五章#34 初恋白狐
SIDE:澪
バスルームから出てきた彼を見て、私は気付かれないように目を逸らした。
よくないな、と思う。
とく、とく、とく。らしくない動きをする心臓をバスローブの上から撫でて、静かに静かに、と慈母のように胸の内で呟いた。
「百瀬はバスローブじゃないんだ」
「バスローブは、流石にな。さっきパジャマみたいなのを見つけたから使うことにした。綾辻も使うか?」
彼が着ているのは青色のパジャマ。色違いの桃色パジャマを差し出され、私はムッと眉間に皴を寄せた。
「ん、いやいい。ペアルックみたいになるのも癪だし」
ふるふると首を横に振りながら言うと、そっか、と彼は呟いた。
こっそりと胸元に視線が向いたのを感じて、少し心が満たされる。どうやらまだ、私のこを性的な対象として見れるらしい。
「バスローブ、緩いから気をつけろよ。ちゃんと布団かけて寝ろ」
「言われなくてもそうする。過保護だね、百瀬」
「……っ。綾辻が危なっかしいのがいけないんだろうが。細いし、肌も白いし……朝は知ってたって言う割に、白すぎないか?」
気まずそうな彼に指摘されて、私はふと自分の体に視線を落とす。
火照りがとれた肌は、手前みそになるけれど、『陶器のように』という言葉がぴったりなきめ細かで乳白色だ。彼を待っている間にボディケアもしていたので、もっちりしていて触り心地もよかったりする。
って、誰にPRしているのか。我ながらテンションがおかしい。
「日焼け止め塗ってたし、まだ日が出てないくらい朝だったから」
「ほーん……頑張ってるのな」
「まぁね」
冷たく突き返すと、彼はくしゃっと笑う。
僅かに垂れた目尻が優しいたんぽぽみたいに見えて、何を考えてるんだか、と肩を竦めた。本当にテンションがおかしい。別に彼のことは好きじゃないのに。好きになる要素なんて、彼の言う通りないはずなのに。
なんて、くだらない意地を張っていてもしょうがないんだろうな、と強く思う。
雫は彼のことが好きで、入江さんも彼のことが好きで。
私は雫が大好きで、入江さんのことが大嫌い。
『好きじゃない』なんて中途半端な気持ちでは、この四角形に入り込んではいけない。
「そろそろ寝るか。ベッドは……一つしかないし、一緒でいいよな?」
「そこは自分が床に、とか言うべきじゃないの?」
「俺は家に帰りたかったのにここまで付き合ってるんだぞ。むしろ譲るべきなのは綾辻の方だろ」
俺だって疲れてるんだから、と彼はベッドに潜り込んだ。冗談や話の流れではなく、本当に譲る気はないらしい。
まぁ私が本気で頼めば幾らでも融通してくれそうだけれど……なんだか、そういう気分にはならなかった。
彼に来てなんてちっとも頼んでいないけれど。
彼は勝手に疲れただけで、私は悪くないけれど。
それでも――彼に感謝してるのは、紛れもない事実だったから。
「分かった。なら、こっち向かないでね」
「は……? 綾辻も、入ってくんのかよ」
「当たり前じゃん。風邪引かないようにしなきゃダメなのは分かってるでしょ」
「まぁ……そうか」
素直に彼は受け入れたので、私は彼と背中合わせでベッドに入る。
私と彼の上にのしかかる布団はホテルって感じの匂いがして、不思議と頭がふわふわした。非日常感のせいで、疲れているのに眠気がちっとも訪れてくれない。
「電気、消すぞ」
「うん」
電気が消えて、真っ暗な部屋。
妖しい雰囲気もすっかり消え去り、秋の夜長そのもののように思えてくる。
「…………」
「………………」
沈黙は、しかし『沈んで黙する』という字にはふさわしくないくらいに軽やかだった。
彼の吐息、私の吐息、身動ぎ、布擦れ、風、無音。
シチューみたいに綯い交ぜなって、くだらない夜の最後をご馳走みたいに彩っていく。
「ねぇ百瀬」
「ん?」
「寝れない」
「寝ないと隈できるぞ」
「それは百瀬でしょ」
「否定できないこと言うのやめろ。最近、気を付けてるんだから」
