七章#40 主人公
時刻は、既に10時半を過ぎた。テレビは見覚えのあるアニメ映画が佳境に入っている。好きな漫画のアニメ化、それの映画版だったから、雫と一緒に見に行った覚えがあった。とはいえ途中から見てもしょうがない気がするので、適当にチャンネルを回す。
それでもしっくりくるチャンネルが見つからないので、仕方がないから電源を消した。無音だとお風呂場から水音が聞こえてよくないので、代わりにRINEに集中する。
【ゆーと:すまん。ちょっと雫と色々あって電話に出られなかった】
澪への謝罪のメッセージ。
これすらもいつぞやの焼き直しだと思うと嫌になった。が、あの晩と今では明確に違うことがあるはずだ。少なくても今の先の明日には、あの晩の先のこれまでのような間違いはない。
【MIO:色々って大丈夫なの?】
【ゆーと:体調の方は大丈夫】
【ゆーと:でも一つ、謝らなきゃいけないことがある】
再三決めて、悔いてきたことだ。
入れなおしたコーヒーをちびりと一口飲み、その苦さに顔をしかめながらメッセージを打ち込む。
【MIO:なに? 雫を襲ったとかじゃないでしょうね】
【ゆーと:逆だな。襲われた】
【MIO:は?】
【ゆーと:でもシなかった】
【ゆーと:シない理由を説明するときに、俺たちがセフレだったってことを言った】
次の瞬間、とぅるるるるっ、と着信音が鳴った。
あっちはもうすぐ消灯時間なのでは……?
そう思うが、まぁ気持ちは分かるし直接話すべきだとは思っていたので、電話に出る。
「もしも――」
『ワケ分からないんだけど』
「うっ、それは……勝手に言ったのは、マジですまん。完全に勢いで、頭が回ってなかった」
『ん……それはまぁいいよ。けどそもそも、どうしてそういうことになるわけ? 事情を説明しろ』
命令形だった。断固たる命令形。
渋々ながら、俺は先ほどの流れを説明する。話せるところと話せないところを分けて……などとした結果今のような事態になっている気もしたので、今回は要約しながらほぼ全てを話す。
「――ってわけで。雫に迫られて何とかするために、初めてじゃないって話をした」
『ふぅん』
「えっと……澪?」
『友斗、何しに修学旅行サボったの?』
「うっ……言い訳のしようもございません」
本当に澪の言う通りだった。俺のしたのは簡単な看病と襲われたことだけ。あまりにも情けなさすぎる。
「でも、これからきちんと話すよ。せめて修学旅行をサボったのを、よかった、って結果論で締めくくれるように」
ちゃぽん、とお風呂場から水音がする。雫のあの涙は、勢いに押されて流れたものではないと思う。もっときちんとした、苦悶の滲んだものだ。
なら話を聞いてやりたい。それくらいしないと、俺のエゴは満たされないから。
『ん、ならいいや。どうせいつまでも隠し通せるとは思ってなかったし』
「まぁ……そうだな」
『こうなったからには、トラ子にも言わなきゃだろうけど……あ、その方がいじめ甲斐があっていいかも』
「不穏なワードを口にするのやめてもらえませんかねぇ」
言っている間に、ドライヤーの音が聞こえ始めた。
ぶぉぉぉぉん、と勢いのいい熱風の音。
「じゃあ、雫がそろそろ来るから」
『ん。おやすみ』
「おう、おやすみ」
そう告げると、ぷつりと通話が切断された。
スマホをテーブルに置き、ミルクを温め直しにキッチンへ向かう。
話の茶請けにでも、とチョコクッキーを皿に出し、復活したホットミルクと一緒に運んだ。
「お待たせしちゃってすみません。思ってたより、体冷えちゃってたっぽくて」
「いや、大丈夫だ。こっちとしては雫の体調の方がよっぽど心配だしな」
「んー、それはもう結構オッケーな感じです。実際、そんなに風邪は酷くなかったんですよ。ただ先週まで女の子の日だったせいでホルモンバランス崩れてたりとか、その他にも色々とあったりして、一気に体調崩しちゃった感じで」
「なるほどな。ま、何にせよ良くなったならよかった。寝込んだまま誕生日を迎えるのは最悪だし」
「ですねー。私の免疫システムのおかげです。私、すごい!」
えっへん、と胸を張る雫。
まだ仄かに濡れた髪は色っぽいのだけれど、その笑みを見ていると、余計なことを考えずに済みそうだった。
「はいはいそうだな。まぁとりあえずあれだ、隣に座れよ」
「俺の隣に一生いろ、って? やだなぁプロポーズみた――」
「いつまでも気持ち悪い作り笑いしてないで俺と話をしようぜって言ってるんだよ」
