五章#44 八面鏡の白雪姫
昔々あるところに、美しい王女様がいました。
彼女は裕福な家の出ではありませんでしたが心優しく、裁縫が得意で、とても美しい女性でした。王は彼女のことを愛し、幾度も、幾度も抱きました。
しかし10年ほどが経つと、彼女と言えども老い始めます。王は少女趣味でした。少しずつ出来始める距離や周囲の『世継ぎは』という声に耐えかね、彼女の心は膿んでいきました。
そんな王女にとっての唯一の癒しは、鏡の国が作ったという魔法の鏡。
「鏡よ鏡、世界で一番美しいのはだれ?」
鏡だけが愛をくれるような気がして、彼女は毎夜毎夜、そう尋ねていました。
ある雪の日、窓際で裁縫をしていた彼女は、降り積もる白雪に目を奪われてしまいます。手元が狂ったせいで、ちくりと針が指先に。三滴ほどの血と惨めさが滲む涙が雪に染みました。
そのとき、彼女は願います。
子が欲しい。美しい子が欲しい。
その祈りが幸いしたためか、その年、王女は子を授かりました。
産まれた子は、白雪姫と呼ばれ、すくすくと育っていきます。社交界では男性を魅了し、王女と同様に愛されました。それだけでも何だか女として妬ましいように思えましたが、王女は堪えます。自分の娘だと思えば、むしろ誇るべきことでしょうから。
問題は、白雪姫が成人近くなった頃です。
王女は、王が白雪姫に向ける目が、父から娘へのそれではなく、男から女へのそれに変わっていることに気付きました。気付いてしまえば、もう戻ることはできません。王女は娘のことを、なんだか汚らわしい女であるように思えてきました。
ある晩、いつもの如く鏡に尋ねると、
「ここでは王妃様、あなたが一番美しい。けれどこの世で一番美しいのは、白雪姫。王妃様の娘の、白雪姫です」
と答えが返ってきました。
ああ、と王女は思います。ついに鏡の言葉すらも、娘は奪った。
ふつふつと湧き上がる苛立ち。
彼女はついに、狩人を呼び、白雪姫を殺すように言うのでした。
――ここまでが、プロローグ。
続いて、白雪姫が小人たちと出会うまで。
狩人は白雪姫を殺すように言われました。
なんと惨い、と思います。あれほど美しくて若い娘を殺すなんて。
けれども一介の狩人が王女に歯向かうわけにはいきません。白雪姫を森に連れ出すと、こっそりと彼女を射ようとしました。
一方の白雪姫は……とても聡い子でした。王女の嫉妬にこそ気付くことができませんでしたが、狩人が自分を殺そうとすることは察します。そもそも従者なしに森に連れ出された時点でおかしいのです。
「ねぇ狩人さん。森って素晴らしいのね。けれどとても怖いわ……こんなところで狩人さんは仕事をしているのね」
さて、どうすれば助かるだろう。
そう考えた白雪姫は、狩人の懐に入ることを選びました。狩人にとって愛おしく、命を奪いたくない存在であればいい。愛は全てを救うと申します。おとぎ話を嗜んでいた彼女は、無垢で弱々しい女の子の仮面を着けました。
「……白雪姫様。私は母君にあなたを殺すように命じられています。しかし、私にはそのようなことはできません。どうかお逃げください。森に、小人たちが住む小屋があります。彼らはやや面倒な性格の持ち主ですが、きっと白雪姫様を守ってくれるはずです」
「狩人さん……ありがとう。教えてくれて、ありがとう。助けてくれて、ありがとう。あなたはとても立派な人よ。お母様が無理を言って、私にも無理をきかせてくれて、本当に感謝しているわ」
ちゅっ、と狩人の頬にキスをして。
白雪姫は森の奥に逃げていきました。
森の奥に行くと、狩人が言う通り、小人の住んでいる小屋がありました。
白雪姫は考えます。
面倒な性格だ、と狩人は言っていた。そもそも自分は城で暮らしてきたから、無自覚に小人の鼻につく言動をしてしまうかもしれない。そうでなくとも、人一人を養うのはかなりの負担。小人たちに助けてもらえるかどうか……。
考えた彼女が辿り着いた結論は一つ。
愛されればよいのです。小人にとって、愛らしくてしょうがない存在であればいい。簡単なことです。だって――実の父にすら、情愛を抱かせることができたのですから。
