七章#39 SEX
「じゃあ。気のせいじゃなく、しちゃいましょうか」
は? と思った瞬間、俺は後ろに押し倒されていた。
ソファーに横になる俺。雫が僅かに腰を浮かせ、曲げていた俺の足を伸ばした。頭が真っ白になって、抵抗できない。
今、雫はなんて言った……?
ようやく、思考が始めようとしたときには、雫は俺の上に馬乗りになっていた。
雫の瞳が、猟猫の如く妖しく煌めく。下腹部に生々しい体温を感じて、そして気付く。雫は既にスウェットパンツを脱いでいた。黒い下着が、俺の部屋着に触れている。その光景を見た瞬間、頭の奥がずくんと蠢きそうになった。
「ん……硬い。もしかして、これが男の人の、ですか?」
「っ。それは……そうだな。だからそこをどけ。流石にこれは、度が過ぎてるぞ。小悪魔とかからかいとかで済むレベルじゃない」
タンクトップをも脱ぎ捨ててしまって、雫は上下ともに下着姿だった。
それは――水着と同じかもしれないけれども。
どうしようもなく生々しい姿だから、なるべく見ないようにと顔を逸らす。それでも否応なしに体は反応してしまっていて、下腹部の辺りに腰を下ろす雫には、そのことが伝わってしまう。
「そのレベルで済ませるつもりだと、ほんとに思いますか?」
その声は。
どうしようもなく、女の声だった。
官能的で、甘く痺れるような声。耳朶が溶けそうになるのを、唇を噛んで堪える。
「済ませるに、決まってるだろ。何をやってるのか分かってるのか?」
「分かってますよ。今私は、先輩を襲ってるんです。お義父さんもお母さんも、今日は仕事が忙しいって言ってました。どうしても帰れないから、時雨先輩に頼むつもりだ、って」
「――っ……」
「時雨先輩は、先輩が来ることになった時点で、来るのをやめたはずです。もうこんな時間なわけですし」
雫の手が、俺の頬を挟みこむ。
半ば強引に、彼女は俺の顔を自分の方に向けた。
せめてもの抵抗に、俺は目を力強く瞑って雫の体を見ないようにする。
「年頃の男女が一つ屋根の下なんですよ? しかも美男美女で、女の子の方は男の子の方を愛してます。ずっと片想い中です」
「っ」
「男の子の方は、楽しみにしてた修学旅行よりも女の子のことを選んでくれて。もう最高に燃え上がる展開ですよね。女の子は、大切な学校行事を諦めさせちゃったことに申し訳なさもあって……。こんな状況でも先輩は、本当に小悪魔やからかいで済ませると思うんですか?」
ぞわっ、と何かが背筋を這う感覚。
唾を飲むのとほぼ同時に、
「済むと思ってるんですか?」
と、耳元に囁かれる。
ずくん、どくん、心臓が暴れ出す。目を瞑っているからこそ、雫の声が余計に頭に響いた。体の芯が、どうしようもなく熱くなる。
どくんどくん、どくどくどくどく。
済むと思っている――わけがない。
仮に何もなくても、十人に聞けば十人が「何かあった」と思うことだろう。だからこそ、この晴彦や伊藤に口止めしたのだ。
けれど――
「っ、違う、だろ。済むとか、済まないとかじゃ、なくて……っ。色々とさ、順序が違うだろ? 今までそういうこと、一度だってしたことなかったじゃんか」
絞り出した声の情けなさに、自己嫌悪が湧く。
でもしょうがなかった。
体はどうしようもなく、疼いている。
3月に美緒とシてから――約八か月以上、俺は一度たりとも性欲を発散していない。4月に澪とキスをしたときですら、最後まではシなかった。
美少女二人との同居生活、夏の海での光景、澪との〇〇ホテルでの一泊、大河との雑魚寝、澪の部屋から漏れ聞こえる嬌声――。
思春期の男子にはあまりにも刺激的すぎる経験を経てもなお、俺は獣を抑えつけてきた。万が一があるかもしれないから。
「順序とか、そういうのいいじゃないですか。それを言い始めたら、全部違いますよ。私たちの関係は、ずっとぐちゃぐちゃです」
