五章#24 どこにもいない
「鏡よ鏡、世界で一番美しいのはだれ?」
王女は、縋るように問うた。
しんと静まり返った体育館。真っ暗な舞台にて、王女にだけスポットライトが当たる。悲痛な彼女の問いの矛先は、大きくて不気味な魔法の鏡だ。
「答えなさい、魔法の鏡よ。世界で一番美しいのは……だれ?」
息を呑む。
問いを重ねる王女は、あまりにも美しかった。妖しくも可憐で、毒々しくも甘やか。彼女以外の名を魔法の鏡が答えることなんてない、そう確信するほどに。
されど――魔法の鏡は答える。
「ここでは王妃様、あなたが一番美しい。けれどこの世で一番美しいのは、白雪姫。王妃様の娘の、白雪姫です」
『八面鏡の白雪姫』の設定は原作であるグリム童話に寄せている。
原作に於いて、白雪姫を産んだ良い王女と白雪姫に嫉妬した悪い王女は同一人物だった。白雪姫は父王と性的関係を持ち、それゆえに母に嫉妬されたのだ。
流石に白雪姫の設定までは踏襲していないが、王女の設定はそのままでいいと判断した。澪が一人でどちらの役もやる、と言ってくれたわけだからな。
「っ……なんですって? 嘘よね、嘘だとお言いなさい」
「いいえ、王妃様。この世で一番美しいのは白雪姫です」
「お黙りなさい! もう結構よ!」
王女の表情は憤怒と嫉妬に燃え、ふぁさりと鏡に布をかけてしまう。
鏡と向き合うことを拒否した王女。
「もういい……あんな子は、殺してしまいましょう。私から愛を奪ったあの子を、殺すのよ」
そして――舞台は暗転。
刹那、澪は衣装を切り替える。舞台袖で用意されているローブを羽織り、再度スポットライトを浴びて。
王女は魔女になり、実の娘の殺害を企む。
魔女たる澪の表情は、やはり恐ろしくも美しい。
おそらく、澪のこれは演技とは違う。入江先輩とは一線を画し、どちらが正しいかで言えば入江先輩の方が正しいのだと思う。
だって、澪のこれはあまりにも鬼気に迫りすぎている。
見ていて怖くなるのだ。
ただ一度の瞬きの後、まるで魔法が解けるように澪は消えてしまうんじゃないか、って。
しかし、その危うさを孕んだ美しさが人々を魅了する。
「はーいカットー!」
狩人が舞台袖にはけたところで、監督が景気よく叫んだ。
刹那、魔女は消え、クラスの一員である清楚な天使の澪が帰ってきた。
張り詰めた弦のような空気が緩み、ほかほかと温かい雰囲気でいっぱいになる。
「いやぁ、やっぱり綾辻さんはナイス! もう言うことないから今後もこのまんまお願いね!」
「うん、分かった。ありがとうね、伊藤さん」
「それよりも……百瀬くん! さっきの演技はなにさ!」
「えぇ……俺?」
ぷんぷんと怒った様子の監督に呼ばれ、俺はしぶしぶ舞台袖から出ていく。
何故か旧時代的にプロデューサー巻きをしている伊藤の姿に苦笑していると、伊藤はどこから持ってきたのか未だに分かっていないカチンコ(映画監督がよく持ってるイメージの縞縞のアレ)でこちらを指し示してきた。
「随分と不満そうな顔だねぇ。そんなに自分の演技に自信があったのカナ?」
「いやそれはないけど。でもたった数文だったし、タイミングとかも合ってたんだからいいだろ」
「ちっちっち、全然分かってないねぇ百瀬くん。いいや、鏡役クンと呼ぼうか」
やれやれ、と呆れ顔をする伊藤。
こいつ、やけにテンションが高ぇな……今日でクラスの練習に顔を出すのは四度目だが、いつもこんな感じなのだろうか?