「っ……。気持ち悪いって、酷い、なぁ……」
言葉の選び方が最悪だって自覚はある。
でもしょうがないだろ。その笑顔を見てると、苛立ちが先んじて他のことを考えられなくなるんだ。
雫に、そんな顔をさせてしまっている自分への苛立ちとか。
俺に、そんな顔を見せている雫への八つ当たりだとか。
そういうので頭がいっぱいになる。
雫はきゅっと唇を噛むと、こくと頷いてから俺の隣に腰かける。
目の前にホットミルクの入ったマグカップを寄せると、雫は一口だけそれを飲んだ。
「それじゃあ話、するか」
「……はい」
「俺は、そうだな。山ほど言いたいことがあるから、先に雫に言わせてやるよ。色々言いたいこと、あるだろ?」
「そ、ですね」
マグカップをテーブルに置くと、雫はソファーの上で小さく体育座りをした。
ひょこひょことつま先が動く。
「……セフレ、って。本当に、それ、なんですか?」
「本当にって?」
「セイリングフレンドとか、セパレートフレンドとかじゃ、ないんですよね?」
「帆走もしないし、分けもしないよ。正真正銘、セックスフレンドだ。セックスしかしない友達」
「っ……それって、どこまで――」
「ゴムを着けて、するところまで。何度もシてる」
「…………そう、ですか」
ぎゅぅぅぅ、と雫は脚を抱き締めた。
「最近の若者は、ほんと爛れてますね」
「そうかもしれん」
「先輩もお姉ちゃんも、えっちぃです」
「否定できん」
「そりゃ二人に比べたら初心ですよ。私、ファーストキスもまだですもん」
「……うん」
雫の頭を撫でようと伸ばしかけた手を、引っ込める。今それをするのは不誠実で、ズルい気がした。
代わりに、拳一個分だけ雫に近寄る。
こつん、と肩が触れた。
「………………でも、今はシてないんですよね?」
「ああ、シてない」
「時々お姉ちゃんの部屋から聞こえるのは――」
「俺は一切関係ない。何なら俺も軽く困ってる」
「そですか……ふぅん」
ならいいです。
雫はそう、ぼしょりと呟いた。
「過去は過去、今は今ですし。その話を聞いて嫌いになれたら楽ですけど……ダメですし」
「そっか」
ありがとう、と言うのは違う気がしたから。
はぁと溜息をついて、今度はこちらが聞くことにした。
「で、雫は? 何に悩んで、どうしてこんなことをしたんだよ」
「…………言いたく、ないです」
「黙秘権はないんだな、これが。こっちはセフレっていうトップシークレットを切ったんだぞ?」
「っ。サイテーです」
「知ってるよ」
「そーやって、『俺は自分が最低だってことを分かってる』感も、サイテーです。自覚があれば赦されるってわけじゃないんですよ」
「それも、知ってる」
「『赦されないって分かってるけど――」
「それもこれも、全部知ってるよ。それでも俺は、雫の話を聞きたい。聞かせてくれよ。雫の、最後の15の夜だろ?」
大人への反抗心なんてないし、バイクで走り出すつもりもないけれど。
そんな夜にはきっと、自分の存在が分からなくなることだけは、変わらないから。
沈黙の後、雫はクッキーを一枚齧る。ホットミルクをごくんと飲んでから、観念したように言い始めた。
「私は……頑張り屋さんです」
「そうだな、知ってる」
「でも……私が頑張れるのは、先輩への『好き』って気持ちがあるからなんです。全部そこが原動力で……私って、他には何にもないんですよ」
違う、だとか。
何言ってるんだよ、とか。
言いたいことはあるけれど、うん、うん、と今は相槌を打つ。
「お姉ちゃんは、キラキラしてます。昔からみんなと上手くやれていて、でも一人でいられる強さがあって、けどこの前の文化祭からはスポットライトも浴びて」
「うん」
「かっこいいな、って思って……それは、大河ちゃんも同じで」
「うん」
「大河ちゃんは、お姉ちゃんほど凄くはないかもだけど。でも真っ直ぐで、かっこ悪いっていうかっこよさがあって、キラキラ、って輝いて見えるんです」
「うん」
「でも……私にはそういうの、ないんです。私は、先輩に好きになってもらいたかっただけだから。そのために……目指す先すら、先輩の好みに託しちゃうくらいに何もないんです」
ぽつ、ぽつ、ぽつ、と言葉の《《雫》》が零れ落ちる。
「この前の、選挙を見ててね、思っちゃったんです。先輩とお姉ちゃんと大河ちゃん。三人で並んでるのが、すっごくお似合いだな、って」
「…………」
