六章#13 降伏勧告
茜色の空に、ぐぅぅぅんと伸びる飛行機雲が線を引いている。
空の彼方のボーダーは、俺たち人間には壮大すぎる。
時雨さんの言葉は、飛行機雲の代わりに、俺たちと時雨さんたちの間に境界線を引いた。
「降伏勧告……?」
「うん、そうだよ。ボクも恵海ちゃんも、如月さんを生徒会長にするつもり。だからキミたちには降伏してほしい」
「随分と直球だね」
「ボクらしいでしょ?」
「……まぁね」
時雨さんはいつでも直球だ。大河とは違う意味で、だけれども。
秋の匂いに身を任せるように、すぅと息を吸い込むと、朝から張り詰めていた思考がほぐれた。大河を一瞥し、俺が一歩前に出る。
「降伏しろって言われても、まだほとんど理解できてない。まずは説明をしてほしいんだけど」
「説明? 見ての通りだよ。ボクと恵海ちゃんは実は仲良しで、如月さんに協力することにしたの」
「……仲はよくないけれど、それ以外のことは概ね間違ってないわね」
「そこは仲良しってことにしたかったのになぁ」
「嫌よ」
時雨さんと入江先輩は、わちゃわちゃと話している。
てっきり犬猿の仲だと思っていたが、そうではないようだ。それがよいことなのか悪いことなのかは判断がつかない。
つーか、あれだな。二人が敵に回っているって考えたら、圧倒的に悪い。具体的には旗色が非常に悪い。
はぁ、と溜息をついて、同時に頭を回す。
「時雨さん。どうして今更になってこんなことを? この前まで、大河が生徒会長になるって話に反対してなかったよね」
「うん、そうだね。今も反対はしてないよ」
「なら――」
「世の中には順番があるってボクは思うんだ」
「……っ。つまり大河は来年になればいい、って?」
「話が早いね」
大人びた微笑を浮かべる時雨さん。
時雨さんが言うことかよ、と苦笑する。順番なんてお構いなしに二年連続生徒会長の座に君臨したのはあんただろうが。
「不服そうだね」
「そりゃもちろん。こんな急に色々言われて、はいそうですか、って納得できるわけがない。そんな生半可な気持ちで大河を推してるわけじゃないよ」
入江先輩の眉がぴくりと動く。
すぅぅと目を細めてこちらを見つめると、入江先輩は一歩前に出た。
「本当にそう思うなら、私たちに勝てばいいわ」
「っ……そうですね」
「もっとも、生徒会について詳しくない私でも、それがどれほど難しいのかは分かっているのだけれど」
「「――……ッ」」
俺も大河も、そんなことは百も承知だった。
俺たちが抱える問題を数えるように、入江先輩は二本の指を立てる。
まずはその中の一本を折って。
「第一に、大河は一年生。見習いとして頑張っていたようだけれど、その程度では弱いわ」
「……姉さん」
大河が、悔しそうに唇を噛む。
入江先輩は不敵に笑い、もう一本指を折った。
「第二に、如月さんには私と時雨がついている。手前みそになるけれど、私も時雨も学校の中では有名人よ。ほとんどの生徒にとって、生徒会の選出は人気投票に等しい。私たちが応援演説をするだけで票を入れてくれる生徒はいるはずね」
「っ」
「悔しいですけど、その通りですね」
大河が何も言えずに俯いているので、俺が首肯した。
認めたくはないが、入江先輩の言う通りだ。
「認めますよ。俺たちに、勝ち目はない。0.1%ってところですかね」
「でしょう?」
「だからこそ降伏勧告なんだよ、キミ。ボクらはキミたちが嫌いなわけじゃないからね」
髪を耳にかけて、時雨さんが言う。
トワイライトタイムに似合う、幻想的な笑みのまま。
「キミたちに与えられた道は二つ。一つは、このまま選挙に落ちる道」
「もう一つは?」
「キミが会長、大河ちゃんが一年生の枠を使って生徒会に入る道。そのときは如月さんは副会長に立候補しなおす。役職の変更は認められているし、話し合った結果だって説明すれば印象も悪くはならない」
どうして、と思う。
どうして時雨さんは、こんなことを言う?