「さぁ質問だよ、鏡役クン! 明日は何の日だい?!」
「……キャラがぶれっぶれだぞ。お前誰だよ」
「ウチは令和に咲いた名監督、白澤明さ」
「名前一ミリも掠ってないのによくもまぁそのネタ言えたなぁ?! あといい加減そのプロデューサー巻きをやめてカチンコを置け! もう色々とごちゃごちゃしまくってるから!」
プロデューサーと監督は違うし、カチンコも監督じゃなくて助監督が使うことが多いし。もうとにかくキャラが渋滞していて、『ウチ』って一人称でしか伊藤であることが判別できないくらいだ。
が、まぁその謎なハイテンションを完全には否定できなかったりする。
何しろ、今日は文化祭リハーサルの前日。
明日は一日中&泊り込みでの準備が許可されるということで、その前日である今日は誰も彼もテンションが高いのだ。何を隠そう、俺自身がそうだしな。
そんなことを考えている間に、げっふん、と伊藤が厳かな咳払いをした。
「とにかくだねぇ、百瀬くん。明日はリハーサルなんだよ? 明後日は本番! そんな演技でいいと思ってるのっ?!」
「うっ……あー、悪かった悪かった。具体的にどこがダメだったか教えてくれ。直すから」
色々思うところはあるが、伊藤が言っていることは概ね正しい。
明日の文化祭リハーサルでは舞台発表のリハも行われる。全部を通すかどうかは各団体に委ねられるが、うちのクラスは全てやらせてもらうことになっている。
「まぁ一言で言うとかっこよさが足りないよね。ちゃんと脚本読んだ? 魔法の鏡は――」
「いや読んだも何も俺が書いたから! っていうかかっこよさとか言われても困るから!」
「くくくっ……友斗、どんまい!」
「小人は黙ってろ!」
かっこよく……かっこよく、ねぇ……?
そうは言っても鏡役は声だけだし、それでかっこよさを出すのは無理がある気がする。イケボ出せないし。声優さんって凄いんだなぁ……。
が、ウダウダ言ってもしょうがない。少し声の出し方と間のとり方を変えてみるか。
「分かったよ、とりあえずやってみる。もう一回頼む」
「オッケー! じゃあ時間も迫ってるし、今日は最後にラストまで通して終わりにしよっか。みんな、準備よろしく~♪」
「「「おう!」」」「「「うん!」」」
クラスみんなの声が重なった。めちゃくちゃ一致団結してるじゃん。ちょっとだけ疎外感があるんですけど。
苦笑しつつ舞台袖に戻ろうとすると、こつん、と澪と肩がぶつかった。
「あ、悪い」
「……ん、気を付けてよ鏡役」
「お前までそれ言うかねぇ」
くしゃっと笑っていると、澪は素っ気なくスタスタいってしまう
。
二週間弱前、大河に任せろと告げた日。
澪のことであの日から何か変化があったかと言えば、そうではない。何一つ変わることはなく、停滞した時が進んでいた。
何をしようにも、澪に避けられて話す時間が持てなかったのだ。それに加え、俺もミュージカルの練習に参加し始めて忙しかったのもある。
情けないことこの上ない。あれだけ啖呵を切ってたのにな。
だが何事もなく、楽しいまま文化祭が終わってくれるのならそれでもいいんだ。そうして文化祭を乗り越えれば、きっと澪は澪なりに成長するから。
だから無事に終わってくれ。
俺はそう祈りながら、定位置についた。
――けれども。
あえかな祈りは星に届く前に墜落してしまう。
◇
「しゅ~りょ~♪ みんなお疲れ! 次の人たちが控えてるから片付けして教室に戻るよー!」
もはや総責任者の俺に指揮権はなく、舞台監督の伊藤が声を張る。
リハーサル前日の練習は無事、白雪姫と王子様によるハッピーエンドを以て終了した。色々とダメだしは食らったものの、結構いい出来だったんじゃないかと思う。
