六章#14 一人ぼっち
「私は去年から、霧崎先輩のことを見てきた。百瀬くんが私を『書記ちゃん』としか認識してなかった頃からね」
「まだそれ引きずってんのかよ」
「いつまでも言うわよ。だって私は――それくらい、モブだったの。少なくとも生徒会では」
「そんなことはないだろ」
「ううん、あるわ。ここは断言させて」
「……分かった」
言いたいことは幾らでもある。
如月は生徒会で頑張っている。時雨さんと比べればその能力は劣るだろうが、常人離れしたあの人と比べるのがそもそもおかしい。
それで、と如月は続ける。
「霧崎先輩を見てきたからこそ、私は知ってる。生徒会長は本当に大変な仕事よ。目に見える仕事だけじゃない。先生たちと戦って、外の人とも話し合って、みんなの中心にいなきゃいけない」
「そうだな」
俺も、時雨さんの苦労を全て知っているわけではない。が、同じことをやれと言われれば難しいと答えるだろう。
たとえば、新入生歓迎会のとき。
時雨さんは急遽先生に呼び出され、別の用件をしなければいけなかった。それでも他のメンバーのことも考えて指示を出さなくてはならない。
体育祭のときも、七夕フェスのときも、校内での活躍は目立っていなかった。
しかしその分時雨さんは、外部の人と協議を繰り返していた。まぁ体育祭の場合には余計なこともしまくってたけど。
「やらないといけないことをやって、それでようやくマイナス評価がつかない。生徒会長ってそういうものだわ」
「あぁ……だな。新しいことをやらないとプラス評価にはならない」
「そう。どれだけ頑張っても、すべきことをしているだけでしかなくて、その程度じゃ評価はされない。それでも――二年目ならきっと、多少は余裕ができるわ。新しいこととまではいかなくても、細かいことを改善したりする余裕ができる」
けど、と如月は暗い表情で言う。
「一年目は違う。それを、私は痛いほど知っているわ。一年目は本当に分からないことだらけ。分からないことをなんとか分かることで誤魔化して乗り切るしかないの」
違うとは言えなかった。
分かりやすいのは七夕フェスだろうか。大変さを経験者である三年生と俺しか理解できなかったように、生徒会自体をやったところで未経験の行事には100%の活躍を見せることはできない。
「会長じゃなければいいわ。もちろん期待はされるけれど、会長ほどではないもの。でも生徒会長は違う。ちっぽけな学校の単なる生徒会長だとしても期待や責任は、あるものよ」
ううん、と首を振って続ける。
「本当は誰にも期待されていなくとも、誰かが支えてくれたとしても、誰しも期待や責任を感じるものなの。特に大河ちゃんみたいな子はね」
「…………」
「もっと辛いのは、その先。上手くいかなくて、頑張って、それでもやっぱり自分が上手くやれなくて。それなのに全体が上手くいったときが、何より辛いものよ。
――自分の失敗なんて大したことない。
そう気づいてしまう瞬間は、苦しいわ。大河ちゃんみたいに孤独で、意地っ張りで、強い子なら尚更」
ずきん、と胸が痛んだ。
想像できてしまったのだ。
大河がそんな風に傷つくところを。
「私は大河ちゃんのことを、可愛い後輩だと思ってる。だからこそ先輩として、あの子を守りたい」
「……あぁ」
「けど、私がやるくらいなら百瀬くんがやった方が、きっといいと思う。大河ちゃんにとっても、生徒会にとっても」
「だから時雨さんはあんな提案を?」
聞くと、如月は何とも言えない顔をした。
そうね、と迷うように言って続けた。
「私の思いも汲み取ってくれた。それだけだと思う。霧崎先輩も、入江先輩も、きっとそれぞれ思惑があるはずだから」
「そう、なのか……」
つまり、三人は各自の目的のために手を組んでるだけにすぎないってことか。
まぁ今考えるべきはそこじゃない。
「それで、どう? 百瀬くんは生徒会長をやる気になってくれた?」
真剣に考えろ、と予め告げられていた。
俺にやってほしいわけではなく、大河にやらせないために、如月は言っている。
ならば考えることがこれまでと違う。
俺が適切か否かではなく。
俺が代わるべきか否か。
「俺は……」
再三問われてきた。
自問もした。
生徒会ですらない俺がここまで介入していいのかと罪悪感を抱いたことすらあったように思う。
――なら。
そんな風に思い悩むくらいなら、一年だけ、先輩をやるのもありなんじゃないか?
