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六章#33 夜に

 家の匂いがした。

 嗅覚は、五感の中で最も記憶に残りやすいのだという。

 ならばこの匂いも、何年、何十年と先まで覚えているのだろうか。

 この匂いを思い出すとき、俺はどんな記憶を想起するのだろうか。


 そんなことを考えたからか、雫の顔を見たとき、俺はどうしようもなく顔をしかめてしまった。


「む……なんですかそのちょー嫌そうな顔。そんなに私に会いたくなかったんです?」

「いや、会いたくなかったっていうか」

「会わせる顔がなかった、ですか?」

「……ああ、そうだよ」


 否定したところで、意味はない。

 あぁそうだよ、会わせる顔がない。大河が俺に言ったように、俺も雫や澪に対してそう思っているのだ。


「夜更かしは肌によくないぞ」

「余計なお世話です。私の肌のことは私がよーく分かってます。あ、なんなら触ります? どーしてもすりすりさせてほしいなら、許してあげてもいーですよっ」

「遠慮しとく」


 ぴかぴか、赤鼻のトナカイみたいに笑う雫。

 彼女はキッチンまで行くと、とぽとぽとカップに牛乳を入れた。温めようかと逡巡するようにレンジに目を向け、こちらを一瞥し、結局温めずに俺の隣に座った。

 思っていたよりも近くて、肩が触れ合う。

 そんな風にしている場合じゃないから、拳二つ分、距離を置いた。


「むむむー。そこで離れるのはポイント低くないですかねー。今のは私が肩に頭をのっけるところでしたよ」

「……すまん、雫。今はそういう気分じゃないんだよ」


 笑顔が心に染みて、逃げの文句を口にした。

 もうやめてくれ、って。

 元気づけようとして笑ってくれてるのは分かってる。

 シリアスな空気をコメディで染めて、助けてくれてるのは分かってる。

 大河といたときも、今までも、雫はいつもそうしてくれているから。


「はぁ。今まで、先輩がそーゆう気分だったことってあるんですかねー」

「っ」

「だって、今まで基本的に私が押してましたし。先輩から押されたことほぼないですし。カップル擬きだったときにハグしてって言ったときですら、めっちゃ渋ってきましたし」

「うっ……それとこれとは、関係なくないか?」


 言うと、雫は首を横に振った。


「ありますよ。大河ちゃんは、そんな先輩が変わるきっかけをくれたんですよね? 恩人なんでしょ?」

「……っ。俺、そんなこと言ったか……?」

「言ってなくても、分かります。私はね、先輩。人を見るのがとーっても得意なんです」


 まぁお姉ちゃんと先輩のことは最初に見誤っちゃいましたけど。

 そう、くすりと笑って言い、続けた。


「大河ちゃんのことが好きで、先輩のことも好きで。だから分かります。大河ちゃんがくれたものがあるんだな、って」

「うん……」

「だからこそ――はい、先輩」

「うん……?」


 ぺちぺち、と自分の太腿と叩く雫。

 まだ寒くなりきっていないからかホットパンツを履いているだけで、瑞々しい肌色が露出している。

 えっと、改めて。うん……?


「その何やってんだこいつ、みたいな目やめてくださいよ。分かるでしょ? 膝枕です」

「分からない。一から百まで分からない」

「零から一までは分かるなら、上出来ですね」

「そういう言葉遊びされても、分からないものは分からないんだが」


 膝枕をされろ、って言うのか?

 大河を傷つけて、今も何もできていなくて、情けなくてしょうがないこんな夜に。

 流石にそれは、倫理観がイカれてるだろ。


「雫は……何も思わないのかよ。大河は、どう考えても傷ついてた。俺のせいで、あんな大勢の前でお前じゃダメだってつきつけられて」


 と、口にしている時点で俺の倫理観はイカれていた。

 何も思わないわけがないじゃないか。

 俺の後悔を裏付けるように、雫は、上手な作り笑いを見せていた。


「あははっ……思いますよ、先輩。でもね……そーゆうときでも、私はあざとくいるって決めたんです。そうすれば大切な人のことを、元気づけられるから」

「っっ。ごめん、今のは、その――」


 その、なんだ?

