七章#18 雫との話、先輩との話
バスケの練習は、思いのほか順調に進んだ。やっぱり生徒がひたむきな努力家だからな。それに、雫に物を教えるのは中学受験の頃から慣れている。どんな距離感で教えていいのかを分かっているのは、やはり大きいと言えよう。
そんなわけで、約三時間ほどドリブルとレイアップシュートの練習を終えたところで、休憩することになった。
俺も何度かお手本を見せていたため、ちょっとくたくただ。それでも雫に買い出しに行かせるのは気が引けたので、俺が雫の要望も聞き、コンビニに昼食を買いに行く。
そうして公園に戻ると、雫がベンチにちょこんと座っていた。
まだ俺が来ているのに気付いていないのを見て、ふとくだらないいたずらを思いつく。我ながらバカだなぁと思いつつ、俺はコンビニの袋からさっき買ったスポーツドリンクを取り出した。
そして、それをそーっと雫の首元に――
「先輩、そーゆうのは女の子がやるからいいんですよ。女の子にやったらただの不審者です」
当てる前に、注意された。
ぐうの音も出ない。確かに俺がやったら頭がパーな奴だと思われてしまう。代わりにうぐぅと声を漏らすと、ちぇっ、と拗ねるように舌打ちをした。
「いいだろ、こういうの。爽やかなスポーツ系ラブコメっぽくて」
「ん~。今ジャンプでやってるアレみたいな?」
「そうそう。読み切りの最後とか最高にエモかったし」
「それを先輩が再現したところでエモいのか問題はさておいて。私、連載から登場した同級生の子の方が好きなので」
「あー、そりゃ残念。推し一致ならずだな」
と、俺と雫らしい会話を繰り広げながらベンチに腰を下ろした。
思えばこんな風にオタク会話をできるのも雫くらいのものだ。澪とも話すには話すが、やはり大きく趣味が被るのは雫だからな。
ほい、と雫の首元に当てようとしてたペットボトルを渡すと、ありがとーございます、と言って受け取った。
ペットボトルの栓を開けると、雫はこきゅ、こきゅ、と飲み始める。
喉が僅かに上下し、ん、ん、と艶めかしい声が漏れた。やや居た堪れなくなるのを誤魔化すように、袋から二人分の昼食を出した。
「雫は……メロンパンとアメリカンドッグでよかったんだよな? なんか、運動後に食べるものじゃない気もするけど」
「確かにそーかもですけど、食べたくなったんだからしょうがないじゃないですか。あ、アイスはどーでした?」
「買ってきた買ってきた。パピコでいいんだよな?」
「ですです」
パピコの袋を渡すと、雫はぐっと嬉しそうにサムズアップしてきた。
にしても、パピコとかメロンパンとかアメリカンドッグとか甘いものばっかりだ。これも、勉強してたときと同じ。頭が回るように甘いものを食べていたのかと思っていたが、運動のときでもそれは変わらないらしい。
「ねぇねぇ先輩。これ二つとも食べるとお腹冷えちゃうので、一個貰ってくださいよー」
「え、ああ。そういうことなら貰おうかな」
ぱきんと割ったパピコのうちの片方を受け取り、さんきゅ、と告げる。
雫は先っぽを切って咥え、ん、と袋を催促するようにこちらを向いていた。あんまりに可愛らしいその仕草に笑いつつ、俺は袋を広げる。
ぺっと袋に出すと、雫はえへへーと照れるように舌を舐めた。はいはい可愛い。俺も雫に倣って先っぽに残ったアイスを食べてから捨てた。ミルクコーヒーの苦甘い味が口の中に広がる。
「ねぇ先輩」
「なんだ後輩」
「こうしてまったりアイス食べてると、たまには運動もいいかなーって気分になりますよね」
「あー、分からないでもないな。また来るか?」
「でも疲れるくらいならゲームしてたい欲ありますね」
「分かる」
「ですよね」
「なら澪と一緒に走ったらいいんじゃないか?」