「……かも、しれないけど」
「なら、いいでしょ? ねぇ先輩――エッチ、しましょうよ」
痛いくらいに、心臓が跳ねる。
雫のその声に、気が抜けたのか、それとも獣に負けただけなのか。
必死に閉じていた瞼が緩んでしまう。
「~~っ」
視界に入ったのは、雫の下着姿。
きめ細やかな色のいい肌。引き締まった体に、豊かで柔らかそうな胸。瑞々しさを抑えるような黒い下着はひどく官能的で。
危うさと無垢さと色っぽさを孕むその姿は――頭がどうにかなってしまいそうなくらいに、妖艶だった。
「私、悪い子ですよね。お姉ちゃんにも大河ちゃんにも内緒で、こんな風に抜け駆けしちゃって」
「……っ」
「自覚してます。でも止められないんです。この気持ちを、終わらせたくないんです」
ぺろり、雫は舌なめずりをして。
蕩けるような目で、媚びる女豹のように言った。
「せんぱぁい……いいじゃないですか。私の初めて、もらってくださいよ。がまんなんて、しなくていいです。悪い子な私に、おしおき、してください。いっぱい、いっぱい、無理やりシて……ください」
求愛行動。
そう言って差し支えない、声だった。
喉が、からからに乾く。
何を言っていいのか分からなくて。
何かとんでもないことを言ってしまう気がして。口を噤んでいると、雫は続けた。
「先輩の、せいなんですよ……?」
それは、月の雫のように淫靡な笑み。
「先輩が、こんなに好きにさせたから。私に輝き方を、教えてくれたから。先輩への恋が私を変えてくれちゃったから――私が私であり続けるために、この恋を捨てるわけにはいかないんです――っ!」
「……っ、なんだよ、それ。だったら好きでいれば――」
「いられるわけ、ないじゃないですかっっ! お姉ちゃんも大河ちゃんも、素敵な女の子で! 私とは違って、ブレない“何か”を持ってて、誰がどう見たって先輩とお似合いでぇっ!」
それでも、と雫は泣きじゃくりながら叫ぶ。
「私が先輩にあげられるものは何かって考えて。笑顔だけじゃ、足りないから……なら、体なら、って」
雫は俺の手を掴み、強引に自分のお腹に触れさせた。
「先輩、どうですか? 私、お姉ちゃんや大河ちゃんより、おっぱいは大きいですよ? 食生活にも気を遣ってるので、程よいスタイルだと思います。えっちなことは……ゲームとか本でちょっと見ただけなので詳しくないですけど……でも、頑張ります。先輩がシたいこと、全部します」
だから……と、雫の言葉がぽろぽろと零れてくる。
そのときだった。
――とぅるるるるるるっ
悪趣味な神様の存在を決定づけるように、着信音がリビングに響いた。
押し倒されながら、それでもテーブルに置いたスマホの画面を見遣る。
その音は、澪からの着信を報せていた。
まるで、全てが始まった晩のようだった。
澪に迫られているときに雫から電話がかかってきて。
だから俺はあのときよりも明確に拒絶の意思を示すため、スマホに手を伸ばして――
「嫌です、先輩。今は私を、見てください。私の初めてを、もらってください」
雫が、スマホをカーペットの上に叩き落とした。
とぅるるるっ、とぅるるるっ、着信音は未だに鳴り響く。
「痛くて、泣いちゃうかもだけど。でも覚悟はできてますから。全部、ぜんぶ先輩にあげますから――っ」
不在着信の四文字が画面に表示される。
縋りつくような雫の声。
ぽとぽとと零れ落ちる涙を頬に受け、それでもなお暴れんとする身の内の獣を、
――ふざけるなよ
と一蹴した。
俺は何のために、雫のもとにきた?
こんな風に誘惑されるためじゃない。あの晩の失敗を繰り返すためでもない。まして、雫を泣かせるためなんかじゃ、絶対にないっ!
性欲なんて知ったことか。んなもん、男なら我慢しろ。いつか……誰かを愛せるようになったとき、幾らでも好きにさせてやるから、今は大人しくしてろよ馬鹿!
