曜日、昼休み。
俺は独りぼっちで屋上にいた。
ぼっちなのはいつものことだ。誰かのことをきちんと掴んでいられない俺は、数えきれないくらいに薄くてか細い『さよなら』を繰り返してきた。
だから慣れている。慣れてしまった。
昨日、俺は雫に好きだと告げられた。
その後、特筆すべきことは何も起きていない。普通に夕食を食べ、風呂に入り、駄弁り、そして眠った。
朝になると、雫は勉強合宿だから、と少し家を早めに出た。顔を合わせるのは気まずいが、それで逃げるのは流石に不誠実すぎる。綾辻と一緒に、ちゃんと見送った。
それからはずっと、延々と雫のことを考えている。
綾辻は今日、少し用事があるらしい。雫がいない以上わざわざ一緒に昼食を摂る必要性もないし、俺も一人になりたかったから、今日はバラバラの昼休みを過ごすことにした。
だから俺は今、こうして一人で屋上にいる。
こんな状況を『独りぼっち』などと表現するのは、些か烏滸がましすぎるだろう。今の俺はただ、女々しく孤独なふりをしているだけだ。
正直に言えば。
雫の恋愛感情に全く気付いていなかったわけではなかった。
雫が今のようになったことに、少なからず俺は関わっているだろう。でも、雫はその恩返しだけで俺に関わろうとする女の子ではない。というか、恩返しの必要自体がどこにもないのだ。
ちょこちょこデートに誘ってくれて。
時折思わせぶりなことを言って。
ボディータッチもほどほどにしてきて。
でも俺のふとした言葉で素に戻って赤らむ。
そんな姿を見ていて、それでも恋愛感情に気付かないのだとしたらそいつは馬鹿野郎だ。
鈍感主人公は、本当は鈍感なのではない。
敏感ゆえにこそ、あえて目を逸らしているだけなのだ。
俺もそうだった。
だって俺は、雫に好かれるべきではないから。
屋上のフェンス越しに見下ろした道路では、ぐぅーと自動車が走っている。遠くを見遣れば大きな国道があり、何台もの車がグングンすれ違っていた。
その中にひと際大きなトラックを見つけたとき、頭の中で嫌な光景が再生されてしまう。
昨日の、あの瞬間でさえ。
決して他ごとに気を取られてはならない瞬間でさえ、俺の脳裏には最悪の光景が浮かんでしまった。
――なぁ。悲劇の主人公ぶるのは楽しいか?
まるでそう尋ねてくるみたいに、何度も何度もあの日の光景がフラッシュバックする。
みたい、じゃない。
事実、俺の死にかけの良心が再三問いかけてくるのだ。
――なぁ。悲劇の主人公ぶるのは楽しいか?
「楽しいわけ、ねぇだろ……っ」
俺だって、変われることなら変わりたい。
冷静に客観視すれば、自分がどれだけ気持ち悪い異常者かどうかなんてはっきりと分かる。
それでも変わることができない。変わりたいという意思さえあれば人は変われるだなんて、あんなものは嘘だ。どうしようもなく弱い人間は、決して変われない。ただ擬態できるだけだ。
――ぶるるるるっ
屋上のフェンスをくしゃっと手で握ったとき。
ポケットの中に入れていたスマホが振動した。
もしかして、雫だろうか。あっちも昼休みなのかもしれない。俺のことを好いてくれているのなら、RINEをしてきてもおかしくはないだろう。
そう思ってスマホを確認し、ぎょっとした。
RINEの通知だったのは予想通り。但し、送信主は予想と違う。
送信主は綾辻だった。
【MIO:ABC DAY1930】
アルファベットと数字を並べただけのメッセージ。
その意味を知っているのは、この世界で俺と綾辻以外にいない。
何故ならこれは、俺と綾辻がセックスをしたいという意思表示のために使っていた秘密の暗号なのだから。
◆
古い漫画がある。
俺が生まれるよりずっと前に連載開始し、テレビアニメも放送されていた作品だ。俺がその作品を知ったのは、中学三年生の頃に新しくアニメ映画が公開されるという話を聞いたことがきっかけだった。