「え、いやいや、追いつけるわけないじゃないですか。お姉ちゃん走るときはガチなんですから」
「それもそうか」
一緒に走ったことがあるのかもしれない。雫はめちゃくちゃ渋い顔をしていた。
まぁ二人三脚のときも、男子の中でそれなりに足が速い俺がほぼ全力疾走で問題ないくらいだったしなぁ……。
「こうしていつまでもいつまでもお家から出ることができない私と先輩なのでした。めでたしめでたし」
「それだと引きこもりか拉致監禁のどっちかなんだよなぁ……小悪魔からヤンデレ路線に変えるつもりじゃねぇだろうな」
「先輩がそれがいいなら頑張りましょうか?」
「いらんわ。雫がヤンデレとか想像できん」
ヤンデレの良さが分からないわけじゃないが、雫はそんな風になる必要はないと思う。
そですか、とちっちゃく呟く雫をよそに、俺は早々とパピコを食べ終えた。
買ってきたコロッケパンに口をつけながら、そろそろかな、と判断する。
今日ここに来たのは、もちろんバスケの練習のためだけれど。
それ以前に雫に話さなくちゃいけないことがあるからでもあったのだ。
「なぁ雫。一昨日言った話、したいんだけど」
言うと、雫が一瞬フリーズした。
横目だけでこちらを窺うと、残っていたアイスをちゅーっと食べ、容器を袋に捨てる。何もつけないアメリカンドッグを一口食んでから言ってきた。
「いいですよ、聞いてあげます。こんなシチュエーションでの告白なら悪くないですしね」
「っ。そう、かもな」
雫が告白を期待していないことなんて、分かっている。
それでもこういうときにおどけてくれる雫は、本当に優しくて、眩しい。
だからこそ、勇気づけられる。ふぅと弱虫の息を吐き捨てて、俺は告げる。
「雫は……美緒のこと、知ってたんだよな?」
「……そですね。もしかしてまた美緒ちゃんのことを惚気るつもりですかー? だったら聞き流しモードに入っちゃいますよ?」
「いや、違う。今日は雫の話。雫と、俺の話だ」
「…………私と先輩の、ですか」
やや重力を感じさせるその言葉に、息が詰まる。
買ってきたサイダーを押し流すように飲み、こく、と頷く。
「俺と最初に会ったときのこと、覚えてるか?」
「もちろんです。忘れるわけ、ないじゃないですか」
「そっか」
「黒歴史が多い頃なので、ほんとは忘れたいんですけどね」
でも、と呟く雫。
もう一口アメリカンドッグを食べると雫は続けた。
「忘れられないんです。とっても、大切な思い出ですから」
「っ……そう、か」
それなのに、と思ってしまう。
そんな大切な思い出を、俺は穢そうとしている。それくらいなら墓場まで持っていくべきなんじゃないかとすら思えた。
けれども、たとえこれがエゴだとしても。
始まりが間違っていたことを隠して、認めないままでは、正しい今を刻んでいけない気がするのだ。
だから、
「俺はあのとき、結構メンタルが不安定でさ」
もう戻れないように、話の口火を切った。
「俺は美緒のことが好きで、美緒を守って面倒見てることに救われてて。でも美緒を失って、周りからは色んなことを言われて」
「…………」
「そうやって逃げた先でたまたま見かけたのが、雫だったんだよ」
「……そうなんですね」
雫はどんな顔をしているだろうか。
それを確かめるのは、怖かった。この期に及んで怯んでしまった。
だがまだ終わってはいない。弱虫を引っ張るように俺は続きを口にする。
「あのとき俺は雫を見て、思ったんだよ。ああ、美緒の代わりがいた、って」
「――……」
「俺は誰かを守って面倒を見てあげたかった。そうすることで何にもない自分が少しはまともな奴なんだ、って思いたかったんだ」
だから、と言ったはずの声は、或いは掠れていたかもしれない。
「最初、俺は雫を美緒の代わりとして見ていた。澪に対してしたのとは違うやり方だったけど、俺は雫を雫として見れてなかったんだ」
