七章#37 風邪
SIDE:友斗
意外にも、というのは変な話かもしれないけれど。雫は最初こそ驚いたが、すぐに俺がいることを受け入れ、何も言わずに従ってくれた。
「部屋に、戻ってます」
ソファーで、と告げると、大丈夫です、と雫は言った。
壁に伝いながらで何が大丈夫なんだと思ったが、変に大声を出しても体に障る。キッチンの火を止めて部屋まで連れていくと、雫は大人しくベッドに寝た。
「なんか、食えそうか? 一応うどん作ってるんだけど」
と言うと、雫はそっぽを向きながら頷いた。
こっちを向いてくれないのは、もしかしたら怒っているからなのかもしれない。どうして来たんだ、と咎めたいのかもしれない。
その覚悟はできていたし、既に澪にも大河にも問われたのだから、答えることはできる。ただそういう言い争いは体に障るに決まっているから、体調がマシになってからにしてくれ、と思っていた。そういう意味でも、雫はいい子だった。
キッチンに立ち、調理を再開する。
作っているのはうどんだ。かきたまうどん。春先は苦労したけど、あれから夜食に作ったりもしていたおかげで、今ではすっかり小慣れている。むしろお粥の方が作ったことがなくて勝手が分からなかった。
「煮立ったら卵をゆっくり入れる、だっけか」
片栗粉は混ぜたし、酷いことにはならないはずだ。雫がそう言ってた。
思い出して、苦笑する。
あのときは“理由”だの“関係”だのに囚われていたくせに、今じゃそんなもの知るかよ、って感じで無茶苦茶なことをしてる。記憶喪失でもしたのかってくらいの変わりようだ。
うどんを取り分け終えると、ほかほかといい匂いが漂ってくる。
うん。
夏場にうどんはミステイクだったかもしれないけれど、秋にうどんはぴったりだ。お盆に載せて、雫の部屋まで運んでいく。
「入るぞ~」
念のためノックをして、きぃ、とドアを開いた。
雫は変わらずベッドの上にいる。起き上がって壁に寄り掛かり、気怠そうにスマホを弄っていた。
「こら。風邪引いてるときくらい、スマホを弄るな。ダメな現代人の典型を再現しようとするんじゃない」
「む……そんなこと言ったって。先輩が急にいて、意味が分からなかったんですもん。RINEで聞くしかないじゃないですか」
「それは……確かに。すまん、説明不足だったな」
「別に、謝ってもらったところで変わりませんし」
けほけほっ、と雫が咳をする。
喉の調子が悪いときとは違う、風邪のとき特有の咳だった。いや、俺は医学の知識ゼロだし、完全に主観交じりなんだけど。
「体調は、どうだ?」
「……怠いです。熱も、ちょっと高くて」
「そっか。食欲は?」
「お腹は……空いてます」
「それならよかった。腹減ってりゃ、俺が作ったうどん程度でも美味く感じるだろ」
ベッド近くのテーブルにお盆を置いて、ベッドのすぐ傍に腰を下ろす。
おでこ触るぞ、と告げてから触れて、これは風邪だな、と改めて思う。熱すぎないのを見ると、こじらせてはいなさそうか? 雫も、めちゃくちゃ苦しいって感じじゃない気もするし。
「えへへ。先輩に触られたので、照れて体温上がっちゃいますね」
「アホか。今は小悪魔モードなんてやめて大人しくしとけ」
「酷いなぁ。私のアイデンティティーなんですよ?」
「言うほど小悪魔っぽさないくせによく言うよ。……それよか、飯、自分で食べられそうか?」
言うと、ぱちぱち雫が瞬いた。
耳旅をくにゅっと摘まみ、ふるふると首を縦に振る。
「そか。じゃ、きつかったら言ってくれ」
俺が食べさせてもよかったのだが、無理強いするものでもない。お盆ごとそっと雫に近づけると、ありがとうございます、と言ってから箸を持ち、食べ始めた。
もぐもぐとゆっくり咀嚼し、ごくんと飲み込む。
何かを探すように動く視線を見てアクエ〇アスを渡すと、雫はハッとして受け取った。
「ん、ん、んっ……はぁ。ありがとうございます」
「いや、これくらいはな。他の飲み物がよければ持ってくるけど、どうする?」
「これでいいです。……あの、先輩」
ペットボトルのキャップをしめていると、雫が俺を呼ぶ。
さっき口にして気付いたけど、雫ってずっと『先輩』呼びだよな。嫌ってわけじゃないけど。
なんだ?と視線で尋ねると、雫はぼしょぼしょと呟いた。
