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六章#37 水の家

 SIDE:大河


 本当に、意味が分からなかった。

 突然押しかけてきて、急にかっこいいことを言って、しかもそのことを開き直って、いつも雫ちゃんや澪先輩といるときに見せるような笑顔を見せてくれて。

 ダメだって分かってるのに、もうどうしようもないくらいにドキドキして。


『そんな……そんなことに、なんの意味があるんですか』


 したいことを教えてと言われたとき、私は確かに拒んだ。

 一度話してしまえば、止まらない気がするから。

 フレンチトーストに込めた隠し味の名前が『愛情』じゃなくて『真心』なんだって言い聞かせて、なんとかギリギリ我慢していたのに。


『俺が嬉しい』


 なんて、言われて。

 よく分からない屁理屈をこねられて、挙句の果てに、


『ちょっとだけ、大河のことが好きになる』


 とまで言われてしまった。

 その刹那、ダムは決壊した。

 好きになってほしい。そう、思っちゃったんだ。止められなくなっちゃったんだ。


『したいことは……分かんない、ですけど。したくないことはいっぱいあります。聞いてくれますか?』

『もちろん。いつまでも、聞いててやるからさ』


 だから、もういいかな、と思ってしまった。

 百瀬先輩が言う通り。


 だから――これは、負け犬の遠吠えだ。

 情けなくて、ずるくて、みっともない戯言たちだ。


「もう、負けたくないです」


 したくないこと、一つ目。


「姉にも、他の誰かにも、負けたくないです。負けたら、苦しいから。苦しいのは嫌です」

「うん」


 百瀬先輩は、こく、と頷く。

 暖かなブランケットみたいに優しくて、言葉がするすると出てくる。


「けど如月先輩と、争いたくもないです。短い時間でも、お世話になりました。私のことを心配してくれてるのも、分かります。そんな人と争いたくないです……」

「うん」

「誰かに迷惑をかけるのも嫌です。一人で生きていけるなんて、思ってないけど。誰かに迷惑をかけたら、苦しいから。離れていっちゃうかも、って不安になるから」

「うん」

「雫ちゃんを傷つけたくも、ないです。初めての親友なんです。今までずっと、一人ぼっちで。百瀬先輩に貰った言葉を信じ続けて、ようやく見つけた人なんです」

「……? うん」


 やっぱり百瀬先輩は、『彼』としてくれた言葉を覚えてはいなくて。

 でも、頭を撫でるみたいにふんありと頷き続けてくれた。


「澪先輩とも……関わるのを、やめたくないです。まだ分からないところは多いけど、素敵な人だと思うんです」

「うん」

「姉と会うとき、後ろめたい思いをしたくないです。本当は、好き……ではないけど、尊敬してるから。今のままは、嫌です」

「うん」

「霧崎会長にも、見捨てられたくないです。凄い人だって思うから。尊敬してるから。確かに私は霧崎会長から見たら無茶で未熟なのかもしれないけど、見捨てられるのは嫌です」

