六章#39 二人ぼっち
大河の家にはテレビはなく、スマホを弄ったり、雑談をしたりして時間を潰した。
そうして、夜11時。
我が家で見ているであろう映画も終わる時間になって、そろそろ寝ようか、という空気になった。まぁ布団はさっきから敷きっぱなしだったしいつでも寝れたんだけど。
二人で別々の布団に潜ると、帰省したときのことを思い出した。
あの頃、俺と美緒はこんな風に一緒に寝たっけ。
美緒もお化けが苦手だったんだよなぁ。
りんりん、りんりん、鈴虫の鳴き声。
ぶぉぉぉぉぉんと低い自動車の駆動音。
静寂だな、と思った。
静かで、寂しげで、だからこそ聞こえる音々。
「ねぇ、百瀬先輩」
ひっそりと聞こえたその声すらも、静寂の一部だと感じた。
天井をぼーっと見つめたまま、
「なんだ?」
と呟いた。
「えっと……」
「言いたいこと、言ってごらん。何言われても今更文句なんて言わないから」
言葉を選ぶような声色を聞き、俺は言った。
ほぅっと安堵した声を漏らすと、大河はそっと口を開く。
「私は……百瀬先輩が、好きです」
「っ、うん」
「けど、雫ちゃんのことも好きで。澪先輩とも、仲良くなりたいなって思ってて」
「澪と本当に仲良くなりたいかは、さっきのやり取り見てると疑問だけどな」
「あれは澪先輩が粘着質なのが悪いんです。私は悪くありません」
はいはい、と流しながら苦笑う。
大河の声を聞けば分かる。雫のことも澪のことも傷つけたくはない。その気持ちだけは、確かなものらしい。
――雫ちゃんを傷つけたくも、ないです
――澪先輩とも……関わるのを、やめたくないです
――私……先輩への気持ち、諦めたくないんです
か細くも確かなその祈りは、耳の奥で残響している。
「こんなこと、百瀬先輩に聞くべきじゃないのは分かってます。それでも……聞いて、いいですか?」
「……ああ」
呟いた二音は、夜に溶けていく。
大河は、ゆっくりと言った。
「私は、どうすればいいと思いますか……?」
「…………」
言うまでもなく、俺が答えるべき問いではなかった。
それでも、大河の力になってやりたいから。
「ごめん。俺には、その答えは分からない」
けど、と言って。
答えの代わりに、思い出話を一つ、することにした。
「前にさ、言っただろ。『恋とか愛とか、そういうの』分からないって」
「……はい」
「あれから考えて、実はずっと前に初恋してたんだな、って気付いたんだよ」
「えっ」
この話は、大河にしていなかった。
澪とは答え合わせのときにして、雫には……していないが、『ブルー・バード』を読んだんだ、きっと察している。
驚いた様子の大河をよそに、話を続けた。
「俺は、美緒に初恋をしてたんだよ……あ、美緒って言っても、どこかの性悪な澪じゃないぞ。最高に可愛くていい子で頭がよくて真面目な、俺の妹の話」
「妹……え、妹?」
「ふふっ、驚くよな」
「あっ、すみません」
「謝らなくていいって。驚かれるのは当たり前の話だからさ」
小三で死んだ妹が初恋だったなんて、どう考えてもおかしいし、驚かれて当然だ。まして大河には『恋とか愛とか、そういうの』が分からないって言ってたんだから、尚更だ。
「それでも俺は、美緒に恋してた。ううん、今も恋してる。澪――あ、これは性悪な方な――はさ、美緒に顔も名前も似てて。だから最初、俺は澪を美緒の代わりにしたんだよ」
「……? 代わりですか?」
「あぁ。義眼とか、義足とか言うだろ? それと同じで、妹がなくなった人のための『義妹』って言ってさ。それで、美緒の代わりをしてもらってた。最低だよな」
「……そうですね。最低です」
包み隠さないその言葉には、少なからずの驚きと、それ以外の何かが煮込まれていた。
俺はくしゃっと笑いながら、
「まぁそういうのはもうやめたんだけどな。澪は美緒とちっとも似てないし、そもそも死程度で俺と美緒を分かつことなんて、できるわけないんだから。代わりなんて、必要なかったんだ」
もちろん、あの日々がなかった方がいい、なんて思わない。
過去の累積が今だ。
ただそれでも、もしも想いを早くに自覚できていたら、代わりを必要としなかっただろうと胸を張れる。
「それくらいに俺は、美緒が好きだった。ガキだったけど、本気の本気で好きだった」
「それは……はい。伝わりました」
