五章#31 答え合わせ
雨は止んで、心は病んで、されども澪は濡れたまま。
お面を被せたから素顔なんて見えないけれど、涙塗れなことくらいは容易に分かった。
「やだ。やだ、やだ、やだやだやだやだ」
澪は、やっぱり鏡を見ようとはしない。
駄々っ子のように『嫌だ』を繰り返して、黒狐のお面の中でシクシクと泣き続けるだけだった。
あまりにもみっともなくて、弱くて、ちっぽけな少女がそこにいる。
カバがぐわぁと大欠伸。それが澪を小馬鹿にしているように見えるのは、きっと原義的な意味での穿った見方なのだろう。
「なんでだよ。狐を見たい、って言ったのは綾辻だろ?」
「私が見たいのは……本当の、狐。お面の狐なんて見て、喜ぶわけない……っ」
「ならどうして、あの夏祭りの日――お前はそのお面を欲しそうにしてたんだよ」
「――……ッッ! 欲しそうになんてッ! してない! 百瀬が! 勝手に! 欲しいって決めつけて! 勝手に買っただけでしょ!」
「ばっっっっかじゃねぇのお前っ?! いつもいつもそうやって、自分の強欲から目を背けてんじゃねぇよ!」
ああいっそ、と俺は思う。
世界が鏡で出来ていたらよかったのに。
そうすれば誰も、自分を見失ったりはしないんだ。誰かにしか見えない自分のこともきちんと見えるようになるんだから。
けど、とやっぱり思う。
世界が鏡で出来ていたら、自分が見えない自分がいなくなってしまう。誰かに『あなたはこうだよ』って教えてもらえることもなくなって、独りぼっちになってしまうから。
鏡なんてきっと、時々見るくらいでちょうどいい。
代わりは、傍にいる奴がやればいいから。
「いいよ、綾辻。お前がそんなに分からず屋だって言うなら、俺たちなりのやり方でやってやる。なぁ綾辻、答え合わせをしよう。今のところ、お互いに一問ずつ間違えてる。そういうことで、いいんだよな?」
「……っ。一問、ずつ……」
「違ったか? 俺は義妹ゲームのときに、綾辻はあの夜に。それ以外はどの問題も、お互いに全問正解だっただろ?」
――百瀬。答え合わせをしようよ
一番最初は、俺たちが義兄妹になったあの夜。
澪の解答は……ぐうの音も出ないくらいに正しかった。
――どう、百瀬。答えは分かった?
その次は、義妹ゲーム。
俺は美緒の幻影に引っ張られて、『お兄ちゃん』を『兄さん』と間違えた。
――じゃあ期末テストのリベンジでもする?
今度は、母さんの実家への帰省のとき。
俺も澪もクソ難問を出し合って、けれどもどちらも間違えはしなかった。
――だから答え合わせをしよう。あの日答えきれなかった、私が辿り着けなかった答えを
そして、夏祭りの前日。
澪は、あの日、紛れもなく真実を口にした。
百瀬美緒が百瀬友斗に恋をしていたという、真実を。
けれども、
『そう、だな……澪。ほとんど正解だよ』
義妹ゲームで俺がそうだったように、澪はあの夜、ただ一つ間違えた。
澪は――百瀬友斗の百瀬美緒への初恋を、見逃したのだ。
だから互いに、一問ずつ間違えていて。
澪に負けるのは悔しいから、ここで間違えるわけにはいかないのだ。
「答え合わせって……なんのこと?」
「そうだな、色々だけど。まずは――うん、綾辻が俺を好きじゃなくなった理由と、嫌いになった理由から始めようか」
「っ?! そんなの、百瀬が最低なことをしたからでしょ」
「そうだったら楽なんだけどな。俺は自分を責めればいいし、ごめんなさいして悔い改めればいい。けど綾辻のそれは、八つ当たりだろ」
お面の向こうで、きゅっと唇を噛むのが想像えた。
「俺は……綾辻に怒れて、怒れて、しょうがない。なんだよあれ。好きだの愛してるだのと宣って思春期高校生の心を掴もうとしておいて、結局綾辻が好きだったのは端から俺のことじゃなかったとかさ。何が初恋だよ、馬鹿馬鹿しい」
「は……? 一体、何を言って――」