「うん」


 それから、それから。

 何かが壊れたみたいに、私はたくさんしたくないことを言った。

 料理は好きだけど、掃除はしたくなくて。

 洗濯もしたくないけど、清潔感のない服を着たくもなくて。

 それで、それで―――。

 百瀬先輩が言う『したくないこと』とはどう考えても違うような、空気が読めてないことまで口にしちゃって。

 おかしな蛇口みたいに、ととと、ととと、って。


 言って、言って、言って言って。

 最後に残ったのは、ただ二つだけ。

 本当ならきっと、それだけは口にしちゃいけないんだと思う。

 どう考えても正しくない。

 こんな風に甘えただけでも充分で、これ以上を求めるのは間違ってる。

 そう思うのに、ダメだった。


「あのね、百瀬先輩」

「うん」

「私……先輩への気持ち、諦めたくないんです」

「……うん」

「好きで、好きで、好きなんです。雫ちゃんの好きな人だって、分かってるけど。澪先輩の好きな人でもあるんだって分かってるけど。それでも諦めたくないんです」

「うん」


 かは、と喉の奥から息を零した。

 思っていたよりもずっと、私はひっきりなしに話していたらしい。

 けどまだ一つ、残っているから。

 もう百瀬先輩に聞いてもらいたいって思っちゃうから。


「わたし、わたし……っ」


 気付くと、百瀬先輩のシャツの袖を摘まんでいた。

 みっともなく、弱々しく、言ってしまう。


「ひとりっきりは、いやだよぉ」

「……うん」

「家に帰って、ひとりで、いるとね。思っちゃうんです。百瀬先輩たちは、三人なんだなぁ、って。私はひとりで、三角形の外にいて、一人ぼっちなんだなぁ、って」

「うん」

「ずるい、ずるいよぉ……一緒に住んでるなんて、敵わないもん。割り込むことも、できないもん。わたしだけが……私だけが、一人ぼっちじゃないですかぁっ……ッッ!」


 吐き出してしまった。

 どうしようもないことで、誰も悪くないことなのに。

 悪いとすれば、後から横入りして好きになった私だったのに。


「そっか……そう、だよな」


 百瀬先輩は、私の手をシャツの袖から離した。

 一本一本、指を包み込むようにして。

 そして私が掴んでいた方の手を、こちらに伸ばしてきて。

 そのまま、


 ――ぽんぽん


 と頭を撫でてくれた。


「ありがとな、話してくれて。よく頑張ったな」

「っ。私は、別に――」

「そうやって何でも『別に』とか言うんじゃない。頑張ったんだよ。したくないことを、俺に話してくれた。だから俺は、大河にご褒美をやろうと思う」

「……? ご褒美?」

「ああ――なんて、今のは上から目線すぎかな。本当は、むしろこっちから頼もうと思ってたことなんだけどさ」


 百瀬先輩は、照れたように笑うと、空いている方の手でスマホを取り出した。

 何かを操作すると、ぶるる、と私が持っていたスマホが震えた。


「開いてみてくれよ。で、もし嫌じゃないなら、受け入れてくれると嬉しい」

「……?」


 なに、それ。

 よく分からないまま、でも頭に触れる手がとても温かいから、百瀬先輩に言う通りにした。

 スマホを開くと、画面にはこう表示されていた。


【〈水の家〉に招待されました】


 RINEグループの、招待だった。

 私のほかに、もう三人が入っている。

 百瀬先輩と、雫ちゃんと……あと一人はMIOとあるから、きっと澪先輩だろう。

 つまり――


「文明の利器を活かさないなんて、馬鹿のすることだろ? もちろん、こんなことだけじゃ意味はないんだけどさ。でも思うんだよ。四人でいるの、楽しいな、って。それが俺の甘えで、そのせいで三人の気持ちを傷つけてるのかもしれないけど」

