七章#09 夢、お月様。
――夢を見ていた。
懐かしい、昔の夢だ。久々にこの夢を見たのは、今日がハロウィンだからなのかもしれない。ハロウィンは日本のお盆に似た意味合いがある、みたいな話を聞いたことがある。
夢の中でそんなことを考えられたのは、それだけ俺が、夢を夢としてきちんと認識できている証左なのだろう。
少なくとも少し前までなら夢だとは思わなかった。確かにそれが現実で、むしろそれまでの記憶が悪夢だったと考えていたはずだ。
そして目を覚まし、最悪の気分になっていた。
なんてことはない。
それは、美緒がいる頃の夢だ。あの子はそれほど体が強かったわけではないし、運動だって得意ではなかった。外で遊ぶことも少なかったように思う。
それでも夏、父方の両親の実家の海には必ず行った。
父さんと母さんは大人たちと一緒にいて。
俺と美緒と時雨さんは、大人たちの目の届くところで遊んでいた。
初めの頃は泳ぐと言っても体は小さいから、三人とも浮き輪を手放さなかったんだよな。けどそれも成長していくに従って変わり始めて、いつの間にか俺と時雨さんは浮き輪を持たなくなった。
「む……私も、兄さんや時雨姉さんみたいに泳ぎたい」
そんな風にむくれる美緒を見て、俺は時雨さんと顔を見合わせ、つい吹きだしてしまう。
そこまで子供っぽい姿を見せることはなかなかなかったから、可笑しかったのだ。
けれどそうやって笑ってしまうことが美緒の機嫌を損ね、頬はむくぅぅと膨らんで。
「そうやって人のことを馬鹿にするのはよくないと思う」
「ごめんごめん。馬鹿にしてるわけじゃないって」
「じゃあどうして笑ったの?」
「それは……ほら。美緒が可愛かったから」
「~~っ! 兄さんのばか!」
思えばそれは、小四の夏だったから。
美緒はこのときから俺を男として見ていてくれたのかもしれない。水着も珍しく可愛いのがいいって母さんにねだってた覚えが――って、そうじゃん。そうだよ、あのときから俺に可愛いって思ってもらいたくて頑張ってたんじゃん……やべぇ、そう気付いたら一層好きになった。
なんだ美緒、可愛すぎかよ……。
夢の中でも俺の初恋は輝きを増し続ける。
そう実感しながら、夢は進んでいく。
「まぁ無理することはないんじゃないかな、美緒ちゃん。美緒ちゃんはまだ体も小さいんだし」
「うぅ……うん」
「キミは美緒ちゃんの浮き輪をしっかり掴んでおいてね」
「分かってるよ時雨さん。美緒のことは任せといて」
「うん、ならよし。じゃあ楽しもう!」
眩い景色だった。
俺と美緒と時雨さん。三人で泳いで、泳ぎ疲れたら砂遊びをしたり、スイカ割りをしたりして。
時々美緒に叱られて、それを時雨さんが仲裁してくれて。
そんな懐かしくて眩しい過去が、そこにある。
――じじじじじじ
砂嵐、のちに暗転。
美緒と時雨さんの姿は消え、次に夢が映し出したのは別の少女との出会いだった。
校庭の隅、誰も見向きしないような物陰にその子はいた。
ぱら、ぱら、ぱら。喧騒とは離れて本を読んでいるその子の姿は、どこか寂しそうで。気付けば俺は、声をかけていた。
「なーにやってんの」
「きゃっ」
驚いたようにも怯えたようにも聞こえるその声に、まずい、と顔をしかめる。俺が慌ててごめんごめんと謝ると、その子は俺を拒絶してきた。
――けれど、その瞳はビー玉みたいに輝いていた。
脆いガラス玉のような瞳を守りたい。そう心から感じた俺は、その後、何日も何日もその少女を探すことになる。
そして、そのビー玉がお月様みたいにキラキラ煌めき始めたのを見て、悔いたのだ。
それは、綾辻雫との出会いの話。
どうしてこんなものを今見てるのか、俺には分からなかったけれど。
さっきまでとは違って、俺はこの夢を正しく夢と認識できていない気がした。
後悔はもうない。間違いをきちんと正してきた。