「綾辻は俺のことを、魔法の鏡としか思ってなかった。美緒と綾辻の違いを見つけようと隈なく綾辻のことを映し出して、ついでに望めば仮面を与えてくれてる。そんな、『世界一美しい』って言ってくれる、魔法の鏡だと思ってたんだろ?」
「っ、そんな、ことはっ」
「だから俺が美緒への想いにケリをつけたとき、俺が魔法の鏡じゃなくなって――綾辻は俺を好きじゃなくなった」
そして、と俺は続ける。
「“関係”にこだわるのをやめて、仮面を与えなくなったとき、そこに残ったのは百瀬友斗という一人の人間だったから、幻滅とか恐怖とかで、綾辻は俺を嫌いになった」
「…………」
返ってくるのは、擦過傷みたいな沈黙。
それを勝手に花丸だと判断して、俺は次の解答に移る。
「次に、なぜ綾辻澪は今回の文化祭で活躍しようとしたのか」
「なに、言ってるの……? 私は別に――」
「活躍しようとなんてしてない? それはちょっと無理筋だろ。ミュージカルの主演にミスコンへの参加。入江先輩並みの活躍だろうが」
「それは、百瀬とみんなが――」
「あー、はいはい、そういうのはいいから。つーか、どうせこの問題は次の問題の解を導き出すための指南用問題みたいなもんだし、黙って聞いてろよ」
お面越しに睨まれているのが分かるけれど。
そんなのは無視して、俺は続けた。
「ま、この答えは簡単だな。ミュージカルの方は俺のせいにしたし、ミスコンは薦めてきたみんなのせいにしてるけど――本当はそんなもん、どう見たって嘘っぱちだし」
では、なぜあの綾辻澪が文化祭に積極的だったのか。
答えは単純明快。
「綾辻は、最優秀団体賞とミスコン1位の二冠が欲しかった。入江先輩も時雨さんも押しのけて、文化祭で一人勝ちしたかった。ただ、それだけだろ」
「なっ、ちがっ……」
「違うなんて言わせない。だったら、どうして毎晩毎晩練習してたんだよ。ミスコンでもガチで受けを狙いにいったんだよ。毎日毎日、雫とも話さず部屋にこもって何をやってるんだよッ!」
夕食が終わったら公園で練習して、帰ってきたら部屋にこもって。
綾辻澪は、ミュージカルとミスコンの練習をしていたのだ。
「……そんなの、みんなの期待に応えるために――」
「って、ことにしておきたいんだよな。鏡に映る、醜くて大嫌いな自分と向き合わずに済むように」
から、と少しお面がズレた。
俺が位置を直してやろうとすると、ぱっ、と振り払われる。
「さて、じゃあ最後の問題だな。本当の綾辻澪はどこにいるのか――つまり、綾辻澪の素顔はどこにあるのか」
「……っ、お願い、百瀬。もう、やめて」
但し、俺を振り払う手はあまりにも弱々しくて。
水を吸って重くなった袖の重みにぎりぎり抗うくらいしかできないその腕は、俺を振り払うことなど到底できなくて。
だから俺は、お面の位置を直す代わりに、お面を外した。
「これも……答えは簡単、だな。だって綾辻は、ううん、百瀬澪はここにいるんだからさ」
仮面を外してから、俺は思う。
顔が分かるなんて、思い上がりも甚だしかった。
綾辻澪の素顔は、俺が思っているよりもずっと、綺麗で可愛くて魅力的だったから。
「つっても、これじゃどこぞのフェルマーさんとやってることが変わらないからな。答えが分かってないであろう劣等生クンに、ちゃんと解説してやるよ」
「…………」
「人によって仮面を着けかえるから、本当の自分なんてどこにもいない。“関係”に対応することはできても、ありのままで誰かと関わることなんてできない――なーんて、自分がそんな器用な奴だと思ってるんだろな、お前は」
確かに、創作の世界にはそういうキャラが溢れている。
『本当の自分はどこ?』『ありのままの自分でぶつかることなんてできない!』『みんな、本当の私なんて知らないんだ!』『彼だけが本当の私を知っている!』『素を見せるのは、本当に仲がいい人にだけ』。
ああ、実にご高尚!
