八章#02 天の上のラプンツェル
SIDE:時雨
【rain:分かったよ、お父さん】
【rain:じゃあ今日はいつも通り帰るね】
お父さんに返信を送りながら、秋風に靡く髪の毛先を見つめていた。
夕焼けが青ざめて、辺りは紺色に染まっている。焦げてしまったような黒とは違う、色を重ねたような闇に近いダークブルーが、好きだった。
昔から冬を愛している。
ボクの名前自体、ボクの誕生日に雨が降っていたから付けたのだ、とお母さんが言っていた。ロシアでにわか雨を指す『リーヴィニ』と付けるか、それとも日本語で晩秋から冬にかけて降る『時雨』と付けるかで、結構揉めたらしい。
彼と美緒ちゃんの名前はそうではなかったそうだ。
友斗は、友達ができてほしいから。美緒は響きの良さと、綺麗な心を持つ人になりますようにとの願いを込めて。水の緒と書いて水緒にしようか、と悩んだんだよ、と前に教えてもらった覚えがある。『水』じゃなくて『美』でよかった、と美緒ちゃんは言っていた。
「霧崎先輩……こんなところにいらっしゃったんですね」
考えていると、きぃと扉が開いた。
短く綺麗な髪が眩しい女の子。入江大河ちゃんの姿に、ふっ、と私は微笑んだ。
「ごめんね、探させちゃったかな?」
「いえ、少しだけ……お聞きしたいことがあるんですが、いいですか?」
「うん、もちろんだよ。お姉さんに任せて」
「あはは……それを姉が聞いたら、怒りそうです」
「ふふっ、本当だね」
夕暮れが、凪いでいる。
ボクは大河ちゃんと共に屋上を出て、鍵を閉めた。
同時に――思い出す。この夏、彼女と過ごしたあの夕方を。
◇
もうすぐ夏休みに入る、という一学期の終業式。
生徒会室ではボクと大河ちゃんと彼と、あと生徒会のメンバーが仕事に取り組んでいた。休み前ならばもう少し弛緩した空気でもいいはずなのに、痺れてしまいそうなピリピリとした緊張感に満ちている。
その理由は、言うまでもない
「あの――」
「バックデータがファイルに入ってるからそれを見て処理しろ。ファイル名は『事後処理04』な」
「……はい」
かたかた、かたかた。
「百瀬せん――」
「そこはこの書類からの転記な。サーバーに同じ書式のファイルをあげといたから、今年からは紙じゃなくてデータに移行してくれ」
「……はい」
するする、するする。
かち、かたかたかた――。
「あの、コー――」
「さっき自販機で買ってきたからいい。気、遣わなくていいぞ」
「……っ」
と、いった感じで。
彼と大河ちゃんのやり取りが、どうしようもなく険悪だったのだ。二人とも助っ人として参加してくれているのにとても優秀だから生徒会内で存在感があり、他の生徒会の子にも影響するのだ。
まして、大河ちゃんは特別な女の子だから。
彼女の真っ直ぐさは、美緒ちゃんによく似ている。彼が彼女を紹介してくれたとき、ボクは息を呑んだ。
そんな子だから、当然のように彼は彼女をとても大切に扱っていて。それなのに今、二人の仲は千切れてしまいそうになっていた、
どうして二人の仲がこうなっているのかは、残念ながら分からない。
ただどうやら彼が大河ちゃんを一方的に避けているように、ボクには見えた。その理由までは流石に分からないけれど。
「ねぇ時雨さん。俺の分の仕事は終わったし、もう帰っちゃダメかな」
暫く経って、彼がそう告げたとき。
大河ちゃんの目が、とても哀しそうな色を孕んだ。
「何か用事があるなら考えるけど……そういうわけじゃ、ないんだよね?」
「一応そうだけど。人を待たせてるし、早く帰れるに越したことはないんだよ」
「ふぅん。嘘ではないみたいだね。けどダメ。キミの仕事は、キミの分の仕事を終わらせることだけじゃないでしょ。監督責任を果たしなさい」
「……ッ」
彼は、唇を噛んだ。そして、悔いるように言う。
「それなら俺の上司の時雨さんが見てあげてよ。二学期になったら生徒会選挙もすぐそこなんだし、実際の会長の下についた方が有意義でしょ」
「ボクが教えられることは、キミだって大抵教えられるはずだよ。それに彼女を補佐にしようって言い出したのはキミであってボクじゃない」
ボクと彼との言い合いに、大河ちゃんは申し訳なさそうに口を挟んだ。まるで、美緒ちゃんがそうしたように。
「霧崎会長。私は大丈夫そうなので、百瀬先輩には帰っていただいてもいいんじゃないでしょうか」
結局、大河ちゃんのその一言が決定的になり、彼は帰ってしまう。
それからの生徒会室はピンと張り詰めた糸のような空気だった。誰かが何かを言えば決定的にぷちんと切れてしまうような気がして。
誰も口を開かず、やがて下校時刻になってお開きになる。
「ねぇ大河ちゃん。一緒に帰らない?」
寂しげな背中を見て、ボクは彼女に声をかけた。
「えっ」
「彼のことで、悩んでるんでしょ? ならお姉さんに話してみてよ。少しは力になれるかも」
「霧崎会長と百瀬先輩は……どういったご関係なんですか?」
言われて、ああ、と思い出した。
そういえばまだ説明していなかったんだっけ。くすりと苦笑し、そっと囁く。