「シないよ、雫。雫がどんなに誘惑しても、何をくれるって言っても、それでどんなに俺の体が反応しても……今、百瀬雫とするつもりはない」
「――っ、なんでッ⁉ そんなに、私が嫌ですかっ? お姉ちゃんや大河ちゃんじゃないと、ダメなんですかっ」
「そんなわけ、ないだろッ! めっちゃ興奮してるわ! 我慢するので精一杯で頭がおかしくなりそうですが? できるもんならシたいに決まってるだろ。雫のこと、どんだけ大切で愛しく感じてると思ってんだよこの馬鹿っ」
馬乗りになっている雫を逆に押し倒して、俺は雫の下腹部に跨った。
下着姿の雫を見下ろすと、どうしようもなくイケナイ気分になるけれども。
知ったことか、と叫び続ける。
「澪や大河じゃないとダメ?! なんでそうなる? そりゃあの二人もめちゃくちゃ魅力的だけど! 一つ屋根の下で暮らすとか頭おかしくなりそうだけど! 雫だって負けないくらいに魅力的だろうが!」
「……っ、じゃあ! どうしてシてくれないんですかっ?! 私、下着姿ですよっ? ホック外せば、裸です。いいって言ってるのに据え膳食わないなんて、どっ、童貞拗らせてるにも程がありますッ!」
「だーかーらっ! そもそも童貞じゃねぇんだよ俺はッッ!」
「えっ……?」
「はっ?」
勢い余って、口にして。
あまりにも稚拙に吠えた自分の声が耳を通って、そこで初めて自分の言ったことのまずさに気付いた。
今俺、童貞じゃないとか言わなかったか……?
「せん、ぱい? それって……どう、いう」
「あ、えっと」
「もしかして二人で泊まったとき、お姉ちゃんとか大河ちゃんと、シちゃったんですか? だから私はもう、要らないって――」
「違う! そうじゃない! 誓って、同居を始めてから今日までは一度たりともシてない!」
「じゃ、じゃあどういう……?」
「それは――」
上手い誤魔化しが見つかるわけがない。
今のが嘘で、本当は童貞なんだ、などと言ったところで信じてもらえなさそうだし。
それに……雫の行動の愚かしさを知ってもらうためにも、きっと話す必要があると思った。
「――俺と澪は、セフレだったんだよ。セックスフレンド。父さんと義母さんが再婚する前まで、もっと言うと澪に義理の妹をしてもらうことになるまで、俺たちはセフレだった」
「…………え?」
「お互いの性欲を満たすためとか、俺の美緒への気持ちとか、そういうのがぐちゃぐちゃになって、俺たちは歪んだ体の関係を続けてた。だからこそ、雫には早まってほしくないんだよ」
間違っていたけれども、しかし、澪とセフレだった過去を否定するつもりはない。
過去の延長線上に今がある。
或いは、あの経験があったからこそ、今雫にこうして言えるのかもしれないから。
「気持ちが追いつく前に体の関係をしても……ダメなんだ。そりゃ気持ちいいかもしれない。くたくたになるまで交わったら、お互いのことを愛おしく思うかもしれない。でも違うんだ。その先にあるのは、『好き』じゃない。『気持ちいい』なんだよ」
体の関係から生まれる恋だって、きっとあるのだろう。
でも俺は、違った。
そもそも、初恋は決して体の関係が許されない実の妹とのもので。
だから俺の『好き』は、体の関係の延長線上にはない。『好き』の延長線上にあるのが、体の関係なのだと思う。
「だから、まだ『好き』をあげられないのに雫とするつもりはない。というかそもそも、さっき雫が言ってることもよく分からなかったし」
くしゃっと髪を掻いて、伝わっただろうか、と雫の目を見る。
えっと、と漏らすと、雫は我慢できないとばかりに言った。
「あの先輩。色々衝撃の事実すぎてあんまりよく分かんないのと、先輩に色々言われたら急に今の恰好が恥ずかしくなったのと、馬乗りになられてリアルにきゅんきゅんしちゃったのとで頭がパニクってるので、一人でお風呂入って冷静になってきてもいいですか?」
「え、あ、おう……そう、だな」
冷静になった雫の声は、俺の頭にも冷や水をぶっかけた。
冷えた頭で自分を俯瞰し、かなりとんでもないことをしていることに気付く。いや、さっきまでもだいぶとんでもなかったのだけど。
それはそれとして今雫が言ったこともさりげなくとんでもないな、とか色々考えると、抑えつけたはずの獣がまた暴れ出しそうになる。俺は急いで雫の上をどき、そっぽを向きながら言った。
「とりあえず、仕切り直すか。説教はその後で」
「それ、私の台詞な気がするんですけど」
「…………説教のしあいは後で。風呂入ってあったまってこい。男を襲えるくらいには回復したんだろ」
「言い方最悪ですけど事実なので、そうします。覗かないでくださいね? 突入してくるのもなしですよ?」
「しねぇよ?!」
なんだか、ちょっとコメディなオチがついてしまった気がするけど。
でも俺と雫の関係って、こうだよな、と思った。