どんな女性像を求めているのかを分析し、その通りに演じればいい。
ちょうど、七人の小人が小屋に入ろうとしていました。
ふっと笑った彼女は、小人たちの前に倒れるようにして現れます。
「うわっ、急に人間の女の子が倒れてきたぞ」
先頭の小人の言葉で、他の六人もめいめいに口を開きます。
白雪姫は先頭の小人が一番立場が高いことを見抜くと、縋るような弱々しい声で言いました。
「私を、助けてくれませんか……? 行くあてがないんです。居場所がなくて……心細くて。どうかお願いします。なんでもしますから」
その態度は、先頭の小人の琴線に触れました。
見れば、体つきも悪くはありません。
「いいだろう。言ったとおりにするんだぞ」
小人は、白雪姫を家に置くことを決めたのでした。
◇
物語は中盤。
小人の家で暮らすことになった白雪姫は、七人の小人それぞれから愛されようと、変幻自在にその在り様を変えていく。
ある者に対しては強気でツンデレに。
別の者に対してはクールで無口に。
またある者には愛くるしい忠犬みたいに。
澪は巧みに、彼女の周りにいる少女を剽窃していく。
時雨さん、大河、雫、俺が話した美緒像、伊藤、如月、クラスメイト、アニメなどのキャラクター等。
その変化に伴って、彼女の衣装も少しずつ変わっていく。
早着替えというほど大層なことではないが、白雪姫の衣装は、そういう自由が利くようなものにしている。上からローブを羽織ったり、スカートからズボンに見えるように変えたり、色々と工夫をしてもらった。
衣装班は澪に衣装に、とんでもない時間と労力と費用をかけていた。
だが、変わるのはもちろんそれだけではない。
音楽も変わる。
ジャズ、K‐POP、ロックなどなど。
王女の歌に比べれば短めの歌を、小人たちを魅了する白雪姫を表現するように澪は歌い上げていく。
そろそろ観客も気付いているはずだ。
これは澪のライブなのだ、と。ミュージカルチックな要素を取り入れ、演劇の部分を入れているだけなのだ、と。
それでも誰一人席を立たないのは、聞かせるだけの歌唱力があるからで。
「みおちー、すごいね」
と、隣にいた伊藤が呟いた。
「だな。八雲たちの歌が滑ったのは、なんとか誤魔化せた」
「それねー。歌わせなきゃよかったかも」
「まぁ綾辻にだけ歌わせるのもアレだし、喉を休める時間も必要だから」
二人でくすくすと微笑しているうちにも物語は進んでいく。
姿も、歌も、声すらも変えて、白雪姫は小人たちの愛を享受する。
愛を、愛を、愛を――。
生きるために愛されなければならない、という以上に。
彼女は愛を求めていた。
もっと、もっと、もっと――。
愛を求めれば求めるほどに、白雪姫は妖しくなる。
それは雪に垂れた血のようだった。
やがて、起承転結の『転』が訪れる。
ステージに、ぶわっ、と大きな影が浮かび上がった。
悪い王女と白雪姫を同時に出すことは難しい。序盤のように伊藤が姿だけ出てもよかったが、物語終盤に入ることもあり、伊藤は影によって魔女の姿を浮かび上がらせる演習を選んだのだ。
『白雪姫』に於いて魔女は何度か白雪姫の殺害に失敗する。
が、この『八面鏡の白雪姫』ではそうはいかない。
白雪姫は魔女にすら愛されることを望み、仮面を着けるのだ。
序盤で歌った『鏡よ、鏡』と同じ曲。
歌詞だけを変えた歌を歌いながら、白雪姫は魔女にも取り入って――。
「王子様、そろそろ出番じゃない?」
「おう。いつでも出れる」
「そっか。かっこよく決めてきなね。けど、あわよくばって感じでキスしちゃだめだよ?」
「しねぇよ!」
キスなんて、するわけがない。
俺が人生でした、たった二度のキスは澪とのものだったけれども。
次のキスは、もっと大事にしたい、って思うから。
◇
SIDE:澪
『八面鏡の白雪姫』は、皮肉なほどに私を描いていると思っていた。
誰にでも愛されることを願って、自分を見失って、何枚もの仮面を着けていく。
私のことを見つけてくれないくせにそうやって私のことを物語にして。