「従姉弟だよ、従姉弟」
「そう……なんですか⁉」
「うん、そう。だから彼のことで相談に乗れると思う。彼のこと、好きなんでしょ?」
「なっ――」
ボクの指摘に、大河ちゃんは驚いて声を出し、そして慌てて口を塞いだ。
うぶなその反応に、ちくりと胸が痛む。同時にやっぱりとも思った。
この子もまた、美緒ちゃんの代わりに値する存在だ。あの子の想いを継ぐことができる。澪ちゃんと被ってしまうけれど……そんなことは、どうでもいい。カミサマの意思を一人で継げるわけがないのだから。
「どうかな。話して帰らない?」
「…………お願い、します」
少し頬を赤く染めながら頷く大河ちゃんの姿は、ボクに想いを明かしてくれた美緒ちゃんによく似ていた。
下校しながら大河ちゃんが話してくれたのは、彼の話。
彼が、好意を抱いていないのに雫ちゃんと付き合っていて、そのせいで彼は苦しんでいる。だから自分は助けてあげたいのだ、と。そういう話だった。
「気持ちが追いつかない関係なんて……苦しいだけだと、私は思うんです」
「うん」
「けど、百瀬先輩に言われてしまって。自分には無理だからやめてくれ、って……っ」
「うん、そっか」
彼のことをこんなにも想ってくれていることが、とても嬉しい。
同時に、この子には彼の隣を歩いてほしい、とも感じた。
澪ちゃんは彼に寄り添ってあげられるけれど、美緒ちゃんのように彼を叱ってはあげられない。逆に大河ちゃんは彼に寄り添いはしないけれど、背中を押してあげられる。
二人とも、必要だ。
二人で美緒ちゃんの代わり足りえる。
彼とボクと澪ちゃんと大河ちゃん――その四人でなら、あの頃を取り戻せる。
「あのね、大河ちゃん。彼には、ちょっとしたトラウマがあるんだ」
「……トラウマ、ですか」
「うん。詳しいことは、彼の口から聞いてほしいけれど。そのトラウマのせいで彼は、変われない、って思ってる、もう自分は今みたいに最低なままじゃないといけないんだ、ってね。もしかしたらそうすることで自分を罰しているつもりなのかもしれない」
大河ちゃんは息を呑んだ。
「そんなの……百瀬先輩が、可哀想です」
そう告げられる大河ちゃんだから、代わり足りえる。決して一緒の堕ちない大河ちゃんが、彼には必要なんだ。
「そうだね。けど、ボクは彼に何もしてあげられな。一緒にいて、生徒会を手伝ってもらって、それで少しは自信を取り戻してくれるかと思ったけれど……そうじゃなかったから」
「そう、だったんですか」
「うん。でも、大河ちゃんなら彼を変えてあげられるかもしれない。うじうじと悩む彼の背中を、大河ちゃんなら押してあげられるかもしれないって、ボクは思うんだ」
言うと、大河ちゃんは後ろめたそうに俯いた。
「でも……私の言葉は、届きませんでした。私じゃ、ダメなのかもしれません。百瀬先輩が求めていないのなら、私は――」
「そんなことはないよ。きっと彼は、叱ってくれる誰かを待っている。自分のために愛の鞭を振るってくれる、誰かを」
嘘ではない、はずだ。
ボクは髪を耳にかけながら続ける。
「『好き』は絶対無敵の免罪符だよ。だから彼のことを愛してくれるのなら、愛の鞭を振るってあげて?」
「――っ。踏み込んでも、いいと思いますか?」
「もちろんだよ。踏み込んであげてほしいな」
大河ちゃんは決意に満ちた表情で、こく、と頷いた。
真っ直ぐなその瞳はとても綺麗で、愛おしい。この子と彼が並んでくれたら、どんなに幸せだろう。
「頑張ってみます。ありがとう、ございます」
「ううん、楽しみにしてる。大河ちゃんこそ、彼の隣にいるのにふさわしいと思うから」
それから数日後。
彼と大河ちゃんは二人でプール掃除をして、きちんと向き合った。
お似合いな二人の完成で。
だからボクはお盆のとき、美緒ちゃんに告げたのだ。
「大丈夫だよ。澪ちゃんと大河ちゃんは、もうすぐ美緒ちゃんの想いを継いでくれる」
◇
ボクには、世界で一番大切な人が二人いる。
一人は百瀬美緒。一人は百瀬友斗。二人のいとこは、ボクにとってかけがえのない存在だった。あの二人が並んでいるのを見るのが、好きだった。あの二人と一緒にいるだけで、世界は色づいた。
なのに、美緒ちゃんはボクらの前を去った。
あの日からずっと、代わりを探していて。
文化祭と生徒会役員選挙を経て、ようやく澪ちゃんと大河ちゃんは美緒ちゃんの代わりにふさわしい存在として成長してくれた。
「今年も、この季節がやってくるね」
冬は昔から好きだった。
ボクの誕生日があって、そして美緒ちゃんの誕生日もあるから。
――12月25日。
ボクらのカミサマの誕生日まで、あと一か月。
今年も冬が、やってくる。
なのに、
「どうしてキミは、偽物に気を取られるのかなぁ……」
美緒ちゃんの代わりにふさわしくない偽物を折角退場させてあげようとしたのに。
彼と美緒ちゃんとボクだけで、他には誰もいらないのに。
「ううん、いいんだ。美緒ちゃんの想いは、ボクが守るから」
沈みかけの太陽に、ボクは誓う。
月と太陽みたいなキミたちを結んでみせるから、と。