そう、思っていた。
けれど、そこで気付く。俺にはまだ後悔が残っていた。間違いを、全て正せてはいない。未だに俺は逃げているのだ。
◇
酷い夢で、酷い寝覚めで、最悪の気分だった。
ずーんと沈むような頭痛で起きたかと思うと、ざーざーざーと砂嵐じみた豪雨の音が耳に入る。部屋の空気がどこか湿っていて、それゆえに、体はどうしようもなく重い。
――なんて、色々と状況を述べてはみたけれども。
結局のところ、全てはジクジクと胸が膿んでいるのが発端なのだと分かっていた。重い空気も、息苦しさも、気持ちに引っ張られているからに他ならない。
「ははっ……情けねぇ」
俺にはまだ、精算できていないことがあって。
そのことを夢に教えられてしまった。見ないふりをするなと叱られてしまったのだ。堪らず、俺は苦い笑みを零す。
そんな俺の頬が――むにゅ、と誰かの手によって挟まれた。
「せーんぱいっ! 朝から可愛い可愛い女の子が起こしに来てるのに、なんでそのことを気にも留めず暗い顔してるんですかっ」
「は? え、あ、え?」
そんな風に、急に部屋に押しかけてくる後輩など俺には一人しかいるはずがない。
夢に出てきたよりも大きくなった今の雫は、悪天候なんてお構いなしに燦々と笑っていた。
日々を照らしてくれる太陽みたいな眩しさに目を細めつつ、俺は口を開く。
「雫……なんでここにいるんだ? 遅刻しそうだったり?」
「いえいえ、いつもどーりの時間ですよ。むしろちょっと早いくらいです」
言われて、ぼやけた頭の中で時計を見てみる。
雫の言う通り、いつもの起床時刻より15分ほど早い。雫も流石に着替えを済ませてはいないようで、ちょっとだけだらしないパジャマ姿だった。
寝起きであることも相まって、一層目によくないな……。そんな場違いな気持ちを、くは、と吐き出してから俺は言う。
「じゃあ、どうした? 困ったことでも?」
「んー。困ったことってわけじゃないんですけど。少しだけ心配になりまして」
「心配?」
「ですです。昨日の夜、いつもより美緒ちゃんと話している時間が長かった気がしたので」
「ああ、そういうことか」
雫の笑みは甘くほどけるようで、俺の苦笑とは対照的だった。
本当に敵わない。俺は肩を竦め、ぐりぐりと目の辺りをマッサージする。
確かに、昨晩は長めに仏壇の前にいた。先週までは忙しくてなかなか時間が取れていなかったこと、ハロウィンが翌日だってことに気付いて何となくそういう気分になったことなどがあり、美緒と話していたのだ。
……もしかしたらその返答が今日の夢だったのかもな、と思いつつ。
俺は首を横に振って、言う。
「別に心配するほどのことじゃないぞ、マジで」
「その割に酷い顔でしたよ。この前みたいに」
「っ。それは……」
この前というのは、言うまでもなく討論会の日の晩のことだろう。
あのときも今も、雫は俺を心配してくれていて。
眩しく照らしてくれているからこそ、夢を見て思い知った事実が胸の内を昏くする。
俺は言えていないのだ。
俺が、雫を美緒の代わりとして見て、だから声をかけたのだということを。
俺たちの始まりは間違っていて、雫が思っているよりも更に俺は最低なのだ、ということを。
「先輩?」
「い、いや、なんでもない。顔は元々酷いし、昨日から天気が悪いからな。きっとそのせいだよ」
「……そ、ですか。先輩がそーゆうなら、今日はそーゆうことにしといてあげます。私はちょーいい女ですからね」
えっへんと胸を張る雫。
ずきん、と胸が痛んだ。
澪がそうだったように、俺の話を聞いたら雫はこんな笑顔も向けてくれなくなるかもしれない。
……それでも、言わなくちゃいけないんだよな。
まだ固まりかけの決意を今は頭の隅に追いやって、雫に感謝の言葉を告げる。
「ありがとな、いつも」
「いえ。これくらいしか、私にはできませんから」