 間違えたわけじゃない。ただ俺が、クズだっただけだ。

 ぎゅぅぅと胸の辺りを握ると、服がごわごわと音を立てた。


「今日の先輩は、最低です」

「……あぁ」

「今日だけじゃないです。最近、ずっと。最低です」

「ああ。分かってる。俺が最低じゃなかったことなんて、ないからな」

「むぅっ! そーゆう言い方をするから! そーやって逃げるから、いつまでもダメなままなんじゃないですかっ⁉」

「――っ」


 ぱちん、と雫の両手が俺の頬を挟んだ。

 ぐにーっと頬を引っ張ると、雫はムッとした顔で言う。


「先輩が最低なのは、ここ最近だけです。それは何故かと言えば、先輩が寝不足だからです」

「は?」

「先輩、昨日何時に寝ました? 一昨日は? その前は?」

「え、えっと……いや、分からんけど。そんなの関係ないだろ」

「関係あります」


 強く言い切ると、雫はがぶがぶと牛乳を飲んだ。

 口元にできた髭をぺろりと舐めて、今一度頬をぱちんと叩く。


「いいですか! 先輩は、文化祭のときからずーっと、ばっっかみたいに寝ないで、延々と作業したり、考え事したりしてるんですよ?」

「そんなことは……なくは、ないけど。でも寝てるぞ」

「微々たる量だけ、ですけどねッ! 基本は寝ないで、ずぅっと作業してます。まるで不安で不安でしょうがないって感じで」

「それ、は」


 否定、できない。

 大河が立候補すると決まってからはずっと、何かできないかってことばかり考えていた。何かをするわけでもないのに考え込んで、無意味に睡眠時間を削ったりしてたっけ。


「そうでもしないと、大河に報いることができないんだから……しょうがないだろ。あいつを応援するって決めたのは俺なんだからさ」

「なら、尚更です。今は何もできることないんですよね? ろくな考えが浮かばないくらい、疲れてるんですよね?」

「だから膝枕って……飛躍しすぎだろ」

「してませんよ。だって、膝枕でもしないと、先輩の涙に気付いてあげられませんから」


 薄明かりの下で、


「見えないようにしても、

 見ないことにしてあげても、

 肌で感じていられるから――だから」


 ぺちぺち、と太腿を叩いた。

 その優しさの雫を零してしまわぬように、分かったよ、頷いて、雫の太腿に頭を乗せる。思ってたよりも何倍も柔らかくて、けど固さがあって、生きてるんだな、と場違いに思う。