「――……っ」

「だから、話したいときは四人で話そう。もし来たくなったら、うちに泊まりに来てくれてもいい」


 百瀬先輩は、入れてくれると言うのだ、

 入っちゃいけないと思っていた、三角形の中に。

 四角形の頂点になっていい。そう、言ってくれているのだ。


「いいん、ですかっ?」

「ああ。言っとくけど、これは俺だけが言ってるわけじゃないからな。雫も賛成してくれたし、澪も……すっげぇ渋ってたけど、嫌そうではなかった」


 だから、と百瀬先輩は言い足す。

 お日様みたいにぽかぽかした声で。


「一人ぼっちじゃなくて、四人ぼっちになろうぜ。得意だろ、数を嵩増しするの」

「っ……」


 四人ぼっち。

 それはもう、きっとぼっちじゃなくて。


 ――あいつもお前も、ぼっちだけどぼっちじゃないんだからさ


 そっか、と思い出す。

 この気持ちは、陳腐かもしれない。ありふれた勘違いを正してもらった、ありふれた出来事かもしれない。

 でも嬉しくて、たまらなくて。

 私は〈水の家〉なるRINEグループへの招待を、了承した。


【大河 さんがグループに参加しました】


 嬉しくて、きゅっと唇を結んでいると、ぽつんとメッセージが投下される。


【しずく:大河ちゃんきた!】

【しずく:よろしくね!】

【MIO:入らなくてもよかったのに】


 澪先輩は、ケッ、って舌打ちする狐のスタンプを押していた。

 歓迎はされていないけど、迎えられてはいる。そんな感じがして、くすっ、と笑みが零れた。


【大河:よろしくお願いします】


 ぽんと打ち込むと、雫ちゃんが満面の笑みの犬のスタンプを、澪先輩はそっぽを向いた黒狐のスタンプを押す。

 賑やかになったトーク画面が、ぽっ、と心の奥の方を温めてくれた。


「これでまず一つ、したくないことをせずに済んだな。それじゃあこの調子で、他のも全部やらずに済ませてやろうぜ」


 百瀬先輩は頬杖をつきながら、ニカっと笑っていた。

 私がぽかーんとしてると、くくくと楽しそうに頬を緩め、口を開く。


「宣言通り、嬉しくなった俺は非常に素晴らしい名案を思い付いてたんだよ。時雨さんにも、如月にも、入江先輩にも誰とも戦わずに絶対に勝てる名案」

「名案……」

「そ。どうだね、大河くん。策士百瀬友斗の妙案を聞いてみないか?」


 そんなのあるはずがなくて。

 もう私の願いは充分に叶えてもらっていて。

 けどあんまり百瀬先輩が素敵な顔をしてるから、気付けば私は、頷いていた。


「そうこなくっちゃな。じゃあ――」


 そうして、百瀬先輩が話したのは、妙案でも名案でもなかった。

 そもそも案ですらなかったのだけれど。

 それでも、そんな斜め下のやり方は、私の願いを全て叶えてくれるものだった。



 ◇


 SIDE:友斗


「ふぅ。結構話したな。もう外も暗いし」


 俺が思いついた、全てを解決するたった一つの方法。

 それを説明して、時々横道に逸れて、たまにRINEで雫や澪とも話していたら、あっという間に日が暮れていた。


「もう、秋ですからね。夜も長いですし」

「そうだなぁ……10月も半分以上終わってるわけだしな。月日ってほんと過ぎるのが早い」

「まるで老後みたいなことを仰るんですね」

「最近忙しかったのが一気に脱力できたせいか、すげぇ体も心も老後気分なんだよ。年金貰ってダラダラ暮らしてるまである。徒然なるままにってやつだな」

「『徒然草』に謝るべき発言ですね……」


 大河の苦笑いを横目に、俺は時間を確認した。

 もう夜6時。外はすっかり昏くなっていて、夜って感じがする。思いのほか長居してしまったが、そろそろ潮時だろう。


「んじゃまぁ、今日は帰るわ。明日は特にやることないし……ちゃんと休んで、それでも暇だったら最終演説の原稿でも考え――」

「ま、待ってくださいっ!」

「――れば、っと。ん、なんだ?」


 勢い余って続きを言おうとした俺は、なんだか緊張した様子の大河の声で首を傾げた。

 今の流れで怒られるポイントはなかったよな……?

 先生に休み時間職員室に来るようにって言われた小学生みたいな気分で自分の言動を顧みていると、大河は、その、と震えた声で言った。


「……今日は、一人になりたくないです」


 何を言うかと言えば、そんなことか。


「なら、いつでもラインしてくれ。食事中は、まぁ、行儀が悪いから見ないが……それ以外だったら俺も雫も――」

「そういうことじゃなくて! 物理的な意味です」

「へ?」


 物理的な意味って……つまり、フィジカルってことか?

 つい出てしまった間抜けな声を飲み込んで、自分を落ち着けながら確認をとる。


「それはつまり、あれか。うちに来たいってことか」

「そう、ではなくて……」

「なら……俺に、泊っていけ、と?」

「…………」


 ふにゅりと口元を歪めた大河は、やがて何かを思いついたように声を上げた。


「しゅ、終電なくなっちゃってますから!」

「こんな時間に無くなったら会社で頑張ってる世間の皆さんが大変だろうが。あと、うちは徒歩圏内だ」

「うっ……だ、だったら、その。当店の本日の営業は終了しましたので、出入口を使用することはできません」

「なんだその無理筋……客を帰らせないのに営業終了とかわけわからねぇ」


 分かるのは、どうしても大河が俺に泊まっていってほしいということだけだった。

 正確には帰らせたくない、なのかもしれない。

 なんだかこの流れ、数週間前に誰かさんにやられた気がする。あのときは泊まる場所がレーティング的な意味で酷かったからそれと同じにするのはどうかと思うが……それにしても、うーむ。


「あのな、大河。流石に泊まっていくとか無理に決まってるだろ。着替えとかだってさ」

「着替えは、ここを使っていた親族のものがあります。新品ではないですが綺麗に保管してあるはずです」

「ぐ……その他、衛生グッズとか」

「バスタオルも、歯磨き関連も、予備があります。どうしても嫌だったらコンビニまで走って買ってきます」


 大河は、だから、と俺を見上げて言った。


「泊まっていって、くれませんか? はしたないことしてるなって自覚もあります。身勝手で、卑怯で、引かれちゃうかもなって。でも――まだ、勇気が足りなくて」

「勇気、か」


 勇気。

 うん、そうだろう。大河はこれから、とても勇気がいることをする。

 自覚してかっこ悪いことをするのって、凄く勇気がいるはずだ。


 ――なんて、きっとそれは全部今組み上げた理屈で。

 実際のところは、こんな風に頼まれて断るだけの勇気も理性も頑固さも、俺が持ち合わせていないだけなのだと思う。


「しょうがねぇな……分かった。じゃあ泊まらせてもらう」

「っ!」

「但し、入江先輩には絶対に言うなよ。俺が殺されるから」

「…………百瀬先輩、かっこつけにきたなら最後までかっこつけてください。言いにくいですがとてもかっこ悪いです」

「いやあの人はマジで怖いし。例外ってことで許してほしい」


 そんなこんなで。

 休日にいきなり押しかけ、昼食をたかった俺は、とうとう泊まり込むことになった。

 我ながら無計画かつヒモすぎてやばい。

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