さっきから表面上のことは話しているけれど、動機の部分がちっとも見えない。世界は推理小説でも入試用の小説でもないけれど、動機なしに『なんとなく』でこんなことをするはずがないんだ。
そこまで俺を、会長にしたいのか?
俺は、そんな立派な人間じゃないのに。
こんなことをしてまで――。
「なら、私は――」
「その話に乗れない。つーか、普通に嫌だ。会長とか荷が重いし。卒業式とかで挨拶しなきゃいけないじゃん。無理無理。俺、そういうの苦手だし」
「なっ。百瀬先輩っ?!」
「大河は黙っとけ。いや、まぁ大河のことでもあるから話してもいいけど……少なくとも、俺の気持ちを勝手に決めんなよ」
まぁお前が言うなって話ではあるけれども。
今は自分のことを棚上げして、言い切る。
「俺は入江大河を推すって決めたんだ。一度推しを確定したオタクを舐めないでほしいな。推しじゃなくて自分が、なんて、最悪すぎるだろ。どこのⅤtuberだよ」
俺は大河を指さして、断言する。
「三人が何を思ってこんなことをしているのかは分からないけど……俺は、大河を推す。少なくとも、大河がやめるって言わない限りは」
これは端から決まっていたことだ。
俺が言い終えると、入江先輩は、ふぅん、と小さく漏らした。
「なら頑張ることね。私はもう行くわ。演劇部の面倒を見たいし。いいわよね、時雨」
「ん、恵海ちゃんがいいなら。ボクもひとまずは満足かな。降伏ではなく戦争を選ぶ。中二チックで大好きだから」
「時雨さん、幾ら何でも言い方が酷くないですかね」
「今は敵だからね~。精神攻撃だってするよ」
にへらっと笑うと、時雨さんは入江先輩と共に屋上を去った。
……え、マジで? マイペースすぎません?
残されたのは呆然とした俺と大河、それから黙りこくっている如月の三人。
「百瀬先輩……すみません。私も、今日は帰ってもいいですか?」
真っ先に、大河が口を開いた。
申し訳なさそうな上目遣いで言ってくる。その目に明らかな疲労が見えてしまい、俺は頷いた。流石にこの状態で今後の話をする気分じゃないだろう。
「気を付けて帰れよ。後で電話する」
「……はい。ごめんなさい」
「謝らなくていいって。その代わり、ちゃんと休め。今日は頭も心も疲れてるだろうから」
「っ……――です」
「ん、なんて?」
「何でもないです。帰ります」
右手でぎゅぅぅと左手首を握って、大河は首を横に振った。
逃げるような足取りで屋上を出ていくと、いよいよ残すは俺と如月だけになる。
予想外、ではなかった。
むしろ想定内だ。少なくとも、今朝再構築した想定の範囲内。
「さてと……じゃあ話そうか、如月」
「……話す?」
「惚けるなよ。屋上で話すって言ったのは、如月だろ」
「察しがいいのね」
「むしろ悪い方だろ。昨日まであんだけシグナルを出されてて、それでも気付けてなかった」
「確かに。鈍感ね」
「言い方よ言い方」
肩を竦めると、如月はくすりと笑った。
この様子を見るに、当たりのようだ。時雨さんたちのあの話はあくまで前座。如月にとっての本題はここからなのだろう。
「それじゃあ話をしましょうか。できれば手短に。晴彦が嫉妬しちゃうといけないから」
「そうだな。あいつに嫉妬されるのは面倒そうだ」
ふと、思い出す。
黄昏時は、誰そ彼時からきたらしい。あなたは誰ですか、と尋ねる時間帯だからそう呼ぶのだそうだ。
今更如月に、お前は誰だ、と問う必要はない。
書記ちゃんって呼んでいたときは、もう終わったのだから。
代わりに尋ねよう。
「如月。お前はどうして、生徒会長に立候補した?」
「っ、それは――大河ちゃんを守るため、よ」
ああ、と思わざるを得ない。
あまりにも如月らしい理由すぎる。
「大河ちゃんを傷つけないために、私は百瀬くんに生徒会長になってほしい。心からそう思うからこそ、教えるわ」
だからその代わり、真剣に考えてほしい。
そう告げる如月の目は、今まで見たことないくらいに真っ直ぐだった。