その主人公は危険な仕事を依頼されるのだが、彼に依頼をするために必要なのがとある三つのアルファベットだった。
俺と綾辻がセフレになった頃。
SNSで繋がるべきではないと考えた俺たちは、双方ともが知っていたこの作品の暗号を真似して、『ABC』という最初三つのアルファベットを暗号とした。
ルールは簡単だ。
シたくなったときには、相手の机に『ABC』の暗号と日時を書いた紙を入れる。
当日ならTODAYの『DAY』、翌日ならTOMORROWの『ROW』、それ以降の場合は赤字で日付を記す決まりだった。大抵の場合は『DAY』か『ROW』だったわけだが。
つまり、先ほどのメッセージはこう読むことができる。
『今日の19時半、セックスがしたい』
別に驚くことではない。
むしろ、よく持った方だと思う。数か月前までは月に三、四回は少なくともシていたのだ。同居生活が始まってから二週間ほど。雫がいるからシてはいけないと分かっていても、どうしても性欲に駆り立てられていた。
このタイミングなのか、と歯噛みしたくはなる。
だがそれはあくまで俺の事情だ。俺たちのセフレ関係では、物理的な事情以外を考慮しないのがルールだった。用事があったり体調が悪かったりしない限り、誘いには必ず乗らなければならない。
午後の授業が終わって家に帰ると、綾辻は涼しい顔でテレビを見ていた。
着替えてリビングに戻ってもそれは同じこと。
さっきのメッセージについて話そうとはせず、他の雑談を交わそうともしない。
雫がいないからだろうか。俺と綾辻の間には明らかな距離があり、ぽつぽつと静寂が部屋を満たしていた。
時刻は午後7時。そろそろ夕食を作り出す時間だ。俺がキッチンに立とうとすると、綾辻がこちらを一瞥した。
「今日は雫いないし、ピザでも注文しない? 百瀬、一人じゃ料理できないでしょ」
「雫に教わったんだからそれなりには料理できるぞ? 別に一人でできないなんてことは……」
「いやいや、まだ百瀬一人じゃ無理だよ。そもそも料理って献立考えたり買い物に行ったりするところからだったから」
「うっ……ごもっとも」
確かにそうだ。これまでの俺は雫に献立を考えてもらい、足りない食材があるときには一緒に買いに行ってもらっていた。
……ヤバいな。テキトーに家事に手を出して奥さんに怒られる旦那みたいじゃないか。
はぁ、と綾辻は小さく溜息とついた。
耳たぶをちょこんと摘まみながら口を開く。
「それに正直なところ片付けも面倒くさいんだよね。これからするんだし、疲れない方がよくない?」
「……っ」
綾辻の口ぶりには、恥じらいも躊躇いも見られない。
淡泊でフラット。
義母さんと父さんが再婚する前の俺たちはこんな風だった。
俺たちはセフレ。
セックスもするフレンド、ではない。
セックスしかしないフレンド、なのだ。
今更ながらに思う。俺たちは酷く不健全な関係だ。こんなものは早く終わらせるべきだった。
というか俺たちが家族になると知ったとき、本当はその話をしなければならなかったのだ。
――なぁ綾辻。今後どうする?
俺はあのとき、セフレ関係をどうするのか尋ねたつもりだった。
綾辻もそのことは分かっていただろう。分かったうえで綾辻はあえて呼び名の話をした。
その気持ちは正直嬉しい。それだけ俺とのセフレ関係を大切にしてくれているということだから。
でもこのままズルズルとこの関係を続けることは許されない。
雫に好きだと告げられて、それでも姉の綾辻とセフレで在り続けられるほど、俺は厚顔無恥ではない。
だから俺は、
「なぁ綾辻。もう、こういうのはやめないか?」
世界で一番大切な人の顔をした少女にさよならを告げた。