「ならよかった……で、そんだけ好きだったんだけど。でも兄妹の恋って倫理的にはアウトだろ? 創作の世界じゃ『禁断の恋』ってレッテルを貼られるだろうし」
「そうですね……結婚も、できないですし」
「うん。だから俺は、美緒が死ぬ前――自分の気持ちを、見ないふりしたんだよ」
あれほど美緒のことを大切に想っていたのに。
俺は、美緒の気持ちにも、自分の気持ちにも、向き合おうとしなかった。向き合えたのはついこの前の夏休みだった。
なんとなく、天井に手を伸ばした。
まぁるいLEDカバーは新月のようで、手を伸ばしても届きはしない。
それでもよかった。それがよかった。
「見ないふりをして、そのせいで美緒は死んで。初恋は、叶うわけでも破れるわけでもなく、みっともなく終わったんだ。胸の奥にぎゅうぎゅうに気持ちを押し込めて、あの子への気持ちをなかったことにして」
息を呑む声がかすれて聞こえた。
何を伝えたいのか頭の中でまとめながら、続ける。
「だから……どんな事情であれ、気持ちを見ないふりすべきじゃないと思う」
「っ」
「大河は言ってくれただろ。気持ちが追いつかない“関係”を持つのは苦しいって。それって、『好き』が追いつかないんじゃなくて、『好きじゃない』が追いつかない場合も、同じじゃないかな」
「――っ」
「俺が言うことじゃないのは、千も承知で。確かに雫を傷つけたくないって気持ちは分かるし、澪と仲良くなりたいって思ってるのも、なんか嬉しいよ」
けどさ、と付け足して、俺は言う。
「『好き』って気持ちは、そういうの全部をどうにかしちゃえる魔法だ、って。俺はそう思いたいんだよ」
口にした瞬間、臭いことを言ったな、と苦笑した。
でも本音だった。
確かに傷つけてしまうかもしれない。事実、傷つけてしまっただろう。
それでもやっぱり、誰かが誰かを好きになる想いは、世界でたった一つの素敵な魔法だと思いたいのだ。
「ごめん、今のはダサいよな。雫のことも、澪のことも、大河のことも、誰のことも考えてない身勝手な言葉だった」
「……でも。百瀬先輩の本音なんですよね?」
「ああ」
布団の中で頷くと、そっかぁ、と隣で独り言が聞こえた。
どんな顔をしているんだろう、と確かめたい衝動に駆られる。俺の言葉は届いただろうか。どう見ても身勝手な俺の言葉は、届いてくれただろうか。
「大河?」
「今日は、もう寝ます。寝る前に話をしてしまってすみませんでした」
「いや、それはいいんだけど……ちょっとは、役に立てたか?」
「……分からないです」
大河は、率直に答えた。
「百瀬先輩の初恋の話とか。そっちの方が衝撃すぎて、私の話なんてどこかに行っちゃってましたし」
「うっ」
「私の言葉を引用してくるのもむず痒くて恥ずかしかったですし、突然魔法って言葉が出てきてはてなマークが頭に浮かびましたし」
「すまん……話すの苦手なんだよ」
知ってますよ、と大河は囁く。
「百瀬先輩は、いつでも、思ったことをまとめずに言う方ですから。もしかしたらまとめてるつもりなのかもしれないですけど、いつもぐちゃぐちゃで、直球で、かと思えば遠回りで、聞き手が頑張って汲み取らないとわけわからないですもんね」
「そこまで言う? これでも国語は得意なんだけどな……」
「国語の成績なんて、関係ないですよ。それで……そこが、百瀬先輩のいいところです」
アンニュイな声を聞いて、そっか、と短く零す。
だから、と大河は微笑んだ。
「答えは自分で探します。百瀬先輩に任せたら、昨日みたいなことになっちゃいそうですし」
「お、ケンカか? 買うぞ?」
「売りませんよ。もう寝るんです。百瀬先輩も、大人しく寝てください」
ぴしゃりと言われて、くすっ、と笑みが零れた。
睡眠時間を最小限に、とか言ってた奴がよく言うよ。昨日のことだって自分が悪いとか言ってたくせにさ。
そういうところが、気に入ったんだ。
一緒にいたいって、直感的に思った。だからあのとき、“関係”を押し付けてでも一緒にいたいって思ったんだ。
「分かったよ。大河、おやすみ」
「はい……おやすみなさい、百瀬先輩」
恋や愛で傷つく人なんて、山ほどいて。
傷つけてしまった人だって、たくさんいて。
それでも俺は『好き』って言葉の魔力を信じたいと思う。
だって大河の『好き』が、俺を変えてくれたのだから。