しかも『八面鏡の白雪姫』に於いて、白雪姫は自ら毒林檎を齧るのだ。自分の居場所を見失って、苦しくて、もうこんな自分なんて要らない、と自暴自棄になる。
そして――魔女に作らせた毒林檎を、齧る。
どこにも自分がいないのなら、そこにいるのはのっぺらぼうで。
そんな存在がいつまでも愛されるはずがない。母たる王女がそうであったように、いずれ自分も愛を失ってしまう。
愛を永遠に保存するために。
仮面が剥がされて、素顔が見られる前に。
「こんな私は、要らない」
言い終えて、私は毒林檎を齧った。
ばたりとステージに倒れて、肘を打つ。ちゃんと受け身の練習をしておいてよかった。苦笑しながらそう思い、そっと目を瞑る。
パン、と暗転。
舞台上に棺桶が用意され、私はそこに入る。
なんか、お葬式の練習みたいだな、とか。そういうことを思うのは不謹慎なんだろうけれど、自分の勘違いに今になって笑えてきたせいで、ついつい不謹慎って言葉をひょいって飛び越えたくなる。
小人役のみんなと魔女を扮した伊藤さんが棺桶を囲む。
それぞれ心配しているようなことを言って、しくしくと泣く演技をする。
あー、これ本当にお葬式みたい。
本家の白雪姫もこんな気持ちだったのかな。
――けどね。
昨日までの自分は死んだ、みたいな。そういうクサいことを思うつもりはないんだ。
彼とセフレだった私も、彼の義妹だった私も、綾辻澪だから。
誰一人、死なない。全部私のもの。
全部全部、彼との関わりが私にくれたものだから。
「ああ、白雪姫……どうして……どうしてそんな風になってしまったのですか」
パリン、と王女が持っていた鏡が割れて、そこから王子様が出てくる。
何でも鏡の国の王子らしい。なんともまぁ、とんでも展開だ。美緒ちゃんと違って、友斗はちっとも才能がない。
けど、いいよ。
こんな物語ですらも、私のものだから。
「どんなあなただとしても……愛されたい、そう願う気持ちは本物なのに」
一歩、一歩近づいてくる。
小人も魔女も舞台袖にはけて、ここには白雪姫と王子様だけ。
王子様は言う。
昨晩の、彼みたいに。
「愛されたい。その想い一つで誰かを幸せにできるあなたは、やはり、世界一美しいのです。だから――どうか、私の愛があなたを救えますように」
王子様が身を乗り出して、棺桶に顔を入れる。
友斗の顔がすぐそこに来た。
ちょっと身を乗り出せば、すぐにでもキスができちゃう距離。
いっそのこと、もう一度キスをしてしまってもいいけれど、次は彼からしてほしい気もする。
そもそも、今キスをしたら、白雪姫なんて演っていられるとは思えないし。
だから予定通り、友斗がキスの振りをするのをすぐ近くで感じるだけ。
少し緊張してるのかな。吐息がいつもとは違う。果てるギリギリのときみたいな、切迫した感じ。
それに呼応するように跳ねる心臓が、自然と私の口を動かしていた。
「ねぇ友斗。私、友斗のこと好きだから」
「っ?!」
「顔に出さないの。変な声も上げないで。さもなくば、キスするよ?」
「……っ」
ふふっ、変な顔。
王子様姿の友斗は、なんだかいつもとは違って気障で鼻についたから、いい気味だ。
心の中でにこにこと笑いつつ、私はゆっくりと起き上がる。
その瞬間、彼の耳元で、こそこそっと囁いた。
「こんなたくさんの人の前で告白されて……顔に出したら、大変なことになるよ?」
「っ――せぇ」
うっせぇ、と口の形だけは言うけれど、声にはほとんどなっていない。
私は気にせず起き上がり、目元をこすって、目が覚めたような演技をする。
後はもう、何の捻りもないハッピーエンド。
プリンセスが愛されて、いつまでも幸せに暮らしましたとさ、と結ばれる。
この恋がそうなるのかはまだ分からないけれど。
もう間違えない。そう、胸の高鳴りが叫んでいた。
「王子様……とても濃厚なキス、ありがとうございます。あなたの愛が、伝わりました。だから今度は――私の愛を、受け取ってください」
最後の曲が流れ始める。
友斗が私に書いた、クサくて格好悪い歌で。
でも世界でただ一人、私だけが歌うことが許されている、私だけの彼の歌。
タイトルは――『WHITE RUNNER』。