「俺、は――」
迷って、迷って、迷った。
そのくせ思考を終えても刹那しか経っていないのだから、時間は厄介だ。
息を吸い込んで。
俺は、真剣に考えた答えを口にする。
「俺はやらない。如月にも、やらせない」
「っっ……」
「大河ならできる。そう、俺は信じてるんだよ」
「信じてる」
俺の言葉を、如月は反芻した。
その瞳は――失望に満ちていて。
「信じて、それで大河ちゃんが傷ついたら百瀬くんは責任が取れるの? あなたのそれは、自分の弱さを隠す理由に大河ちゃんを使っているだけじゃないのッ?」
「――ッッ!」
違う、と断言したい。
事実、違うはずだった。
けれど昨日大河に口にした言葉が。大河を激励するために口から零れた言葉が、真綿のように首を絞める。
「あなたがそうするのなら、好きにすればいい。私は大河ちゃんを守る。だって――あの子も、あの場所も、好きだから」
如月は俺に屋上の鍵を渡すと、屋上を出て行った。
残るは俺一人。
そして、誰もいなくなった。
俺以外、誰もいなくなった。
一人ぼっちだ。
◇
SIDE:大河
制服のまま寝転がれば皴がつくことなんて、嫌というほど理解している。
逃避のように一人暮らしを選んで、半年が過ぎた。
一人で生きることの難しさなんて、そんなの当たり前みたいに分かっていて。
それでも体は重くて、私は制服のまま敷きっぱなしの布団に倒れ込んだ。
以前、百瀬先輩に看病してもらったことを思い出す。あの日、私は久々にベッドで眠った。あれからたまにベッドで眠るようにしているけれど、依然として寝すぎないために居間で眠る日も多い。
片付けるのが億劫だから、布団は出しっぱなし。
そのせいで食べ物の匂いとか、シャンプーの匂いとか、そのほか色んなもののにおいを吸い込んで、臭いと書いた方が適切に思えるにおいがする。
「はぁ……」
まさかこんなことになるなんて、思わなかった。
如月先輩は会長をやりたがっているようには見えなかったから、会長の席は空いていて、私が生徒会に入るとしたらその席がベストなんだ、と。
私が会長で、如月先輩は副会長。百瀬先輩には助っ人として入ってもらう。
補佐としてではなく、今度は未熟な会長として、百瀬先輩に助けてもらって。
そうして今の関係をリセットできたなら、変われると思っていた。この気持ちに蓋ができるはずだ、って。
なのに、その願いは叶わない。
如月先輩は会長に立候補して、霧崎会長と姉が推薦人になった。
――入江恵海
霧崎会長はもちろんそうだけれど、それよりも私は姉の存在に絶望した。
姉に勝てるはずがない。今まで、一度だってあの人に勝てたことはなかった。あの人のように上手くも強くもなれなくて、劣等感ばかりが降り積もる。
姉には勝てない。
だから――だから私は、逃げたのに。
どうしてこの想いから逃げて正しい道を行こうとしたら、姉が立ち塞がるのだろう。
私は……っ、私はっ。
――ぶー、ぶー、ぶー。
不意に泣きじゃくりそうになっていると、ブレザーの胸ポケットに入れていたスマホが振動した。
布団に埋まりながら確認して、それが百瀬先輩からのRINEであることに気付く。
【ゆーと:電話、かけてもいいか?】
いい、わけがない。
だって今百瀬先輩の声を聞いたら、ほっとしてしまう。どうしようもなく一人ぼっちな夜にあの人の声を聞いたら、それだけで胸がときめいてしまう。
恋は盲目だ。
始まりは些細だったのに、こんなに好きになるなんて。
私の『好き』は、百瀬先輩を助けるための道具でしかなかったはずなのに。
【大河:分かりました。お願いします】
結局私は、断ることができない。
必要なことだからと言い訳をして、大切な友達を裏切る。