「先輩って、どうしていつも、私のこと先読みできるんですか?」
「え? いやできてないだろ。それこそ今日だって、雫が風邪だってこと気付かなかったし。その他にも色々と、分かってないことは多い」
「そーですけど……そーじゃなくて。勉強教えてくれるときとか、今とか。困ったら言ってくれ、とか言うくせに、いつも言う前に先読みして解決してくれるじゃないですか」
やっぱり、そんなことはないぞ、と思う。
でも雫が聞いているのはそういうことじゃないんだろう。それくらいは流石に分かるから、そうだなぁ、と言葉を探るように言いながら答える。
「勉強に関して言えば、雫が俺に似てるから、かな。俺が分からなくて困ったところで、雫は必ずと言っていいくらいに立ち止まるからさ。だから気持ちが分かる」
「…………」
「で、今のは……あれだ。雫が単純に分かりやすかったから。食ったら飲みたくなるよな、っていう簡単な推測」
だから俺が雫を分かってやれてるとか、そういうことじゃない。
俺がそう呟くと、そですか、と雫は漏らした。そして、それからは何も言わずにうどんを食べ進める。
本人が言っていたように、食欲はあるのだろう。ゆっくりではあるが、全て完食してくれた。
「ごめんなさい。汁だけ、残っちゃいました」
「いや、大丈夫だぞ」
「先輩が飲むからです?」
「流れるように変態を見る目を向けるのはやめろ。飲まねぇよ」
ぺちっと優しくおでこを叩いてから、どんぶりを回収する。
再びペットボトルを渡すと、雫は半分ほどを飲み干した。
「薬、飲めるか?」
「惚れ薬なら大丈夫ですよ。もう惚れてます」
「風邪薬に決まってるだろ」
「むぅ、そこは照れるところじゃないですかねー。でも、ありがとうございます。薬飲めます」
「うい」
持ってきていた市販の風邪薬を三錠出して、雫に渡す。
薬は水で飲んだ方がいいと聞くが……アクエ〇アスなら他のジュースよりはマシだろう。そう結論づけている間に、雫は薬をちゃんと飲んでいた。
「おー、体が一気に楽になりましたよ先輩」
「ならねぇよ。一回、ちゃんと寝ろ」
「うぅ、先輩が冷たいです」
「風邪引いてるときにはちょうどいいだろ、ひんやりして」
俺が言うと、雫は不器用に笑った。
「先輩、本当に上手になりましたよね」
「それ、ちょっと前にも言ってたぞ」
「ちょっと前にも思って、今も思ったんです」
「そっか。……まあだとしたら、先生がよかったんだよ。特にこのうどんなんて、雫に教えてもらわなかったら作れなかった。覚えてるか?」
「もちろんです。彼女を無視して、彼女の友達の看病に行ったときのことですよね」
「違うとは言えないから複雑だな」
堪らず、俺は苦笑う。
冗談ですよ、と雫は呟いた。
「あの、先輩…………」
「どうかしたか?」
「…………いえ、なんでもないです。修学旅行なのに私のところに来ちゃうなんて、ほんとーに先輩は私が好きなんだなーって思って」
「っ、そか」
なんと言うべきか、少し迷った。
そうだなと肯うのは不誠実な気がして。
気付くと、あのさ、と口を開いていた。
「寝る前の、寝物語みたいな感覚で聞いてほしいんだけど」
「…………」
「俺はまだ、雫に『好き』って言えない。そんな風に軽々しく扱っていい気持ちじゃないと思うから、もっと迷いたい」
「……うん」
「でも俺は、雫の『好き』を貰えたことが嬉しい。だからその『好き』を幸せなものだって思ってもらえるようにしたい」
気恥ずかしさなんて、とうにどこかに消えていた。
「だから、今年の誕生日は一緒に過ごしたくて。そういう身勝手でキモイ理由で修学旅行をサボっただけだから、雫は気にしなくていいからな。雫のためじゃない。雫のために動いてる自分に酔ってるだけだから」
まぁ、もしかしたらこれは恥じるべきなのかもしれないけれど。
それでも俺は恥じることなく、開き直った。
「……そ、ですか」
「うん」
「……私は、寝ます」
「うん。寝付くまで、傍にいてもいいか? それとも邪魔?」
「いても、いいですよ。特別に許してあげます」
「そりゃよかった」
布団越しに雫の背中を撫でてから、おやすみ、と告げる。
返ってきた「おやすみ」の声はとても小さくて、か細かった。