「私は思うんです。『ヒロイン』って、ただ主人公を好きになる女の子じゃなくて、ちゃんと物語を持った主人公なんだ、って。お姉ちゃんと大河ちゃんは、紛うことなく主人公じゃないですか。たくさん苦しんで、でも大切なものがあって、先輩との絆もある」
「うん」
「でも私は……主人公に、なれないんですよ。空っぽだから。『好き』って気持ち以外に何にもなくて、それを失くしたら頑張れなくなっちゃう弱虫だから」
「う、ん」
「それでも、やっぱり好きだから。『好き』って気持ちだけは、本当だから――だから、それを貫こうかなと思ったんです。先輩が好きで好きでしょうがなくて、先輩のためなら何でもする忠犬。そんなキャラになろう、って」
どうして、と思う。
俺はどうしてここまで好いてもらえるのだろう。何も返せはしないのに。傷つけてばかりなのに。
けれども――そんなことを考えたってしょうがないから。
ならせめて、『好き』に値する男になろう――なんて、かっこいいことはできないけど。
「隣の芝生は青い」
「え?」
「隣の芝生は青いって言うだろ? でも隣の芝生からしたら、自分は隣の芝生なわけで。つまりこれって隣も自分も、隣の隣も、全部青いってことじゃん」
「……だから、なんなんですか? 私にも、“何か”があるって言いたいんですか?」
「いーや、そんなこと言わねぇよ。ただの戯言。隣の芝生が青くて、だから地球は青いんだろうな、っていう話」
「…………それは違くないです?」
「違くない。先輩の言うことは正しいのだよ、後輩クン」
こつんと肩を小突くと、雫は少しだけムッとした。
「雫の言ってること、分かるよ。澪はめっちゃハイスペックだし、我が強いし、スポットライトを浴びるのも好きなタイプだし。大河はバカみたいに真っ直ぐで、負けず嫌いで、クソ真面目な奴だし。あの二人は凄いよな、ほんと。澪は俺と一緒にどん底まで落ちてくれて、大河は絶対に俺と間違わないでいてくれたしな?」
「――っ……」
「それに比べて、雫はどうだ。割と流されてたよな。出会ったときは一人ぼっちで、俺に見つけてもらうのをずっと待ってたし。小悪魔になるっつってすげぇ変わったけど、小悪魔かって言われたら微妙だし」
「ッ」
「澪ほど間違うわけでも、大河ほど正しくあるわけでもなく、どっちつかずだったよな」
俺の言えたことではない。
雫は俺に酷いことをされた被害者にすぎないのだから。
でも見方によっては――そう見えてしまう。
「そういう意味じゃ確かに、雫はあの二人に魅力で劣るかもな。そもそも最初から好感度MAXのキャラってラノベや漫画だと絶対負けヒロインだし」
でもさ、と告げる。
「それでも……そんな雫の『好き』のおかげで、俺はめちゃくちゃ救われたんだよ。毎日笑えたんだ。色んなものを見て、たくさんのことを知って、今の俺になれた」
「そんなの……そのとき、私しかいなかっただけじゃないですか」
「人はそれを運命って呼ぶんだよなぁ」
雫の手を取って、ぎゅっ、と握った。
「雫が頑張ってる姿を見て、たくさん元気を貰った。変わっていく雫のおかげで、俺は腐らずに済んだ。雫が向けてくれる笑顔が、かけてくれる電話が、寂しくて泣きたい夜を何回も埋めてくれた」
「……っ」
「確かに雫は『好き』しかないのかもしれない。そう思ってるなら……俺には、何にも言えねぇよ。積み重ねた努力も、向けてくれた笑顔も、支えてくれたことも全部『好き』のおかげだって言うなら――全部がぜんぶ恋心のおかげなら、そりゃそれしかないに決まってんだろッ!」
かはっ、と息を吐く。
詰まりそうな言葉を無理やりに押し出して、俺は続ける。
「けどな。『好き』って気持ち一つで……それだけでそこまで頑張れる奴が、凄くないはずないんだよ。自分の想い一つで願った姿に変われるなんて、そんなの……っ、羨ましくてしょうがねぇんだよ!!」
「ッッ――でも! 『好き』を失くしたら、頑張れなくなっちゃうんですよっ⁉ そんな、誰かがいなきゃダメなやり方なんて、間違ってるじゃないですか! そんなのキラキラしてないじゃないですかぁぁっっ!」
「なんでだよ?! いいじゃねぇか、誰かがいなくちゃいけなくたって! 俺だってお前らがいなきゃ頑張れねぇよ! 頑張る動機をアウトソーシングして何が悪い⁉」
はぁ、はぁ、はぁ、と二人揃って肩で息をする。
気付けば雫は体育座りをやめていて、俺に吠えるように前のめりになっていた。
「……何言ってるのか、全然分かんないです。頑張る動機のアウトソーシングってなんですか」