頑張りすぎなんだよ、という言葉は歯の先っちょで止めておいた。
「間とか繋ぐの、得意でしょ。なんか話してよ」
「何を根拠にそんなことを……ったく、何を話せばいい?」
「別に何でも――あっ」
何でもいい、そう言おうとして、ふと聞きたいことが頭に浮かんだ。
「『八面鏡の白雪姫』と、最後の劇中歌。百瀬は……何を思って、あれを書いたの?」
「え?」
「明日で、終わりだから。最後に聞かせてよ。あれが皮肉じゃないのなら、一体どんな思いがこもってたのか」
私には、最後まで分からなかった。
否、分かっているけれど分からない、という方が正しいのかもしれない。
きっと何となくは理解していて、でも何となくのままではいたくなくて、模範解答を求めてる。
「もうこれ以上、模範解答は要らないから。これだけ、教えて」
夜に溶け込むようにそっとねだると彼は、はぁ、と観念したような溜息をついた。
「それを俺に解説させるかねぇ……地味にハズいやつだぞ」
「御託はいいから。教えてくれたら、今日は寝てあげる」
「…………分かったよ。つっても、大層なメッセージをこめたわけじゃないし、笑うなよ」
「笑うかどうかは、話して決めるから」
ちぇっ、と拗ねるような舌打ち。
それから彼は、ゆっくりと話し始めた。
「単純にさ、気付いてほしかったんだよ」
「気付いてほしかった?」
「うん。綾辻には、色んな顔があって。けどそれの全部が綾辻で、どれが偽物なんてなくて」
それは、数時間前に彼が告げたことだった。
――本当の綾辻澪? そんなの、全部だろ。在りたいって思う姿も、見てほしいって望む姿も、意図せず見られてしまう姿も、嫌だけど見えてしまう姿も、自分には見えないのに他の人に信じられてる姿も、まだ誰にも見られてない姿も。着け替えまくる仮面の全部が、綾辻澪だろ!
あまりにも、ありきたりな結論。
誰に対して見せる自分も本物で、誰にも見せない自分も本物で、どれが間違っているなんてことはない。
けれど、彼はそれでもなお、私の素顔を見つけてくれた。
いいや、見つけてしまった、と言うべきなのだろう。きっと私は、当の昔に見つけていて、それなのに見ないふりをしていただけのだと思う。
強欲で、わがままで、なんて。
そんなの認めたくなくて当然だ。みっともないし、惨めだし、かっこ悪いし、なりたい自分からかけ離れている。
「百瀬、あのさ」
「――ん、どうした?」
「……私は欲張りで、強欲で、わがままで、身勝手」
「急な自己紹介だな。やっとカツと玉子焼きを交換したことに対して申し訳なさが出てきたか?」
「それこそ一ピコメートルもないけど」
「あ、それはないんだ……」
彼の軽口を受け流して、私は聞く。
「どう考えても人間的魅力ゼロな私は、素顔のままじゃダメ? オペラ座の怪人にでもなって、仮面を被っていないと……ダメ、なの?」
仮面も自分の一部なら、ずっと着けたままでいるのも悪くはない。
素顔のままでは人に愛されないのなら、そっと仮面で隠して。
今度は見失わぬように、仮面の裏で素顔を抱きとめ続けるしかないのだろうか。
静かで、うるさい夜だから、そんなことを考えてしまう――そのとき。
こつん、と後頭部に彼の頭がぶつかった。
「馬鹿だな。動物園であんだけ叫んでやったのに聞いてなかったのかよ」
可笑しそうに、彼は笑って。
ちっぽけな哀しさすらもない声で言った。
「綾辻は確かに面倒だし、最悪だ。でもそういうところが全部、最高なんだよ」
「っ。どこ、が……?」
「どこがって、全部だろ。そうだな……たとえば、いや、例を挙げるのはやめておく。たくさん列挙しても胡散臭くなるだけだから」
「出せないだけ、じゃないの?」
「違ぇよ」
あのさ、と彼は私の手を握った。
「ありきたりな言い方だけど、人は鏡なんだよ。小人と、魔女と、王子様。『八面鏡の白雪姫』には色んな人が出てきて、白雪姫の鏡になる」
「…………」