――とぅるるるる
着信。
なるべく縋らぬようにと決意して、電話に出た。
「もしもし?」
『もしもし、大河か?』
「私以外が出るわけないじゃないですか」
『それもそうだな』
百瀬先輩は、電話の向こうでくしゃっと笑った。
『それで、生徒会のことなんだけど』
「……はい」
『大河は、どうしたい?』
百瀬先輩の言葉に、私は唇を噛んだ。
生徒会長には……正直、憧れる。
姉は一年生のとき、生徒会長になろうとしたそうだ。しかし霧崎会長に敗れ、諦めて演劇部に専念することにした。
だからもしも今年生徒会長になれたのなら、少しは劣等感を抱かずに済むかもしれない。
些細なことだし、くだらないことだし、そもそも状況が違うけれど。
姉のことは好きだから、私はあの人に劣等感を抱かずに向き合いたい。逃げたく、ない。
でも――
「姉に、勝てるとは思えないんです」
負け続けた心は、容易く立ち上がってはくれなかった。
「もちろん霧崎会長も、如月先輩も、凄い方です。二人になら勝てるなんて思っているわけじゃありません」
『うん』
「でも、ダメなんです。姉には……姉にだけは、絶対に勝てない。怖いんです。姉と戦うのが」
それに、と。
一度言い始めてしまえば、言葉は止まってくれなかった。
「霧崎会長や如月先輩が仰ってたことも、納得できるんです。物事には順番があって……私は、割り込んでしまっただけですから」
生徒会にも、三人にも。
私は免罪符を振りかざして割り込んだ。
「だから私は、会長に立候補するべきじゃないんだと思います」
ズルをしてはいけない。
――君にはかっこいいのが似合うよ。昨日さ、いじめられてた猫を助けてあげてたときもかっこよかったから
百瀬先輩が褒めてくれた私は、正しいことをする私だったから。
私はあの日、正しく在ろうと決めたから。
『ちょっと、関係ない話をしていいか?』
「一昨日みたいな、ですか」
『一昨日のよりは関係がある話だ。俺と、あと俺の身近にいる人の話』
嫌ともいいとも言えなくて、黙り込む。
その沈黙を肯定だと取ったらしく、百瀬先輩は話し始めた。
『俺の周りはさ、どうもシスコンが多いらしいんだよ。類は友を呼ぶってやつなのかもしれないけど』
「シスコンですか」
『そう。一人は、澪な。あいつは凄い。俺も軽く引くレベルのシスコンだ。この前なんか雫と一緒に風呂に入ってたんだよ』
「っ、百瀬先輩、もしかして覗――」
『いてねぇよ⁉ 俺のことなんだと思ってるのカナ?』
「すみません、冗談です」
冗談というより、逃げ口上だった。
三人で暮らしているんだと、否が応でも実感してしまいそうになったから。
『で、かくいう俺も自慢じゃないがシスコンだ。前に話しただろ。二つ下に妹がいたって』
それは夏休み、電話越しに聞いたこと。
詳しいことは何も知らないけれど、大切な存在なんだ、とは分かった。
『そいつのことが好きでさ。もう溺愛してたんだよ。いや、今も溺愛してるな。毎日仏壇でめっちゃ話すし』
「そう、なんですか……っ」
『あ、引いただろ。……まぁ引かれてもいいんだけどな。どう思われようと、この気持ちは変わらねぇから』
ふふっ、と微笑し、百瀬先輩は続ける。
『それで。残りの一人が、お前の姉さんな。入江先輩』
「えっ」
『あの人のシスコンっぷりも、多分酷い。この前、お化け屋敷に行っただろ。あのときにも色々と言ってきてな』
あの人が……?
想像できない。あの人は、私が嫌いだと思っていた。あの人に少しも届かない出来損ないの私なんて、邪魔なだけだ、と。
もしも、だ。もしもあの人が私のことを大切に思ってくれているのなら。
なら……私の劣等感も、少しはマシになるだろうか?