内情を把握しきれていない俺が片付けを手伝っても混乱を生むだけなので、せめて、と俺は出口で待っていることにする。
斯くて出口に向かうと、そこには険しい顔の入江先輩がいた。
「あれ、入江先輩じゃないですか。うちの偵察にでもきたんですかね?」
「ああ、こんにちは。偵察? そうね、そういうほどではないけれど……少し気になったから早めに来たのは事実だわ」
「早めに……あー、次って演劇部の番でしたね」
体育館の使用順が書かれた紙を思い出して言うと、入江先輩は頷いた。
「他の部員に用意は任せて、私は一足早く来たの。あれだけケンカを売られた、いえ売ったわけだしね」
「さいですか。……で、うちのミュージカルはいかがです? 正直、俺はいい勝負できるかなーっと思ってるんですが」
「そうね。王子様役、なかなかよかったわよ。そのまま大河の王子様になってくれると姉として嬉しいわね」
「そういう冗談言ってるとマジで嫌われますよ?」
「おっと。今のはなしでお願いできるかしら」
くすくすと微笑して見せる入江先輩。
しかし彼女の言いたいことが他にあるのは容易に察せる。
渋い表情のまま、入江先輩は尋ねてきた。
「あの脚本を書いたのは百瀬くん、ということでいいのかしら?」
「まぁ。原作に忠実な白雪姫ですが、お気に召しませんでしたかね」
「原作に忠実かはともかく、面白いとは思ったわ。やや無理があるし台詞がクサいところもあるけれど――そういう飛び道具を使うやり方は悪くない。なるほど、確かに主演の子を輝かせようという気概は伝わるわね」
「……どうも」
褒められたのがくすぐったくて、なのにクラスの一員としては褒められている気がしなくて、俺は顔を背ける。
案の定入江先輩は、けれど、と話に折り目をつけて続けた。
「この脚本を演じるのであれば、あの主演の子は力不足ね。脚本に輝かせられるどころか、脚本を輝かせることすらできていない。断言していいわ。今のままなら、私たちが勝つ。……いえ、あえて嫌な言い方をしましょうか」
――私が、勝つわ。
じんと空気を震わせるような一言。獅子の雄叫びにすら思えるその言葉に、俺はごくんと息を呑んだ。
「入江先輩! その言葉、訂正してください!」
俺が何かを言うよりも早く、伊藤がそう吠えていた。
そこではたと気付く。
もう片付けは終わっていたらしい。クラスのほとんどが俺たちの周りにいた。
もちろん……そこには、澪もいる。
澪の姿を認めた入江先輩は、はぁ、と嫌そうな溜息をついた。
その憂いのある横顔は刹那に消え、すぐに彼女は伊藤に言い返す。
「訂正をするつもりはないわよ。誰かに広めているわけではないのだし、あなたたちに不利益はないと思うけれど」
「私たちにはなくとも、綾辻さんにはあります。私たちの大切な主演女優を……友達を馬鹿にされて、黙っていられるわけないじゃないですか」
入江先輩にも怖気づくことなく叫ぶ伊藤の姿が、とても美しく思えた。
友達、か……ちょっとだけジンとくる。澪にはちっとも届いていなさそうなことが哀しくて、切なくて、苦しかった。
「そう……私は、馬鹿にしたつもりはなかったのだけれど。あなたたちだって私と同じことを思っているんじゃないかしら」
ピリピリと空気が痺れるような感じがした。
入江先輩は、決定的なことを口にする。
「彼女の演技のどこにも彼女がいない。一人で幾つも変化を繰り返すのは立派だけれど、たとえ豹変を繰り返しても自分がいない演技は人を惹きつけないわ。たかが高校の文化祭程度でも……いいえ、文化祭だからこそ、ね」
「……ッ」
伊藤の表情が歪む。