「それは綾辻も同じなんだよ。俺に、雫に、伊藤に、八雲に、それから如月に。綾辻は色んな人に囲まれてて、その全員にそれぞれの仮面を着けてて」
「……うん」
「仮面はさ、所詮仮面なんだよ。だから必ず、隠しきれない部分があって。その隠しきれない部分っていうのはきっと、仮面を着けずに鏡を見るときには見ようともしなかった部分で」
きゅぽん、と夜のラムネ瓶の栓が開いて。
「前に、右に、左に、後ろに、全方位に鏡があれば――きっと、素顔のままじゃ見えなかった素顔が見えるようになる。えーっと、すまん。ちょっと比喩っぽい話になりすぎて、自分でも何言ってるか分かんなくなってきたけど……つまり、さ」
からんころん、ぷかりぷか、と。
秋のビー玉が浮かぶみたいに、
「綾辻の素顔のいいところは全部、周りの人が教えてくれるよ。安心していい。綾辻の周りにはいっぱい、いっぱい、優しくて素敵な人がいて、その人たちに見つけてもらえるくらい、たくさんたくさん、素敵なところがあるから」
あの夏祭りの夜に欲しかったお月様のように、言った。
「だから例なんて挙げないけど、一つだけ。
あえて澪って、呼んでもいいか?」
うん、と気付けば頷いていた。
彼はゆらゆらと微笑んで続ける。
「澪があの夜に欲しがってくれたから。
だから俺は、美緒と向き合えたんだ。
澪が一時『みお』をしてくれたから。
おかげで俺は、初恋を見つけられた。
そのせいで間違えかもしれないけど。
色んな人を傷つけてしまったけれど。
澪が間違えてくれたおかげなんだよ。
俺が言いたかったのは、本当はただ一つだけ」
自己嫌悪で焼け爛れた頬に温もりが。
優しく、愛おしく、染みていく――。
「ありがとう、澪。
俺より先に間違えてくれて。
ごめんな、澪。
俺が先に、間違えちゃって。」
情けなさそうに、嬉しそうに、友斗が言った。
とく、とく、とく、とく。
おかしい、なんだろ、これ。
体の奥が疼く。温かくて、ぽかぽかして、女の子そのものみたいに、もどかしくて。
とく、とく、とく、とく。
とくとくとく、とくとくとく――。
「……っ。百瀬、今すぐイヤホンはめて大音量で音楽流して」
「はっ……? イヤホンとか持ってきてるわけないだろ」
「っ、耳栓は?」
「なおさらあるわけないだろ!? 急にどうした?!」
「っっ。分かんない! 分かんないけど、今から一人でするから絶対に聞かないで」
「はぁぁぁぁぁぁぁっ?! マジで何言ってんのお前。今、割と真面目なこと言ったぞ? なんなら言ってた俺だって軽く涙が――」
「こっち向くな馬鹿。するったらするの。あの夜から一度もシてないんだから、邪魔したら許さない」
「は、はぁぁ? 教えたら寝るんじゃなかったのかよ……落ち着けって。その言動はマジで痴――」
「それ以上言ったら、それこそ末代にするから。或いは次代を無理やり作ってやるから」
「……ッ? マジで、何言ってんだよ」
こんなの、知らない。
理由も、脈路も、ないじゃないか。
顔が好きで、声が好きで、体も好きで、匂いも好きで、頭がいいところも好きで、周囲の人の感情に機微なところも好きで、本気で心配してくれるところも好きで。
たったそれだけのはずなのに、どうして友斗のことまで好きになっているんだろう?
性欲なら、発散すればいい。
けれども、もしそうじゃないのなら――。
「よく分からんけど、分かった。もういいよ、何でも。わがままなのは今に始まったことじゃないしな。枕と布団で耳塞いどくから、なるべく静かにやってくれ」
「……ん。じゃあバスルームでしてくるから、見るのも聞くのも許さない」
「善処する。でもちゃんと睡眠時間はとれよ。折角の可愛い顔が台無しになるからな」
「~~っ」
秋も冬も蹴飛ばして、春が波みたいに押し寄せてくる。
引き出しから色んな道具を出した私は、バスルームへと駆けこんだ。
――数えきれないくらい果てるのにすら、たいした時間は要らなくて。
改めてベッドで眠ろうとしたとき、この感情が性欲ではないと知った。