答えはすぐに出た。否だ。
「それで……その話が、どう関わるんですか? 姉が私を好きだから、怖くない、とか。そういうことを仰るんですか?」
『あー、それもありか。いやでもあの人は怖いしな。怖がるなとは言えんよ』
「それはそれで人の姉に対して言うべきではないと思いますが」
『そこは許せ――で、何が言いたいかというとさ』
百瀬先輩は、言葉を選ぶように溜息を漏らした。
えっと、と迷いながら、百瀬先輩は言う。
『入江先輩がそうであるように、大河のことが好きだって奴はたくさんいる。如月も、時雨さんも、雫もな』
「……はい」
『好きだからこそ、大河の前に立ち塞がってる。そこには色んな思いがあるはずだよ。俺が分からないような思いも、きっと』
「なら私は、やっぱり――」
『けどな』
やめた方がいい。
そう言う前に、百瀬先輩が続けた。
『その気持ちに応える必要はないだろ。ううん、応えるにしても、応え方はそれぞれだ。相手が好きだって思ってくれてるように、大河が相手を好きって思うからこその応え方もあるんじゃないか?』
その声は、自信がなさそうだった。
拠り所なさげな声。それでも百瀬先輩は、先輩らしい背中を見せてくれているんだろう。
『もちろん、きついなら無理強いはしない。副会長は空いてるし、その他の枠に収まってもいい。生徒会をやめるのだってありだ。でも俺は……大河が強い奴だって知ってる』
「私は、強くなんて――」
『強いよ。大河のおかげで、俺は間違いを正せた。間違ってるって言ってくれた大河のおかげで、な。そんな大河なら、って俺は期待してる。まぁこれは完全な俺のエゴだ』
「…………」
『色々言ったけど、言いたいことは一つ。好きだって思って、好きだって思われて、そのせいで苦しむことなんてあっちゃダメだと思うんだ。だから――大河は、大河がしたいようにしてほしい。大河なりの応え方を、見せてほしい』
それはきっと、百瀬先輩だから言えることなのだろう。
夏休みを経て、雫ちゃんや澪先輩を傷つけて、自分も苦しんで。
だからこそ見つけた、『好き』で苦しむべきじゃないという考え。
もちろん今回の『好き』はそういう好きじゃないけれど、言っていることは分かる。
『賢者の贈り物』のようになってはいけない。
つまりはそういうことなのだと思う。
「百瀬先輩」
『ん?』
「私……まだ、諦めたくないです。私のことを思って立ち塞がってくださっているなら、その気持ちに応えて諦めるんじゃなくて、その気持ちに応えて乗り越える方を選びたいです。その方が《《正しいと思う》》から」
『そっか』
百瀬先輩の声は、心なしか嬉しそうだった。
『なら……勝つか、あの三人に』
「できますか……?」
『さぁ、分からん。でも澪はあの二人に勝ったわけだし、俺と大河で協力すれば、なんとかなるだろ。教育係と補佐の関係は伊達じゃねぇよ。……ま、今回は俺が補佐だけど』
「ですね。なら――よろしくお願いします」
『おう』
詳しい話は、また今度。
そう言うと、百瀬先輩は電話を切った。夕食を作らないといけないらしい。見れば、もう7時。私は自分が思っていた以上に布団で時間を無為にしていたみたいだ。
つー、つー、つー。
嫌というほどに終わりを主張するスマホを枕の下にしまって、私はその場で蹲った。
一人ぼっち。
一人ぼっちで誰にも聞かれずに済むから、私は呟いた。
「好きだからこそ苦しいことだってあるんですよ、百瀬先輩……」
このまま近づけば、きっとダメになる。
だからもう、この想いには完全に封をしよう。封をして、その上に“関係”を貼り付けよう。
――百瀬先輩がそうしていたみたいに。
男と女であるのはやめて、先輩と後輩になろう。
それが正しいことで。
人に見られていなくとも、正しいことをすべきで。
それが私だから。
私は、強く心に誓った。