「そっちこそ、キラキラキラキラしつけぇんだよ。お前は赤鼻のトナカイにでもなりてぇのか」
「言い方サイテーです。昔みたいに、見つけてくれたらいいじゃないですか。私が見つけられてない私の“何か”を見つけてくださいよ」
「かくれんぼはもうこりごりなんだよ。お前の姉ちゃんが厄介なかくれんぼをしやがったからな」
「また別の女の子の名前を出す。そーいうところもサイテーです」
「しょうがないだろ、俺たちは四人なんだから。澪と大河抜きに話せる仲じゃねぇんだよ」
渇いた喉を潤そうとコーヒーを口にして、思っていたより冷めてなかったから舌が火傷しそうになる。
クッキーを二枚ほど頬張って、ごくんと飲み下しながら頭を整理した。
「だからさ、そういうことなんじゃないか?」
「……そういうことって、なんですか?」
「『好き』が原動力でしか頑張れないなら、『好き』を増やしていけばいいんだよ。澪が好き、大河が好き、四人で一緒にいる時間が好き、ゲームが好き、小説が好き。そんな感じでさ」
「………………それでも、頑張れなかったら?」
「そのときは頑張らなくていいよ。頑張らない雫も、可愛いから」
「っ⁉」
「もしも俺と雫が結ばれない未来に行きつくとしても、俺たちは家族なんだからさ。そのときは義兄として、傍にいてやる」
はぁ、と吐いて。
それから俺は、雫に手を差し出した。
「今はそれじゃ、ダメかな?」
「……私、キラキラしてないですよ」
「恋する女の子ほど眩しいものもいないんだよな、これが」
「…………二人と違って、何もないです」
「何もなくても、雫がいるからな。パッシブスキル的なアレで俺は色んなものを貰えてるんだわ」
「………………つまんないと思いますよ。空っぽだから」
「二人でただゲームをして、買い物行って、勉強して。それだけで充分楽しいから美少女ってズルいよな」
「この面食い」
「ついでに声も可愛いし」
「なのに『好き』はくれないくせに」
「あー、それはマジ面目ない。その代わり、好きになれたときはドロドロなるまで愛すよ。今日の続きも、いっぱいする」
「~~っ」
言葉にならない声の後で、雫は諦めたように、はぁ、と溜息をついた。
「分かりましたよ、それでいいです。もうなんか、悩んでるのがバカバカしくなっちゃいましたから」
「そっか。それならよかった」
「よくないですからねっ! なし崩しの説教パートでそれっぽい雰囲気に満足して解決とか、サイテーですから! 埋め合わせを要求します」
ぷいっ、と顔を逸らして雫が言う。
俺は、ぷっ、と吹き出してから、そうだな、と肯った。
「それならいいものを用意してるぞ」
「えっ。いいもの……?」
「そう。あと1時間くらい早いけど、まぁ、待ってたら眠くなりそうだしな」
元々、今渡してしまうつもりだったから、雫がお風呂に入っている間に部屋から持ってきていた。
この前ネットショッピングで注文したばかりの《《それ》》を渡すと、雫はぱちぱちと瞬く。
「ええっと……先輩、これは?」
「誕生日プレゼントだな」
「ゲームが、ですか?」
「ノベルゲームだぞ。しかも先週発売したばっかりの新作。雫が買ってないことは義母さんに確認済みだ」
タイトルは『紅い葉っぱの降る頃に』。
雫がよく買っているメーカーの、好きだと言っていた作家がメインでシナリオを手掛けている新作だ。
「体調、よくなったんだろ? なら今から一緒にやろうぜ。修学旅行をサボってゲーム、一回やってみたかったんだよな」
言うと、ぷふっっ、と今度は雫が吹き出した。
「なんですかそれーっ! もう、そーいうことを言ってるわけじゃないって分かりませんかねーっ?」
「とか言いつつ、受け取るのな。しかも目が輝いてるぞ。よかったじゃん、キラキラできて」
「そーゆうキラキラを求めてるわけじゃないんですけど?!」
雫は、ふっ、と笑む。
それはまるで――キラキラの雫そのものみたいだった。
「まぁ、そこまで言うなら……今日は夜更かししちゃいましょうか」
「そうこなくっちゃな」
「風邪引いて休んだくせに夜更かしとか、サイテーですけどねー。あ、じゃあパソコンに読み込んでおくので、先輩はおつまみの準備をお願いします!」
「うい。いいな、なんかめっちゃ楽しくなってきた」
「はいっ!」
こんなの、あまりにもちっぽけすぎる《《悪い子》》で。
意味がないのは分かっているのだけれど。
それでも、楽しいから。
それでいいじゃないか、と思った。