ありがちな悩みで、なんと思春期らしいことだろう!
だがしかし――
「ばっっっっっかじゃねぇの? 言っとくけどな、お前ってそこまで上手く周囲を騙せてないから。そりゃ上手いこと態度は付け替えてるし、雰囲気は切り替えてる。七変化って言われたら納得だよ。けどな――お前のそれ、誰がどう見てもただの情緒不安定だから」
「……え?」
「クラスの奴らからすると、『え、なんか豹変しすぎじゃね?』って感じだし。その上でクラスに溶け込もうと頑張ってるぼっち少女を、優しく受け止めてくれてるだけだぞ」
「は? え?」
「つーかさ、美緒の代わりの『義妹』はともかく、妹の代わりの『義妹』の方は言うほど妹っぽくなかったからな?」
“関係”を貼りつけるのをやめて、綾辻澪という一人の少女と向き合ったとき。
“関係”抜きで今までの澪を考えると、言うほど彼女は仮面を巧みに着けかえてはいなかった。
いいや、この表現は正しいとは言えないだろう。
確かに澪は、別人のようになってみせるのが上手い。ミュージカルで見せてくれた演技力は、決して否定されるべきものではない。事実、澪は俺が書いた無茶苦茶な脚本を見事に演じ切っている。
されど、それで周囲を騙しているかと言えばそんなことはなくて。
みんな、澪が演じてることなんて分かってるのだ。
分かったうえで、その豹変具合に魅せられている。
つまり――澪は仮面の着け替え、ではなくて。
偽物だと分かっているはずなのに本物だと信じてしまいそうな偶像をやっているのだ。
「本当の綾辻澪? そんなの、全部だろ。在りたいって思う姿も、見てほしいって望む姿も、意図せず見られてしまう姿も、嫌だけど見えてしまう姿も、自分には見えないのに他の人に信じられてる姿も、まだ誰にも見られてない姿も。着け替えまくる仮面の全部が、綾辻澪だろ!」
でもって、と俺は強く言う。
「それでも、どうしても仮面を着けない素顔が知りたいって言うならっ、教えてやるから鏡を見ろよ」
今一度、今度はお面を着けていない澪に鏡を向けて。
目を逸らそうとする澪の頬を、小さな顔ごと片手で押さえて。
ちゃんと見ろ、と。
いい加減逃げるのはやめて、見つめてやれよ、と。
築き上げた偶像も含めて自分であるように、勝手に出来上がった醜い素顔が自分なのもまた、事実なのだから。
「妹思いで、性欲強くて、和食好きで、ほんわかとしていて、孤高主義で、そのくせ人と上手くやるスキルはあって、母親のことをママって呼んで、兄のことはお兄ちゃんって呼んで、めちゃくちゃ可愛くて、一曲のボカロを昔から聞いてて、二学期最初のテストで俺よりいい点とりやがって、皮肉屋で、冷たくて、毒舌で、運動が得意で、歌も上手くて、ちっちゃくて、ちんまくて――ッ!」
なぁ澪、鏡には何が映ってる?
そう尋ねる代わりに俺は、
「欲しいもののためなら妹を傷つけることも間違えることも厭わない、死ぬほど強欲でわがままで欲張り! そんなクソ面倒で最悪で最高にかっこいい女が、綾辻澪だろうがっっっっ!!」
そう、叫んだ。
「……………………くしゅんっ」
後に残ったのは、長すぎる沈黙と、濡れすぎたことを報せるくしゃみだけ。
澪は合ってるとも間違ってるとも言わなくて。
認めるとも認めないとも言わなくて。
けれど、鏡をきちんと一瞥して。
「百瀬のせいで、折角やったメイクどろどろ。今日はもう、学校に帰らないから」
そう不機嫌に、駄々をこねた。