 耳が太腿に塞がれると、まるで命を聞いているみたいな気分になった。

 生暖かさよりも居心地の悪さが先んじて、それなのに心地よかった。このまま微睡めてしまえるくらいには。


「えへへ、くすぐったいですね。というより、うーん……こそばゆい?」

「知らねぇよ。重かったら、やめるぞ。寝不足なのは実感したから、枕を使ってちゃんと寝るし」

「ダメですよ、何言ってるんですか……ここで捨てられたら、折角お困りの先輩にアドバイスしてあげよーって思ってた健気な私が困っちゃいます」

「別に捨てるわけじゃ……。それに、もう充分力に――」

「いいから。今だけはいい子で寝てて。ね?」

「っ」


 そんな風に言われたら、黙るしかなかった。

 ぽんぽんと俺の頭を撫でると、雫は寝物語を聞かせるように言う。


「ねぇ先輩。先輩、大河ちゃんに好きだって言われましたよね」

「なっ」

「今更驚いてもしょーがないですよ。ちょー分かりやすいですし」

「……そっか」


 隠せと言われたわけじゃない。

 俺が脱力すると、雫はくすくすと子供をからかう母親みたいに微笑んだ。


「ここからはね、先輩。私の勝手な推測です。当たってなければ、気にしなくていいですし、何なら罰ゲームにかこつけて私にいたずらしちゃってもいいです」

「お、おう」

「先輩は、隣に立ちたかったんじゃないですか? 罪悪感なんて抱えずに、一緒にいられるように」

「…………」

「だから、力になりたくて。けどそんなのお節介で、自己満足で、かっこ悪いから。かっこつけるためにメンドーな方法を選んで」

「………ん」

「そしたら今度は、他にも大河ちゃんを大切にしてる人が現れて。そのせいで拗れて。けど自分の方が大切にしてるって思いたくて、意地張って。その結果が今なんじゃないですか?」


 どうして、と思った。

 どうしてこうも容易く掬い取ってしまうんだろう。


 大河が頑張っているところを見たい。

 その気持ちは、嘘じゃない。

 但し、正確でもない。


 俺は――大河が頑張っているところを、隣で見たかった。

 背中じゃなくて、横顔を見たかった。

 でも俺は助けられたから、眩しくないから、隣に立つのは難しくて。


「もしそうなら、とあえて仮定法を使います。過去形になるあれです」

「英語、頑張ってるもんな」

「はい、頑張ってます。先輩と、大河ちゃんが教えてくれたから。そんな二人を知ってる私に言わせるとですね、先輩」


 こしょ、と耳に触れる雫。

 か細い指は、けれど、とても心強く感じた。


「大河ちゃんは、そんなに立派な子じゃないですよ。真面目っていうか頑固で融通が利かないだけですし、友達が好きな人のことを好きになっちゃいますし」

「は……?」

「真っ直ぐですけど、真っ直ぐ行く方向を間違ってるせいで結果的に捻くれてますし。愛想悪いですし、私がすっごーく誘ったのに文化祭の打ち上げにも来てくれませんでしたし」

「え、なに、お前ら今ケンカしてる?」

「してませんよー? 人間関係ってこーゆうものじゃないですか。たくさん気に入らないことがあって、でもそういうのぜーんぶひっくるめて大好きで」

「そういうもの、か」

「そういうものです。そーじゃなきゃ、先輩のこともお姉ちゃんのことも大嫌いになってますよ。みんなみんな、ほんっっとメンドーなんですから」


 目に入りそうになった前髪を丁寧にどけてくれた後で、雫は、だからね、と言った。


「先輩は、大河ちゃんを高く見積もりすぎなんですよ。ほんとの大河ちゃんは、もっと地に足ついたふつーの女の子ですよ。力になってあげたいなら、かっこつけたりしないで、素直になればいいじゃないですか。かっこ悪く言えばいいんですよ。『かっこつけさせてくれ』って」

「……そ、か」

「はい。そーゆうこともせずに突っ込んで、挙句視野が狭くなって、本来の目的を見失うとか、そっちの方がかっこ悪いんですから」


 そうか……そう、だな。

 当たり前のことだった。当たり前で、けど見えなくなっていた。

 本当に大切なことは目に見えない。そう言ったのは『星の王子様』だったか。

 王子様になんてなれないけれど、見失っちゃ、ダメだよな。


「ありがとな、雫」

「いーえ。膝枕できて私的にも気分が晴れたので、お互い様です」

「俺のためってより自分のためだったのかよ……」


 なんて、それが冗談だと分かっているけれども。


「時に雫」

「何ですか先輩」

「膝枕は微妙に寝にくいから、普通にベッドで寝てきたい」

「む……なんか不服ですけど、癒された感がある顔はしてるので許してあげます。ちゃんと寝てくださいね」

「分かってるよ。ちゃんと寝る。寝て、その後、軌道修正する」


 笑う門には福来る。

 なら笑っていようじゃないか。どれだけ涙を流してしまったのかは、雫だけが知っていてくれて、俺すらも知らずに済んだのだから。

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