口を一生懸命動かそうとするのに、反論の言葉は出てこない。
だって――きっと誰もが気付いていた。
少なくとも伊藤と八雲と俺と、それから本人は、気付いていたのだ。
澪の演技には、どこにも澪がいない。
それは危うい魅力であるけれど、同時に恐ろしいほどの脆さでもある。
「っ。あ、綾辻さん――ッ」
「は、ははは……庇ってくれてありがとうね、伊藤さん。私にはよく分からないけど、入江先輩がああ言うってことは、私もまだまだみたいだね」
しまったとばかりに澪を見る伊藤。けれど澪は作り笑いを浮かべ、ふあふあと話を進めるだけだった。
「入江先輩……ご指摘、ありがとうございます。演劇部に敵うかは分からないですが、みんなも頑張ってくれてるので。確かに私はダメかもしれないですけど、私たちは頑張りますから」
「あなたは……あなたは一体、誰?」
「綾辻澪ですよ。二年A組一番、綾辻澪です。さ、みんなも戻ろう?」
その作り笑顔は、お人形のようだった。
あまりにも痛ましい笑みは、何をどう見ても作り物で、紛い物で、それなのに本物だと思えてしまうくらい綺麗で。
誰もが何かを言いたいはずなのに、誰も何も言えず、こくと頷かされていた。
澪が入江先輩の横を通って体育館を出ると、他のみんなも彼女の後に続いた。
伊藤だけはふるふると震えながら立ち尽くしていたが、八雲や友達に手を引かれ、不承不承といった感じで出ていく。
残されたのは、俺と入江先輩だけ。
俺も後に続けばいいのに、そうする気にはならなかった。なれなかった。
ぱちりと入江先輩と目が合うと、
「あのままじゃ彼女、早晩に壊れてしまうわよ」
と告げられた。
「そうなったときに彼女を壊すのは、君よ」
容赦ねぇな、と思う。
仰る通りだ。
『八面鏡の白雪姫』はあまりにも澪が抱える問題を描きすぎている。この物語こそがお前を映す鏡だ、と言ってのけているかのように。
――こんな酷い皮肉があるんだな、とは思ったけど
確かに、これほど醜いアイロニーはないだろうな。
けどさ、俺はそんなつもりで書いたわけじゃないんだよ。
美緒の『ブルー・バード』が俺に色んなものをくれたみたいに、『八面鏡の白雪姫』で澪にあげたいものがあったんだ。
だから、俺は言う。
「別にいいんじゃないですかね、それくらい」
「……何か、考えがあるのかしら?」
「さあ。俺は孔明みたいな策士じゃなくて、その下で働く名もなきモブの方が向いてるもので」
でも、とはっきり口にして。
誰かさんの代わりに宣言した。
「断言しますよ。今年、綾辻澪は二冠を取ります。霧崎時雨も入江恵海も倒して、他のどの団体にも打ち勝って、文化祭全部があいつの一人勝ちなのに、誰もが『勝ったな』って思えるくらい最高の二日間になりますから」
「へぇ……。言っておくけれど、私、後輩が傷つくのを見たくはないわよ?」
「なら目、瞑っといてくださいな。誰かが傷つくことを見てられないようなお子様の出番はないっすよ」
「…………言うじゃない。考えはなくとも、自信はある。そういうことなのね」
「自信って言うより信頼で、信用ですよ」
にっと笑って、俺は入江先輩の横を通り過ぎる。
その途中、あぁ、と思い出したように振り返った。
「一つ言い忘れてましたけど」
「何かしら?」
「日本語の誤用を正そうと思いまして。力不足じゃなくて役不足って言うんですよ、こういう場合は。正しく日本語を使わないと妹さんに嫌われちゃいますからお気を付けください」
「…………そうね。肝に銘じておくわ」
飛び出した廊下の冷たさを感じて、思う。
もうすぐ秋だな、と。
誰かさんにとっての夏も終わればいいな、と。