「っ」
「春に告白してくれたときに、俺は返答に困って。それはもちろん雫によく考えるよう言われたからって言うのもあるんだけど……一番は、美緒の代わりのように見てた雫から告白されたことが、複雑だったからなんだよ」
トラックの駆動音が聞こえる。
今はもう、その音を聞いて場違いな光景を思い出すことはない。
だからこそ、この気持ちは後悔だ。後になったがゆえに悔いている。
「それを謝りたかった。色んなことが俺のせいでぐちゃぐちゃになっちゃって、言う機会を失くしてたけど……謝るべきだと思ったんだ」
知れず、コロッケパンを握る力が強まった。
アイスを食べたからか体は嫌に冷えている。
「もしも、だ。もしもあの頃の雫に向けた色んな感情が理由で俺を好きでいてくれてるなら……多分、その気持ちは俺の間違いが生んだエラーみたいなものだと思う」
「――……っ」
「だから謝っておきたかったし、言っておきたかった。それで嫌われるのなら、むしろ言うべきだと思ったんだ。俺は最低で、雫に好かれるだけの魅力があるわけでもなくて、そのうえ最初から雫に対して酷いことをしていたんだ、って」
口にした言葉は、とても苦くてイガイガとしていた。
きっと失望されるだろうな。
そう思って雫を見遣ると、
「ぷっ……くっ。ぷ――あー、もう無理です! 笑っていいですよね?!」
「は?」
けらけらくすくすと、もう堪えきれないとばかりに笑っていた。
え? は……?
唐突なその反応に戸惑う。え、いや面白いところとかなくね?
「あのですね、先輩!」
びしっと雫に指をさされる俺。
「その全力シスコン発言を真面目な顔で言うのやめてもらっていいですか⁉ 可笑しくてお腹攣っちゃいそうですから!」
「い、いや、今のはシスコンじゃなくて……雫の――」
「そんなの、分かってますから! いや当時は分かってなかったですけど……先輩のシスコン具合を知ったら、察しがつきますって」
「うっ」
確かに、雫の言う通りかもしれない。
ばつが悪くなって俯けば、雫の笑い声交じりの言葉が続いた。
「でも! 最初がどうとか、そーゆう単純なことで好きが続くわけないじゃないですか。何年片想いしてると思ってるんですか? 今年で六年目とか、そういう次元ですよ? それだけ長続きする『好き』が、始まり方程度で揺らぐわけないじゃないですか」
「……っ」
ああやっぱり、と情けなく思った。
雫は眩しくて、優しくて、いい子だ。ちっぽけな部分をいつでもぽかぽかと照らしてくれる。
「だいたい、私たまに言われますしね。『綾辻さんって妹みたいなんだよな~笑』みたいな。めっちゃ引いちゃいますけどね、そーゆうの! でも小悪魔キャラと妹キャラはつよ~く結びついてるので、余裕で我慢できます」
「お、おう。いや俺のはそういうのとは違うんだが……」
「同じですよ、本質的には。だから私が先輩に言うことがあるとしたら、一つだけです」
――何故だろう。
そう告げる雫の表情は、いつもみたいに笑っているはずなのに。
沈みかけの西日のように、儚く見えた。
「『もう妹として見れない』なんて告白はノーセンキューですからね」
けれど、それは俺の怯えが勝手に見出しているもののように思えて。
現実は大抵こんなものであるような気がして。
何より次の瞬間にはその儚さは消えていたから、俺は笑って答えた。
「分かったよ。もしそのときがきたら、気の利いたフレーズを考えとく。だから笑うなよ?」
「えー、やですよー。めっちゃ笑います。ぷーくすくすって笑います」
「ひでぇ」
心の翳りは瞬く間に雫が照らしてくれる。
それから俺たちは昼食を再び食べ始めながら、他愛のない話をした。
これで大丈夫。
――そう、思っていた。




