五章#23 彼女、くそ面倒な女
SIDE:澪
「百瀬先輩が間違えるきっかけを作ったのは、澪先輩ですよね」
むか、むか、むか、とお腹の奥が疼く。
あぁどうしてこの子は、と激しく苛立つ。部外者のくせに、何も知らないくせに、どうしてそんな風に……ッ。
すぅぅぅぅ、と息を吐き出す。
大丈夫だいじょうぶ。夏の涼風が熱くなりそうな頭を冷やしてくれた。少し肌寒いな、と思う。そろそろ冬服を着て行こうか。文化祭までは移行期間だからどちらを着てもいいはずだ。
と、無関係なことを考えて自分を落ち着けた。
平静な自分になったところで私は口を開く。
「《《だから》》、《《なに》》?」
……え?
本当はいつもみたいに流すつもりだった。そうできるはずだった。
確かに詮索されるのは不快だが、何をどうしようと哀に満ちた彼と彼との“関係”は戻ってこない。ならあの日々を壊した彼女に怒りをぶつけてもしょうがない。そう思っていたのに。
入江さんの双眸に驚きが見え隠れした。
きゅっと唇を噛むと、彼女は一歩こちらに近づいてくる。
「あの日の言葉、ずっと考えていたんです。どうしてあのままの方が幸せになるって言っていたのか」
「…………」
「百瀬先輩が雫と澪先輩、二人のことが好きだったのなら話は分かります。ただの二股なら、確かに最低かもしれませんが、当事者が幸せであれば口を出せませんし、出すべきじゃないと思います」
でも、と入江さんは続ける。
「あのときの百瀬先輩は『好き』を持っていませんでした。それは百瀬先輩も、雫も、澪先輩だって分かっていたはずです」
「そう、かもね」
「それなのに澪先輩が幸せだったのは……澪先輩も、百瀬先輩と同じく“関係”がないとダメだから、ではないでしょうか」
「……っ」
図星だ。
けど、私はただ答える。
今度は想定外に零すのではなく、明確に意思をもって。
「それで。《《だからなに》》? 私が彼を間違えさせたから入江さんは咎めにきたの? 随分と立派だね。それは雫のため? それとも、入江さんが大好きな彼のため?」
「ッ。違います! 私は、ただ――」
「まぁ、どちらでもいいよ。もう私には関係がないことだから」
「えっ……?」
やはり入江さんは私にとって不倶戴天の敵だ。
何もかもを掘り返して、終わったことすら言い出して、私が見たくないものを見せつけようとして。
ならばもう、終わりにしてしまおう。
黒狐の仮面を心の奥から取り出して、私は言った。
「私はね、もう百瀬のことが好きじゃないの。好きじゃないし、嫌い。ううん、きっと端から好きじゃなかった」
「っ。それは――」
「安心していいよ。雫の邪魔も、入江さんの邪魔もするつもりはないから」
彼が誰と結ばれようと、もはやどうでもいい。
ううん、或いは雫と結ばれてくれたらいいかもしれない。そうすれば晴れて私は彼の義姉になれる。実際にできてしまった“関係”までは彼も否定できないはずだ。
「これで話は終わりでいいよね。じゃあ鍵、渡しておくから。返してくれるなら、任せる」
「待ってください。まだ私は」
「質問は一つ。そう言ったのは入江さんだよ。最初の宣言を違えるような人のこと、誰が信じられると思う?」
「それ、は……っ」
入江さんは言葉を詰まらせる。
その間に彼女の手に鍵を握らせ、私は屋上を立ち去ることにした。別に彼女と一緒に屋上を出る必要はない。
「澪先輩は、逃げてばっかりじゃないですかっ。澪先輩は一体どこにいるんですかッ?! いつになったら、私と話してくれるんですかっっ!」
悲痛な声を背中に受けて。
「うる、さい、なぁ……っっ」
扉を閉めた後。
独りぼっちの踊り場で、私はそう呟いた。
◇
SIDE:大河
「…………」
「…………」
取材を終え、他の今日中にやっておくべき仕事も処理し、俺は大河を家まで送っていた。
二学期に入ってからは、ちょくちょく大河を送るようになった。生徒会のことや雫とのこと、その他の雑談をするのが習慣になりつつある。
しかし今日の大河は、なかなか口を開こうとしない。
取材の後、大河は澪と話したいことがあると言って屋上に残った。生徒会室に戻ってきてからはずっと、大河は悔しそうな哀しそうな表情をしている。
「なぁ大河」
どうかしたのか?
そう聞くより先に大河は、
「不倶戴天の敵」
と呟いた。
急な一言の意味を計りかねていると、大河は不貞腐れるような口調で言った。
「夏休み、澪先輩にそう言われたんです。私は不倶戴天の敵だ、って」
「そうなのか」
「はい」
不倶戴天の敵、なんて。
そんな言葉、日常生活では絶対に使わない。澪はその言葉に強い意味を込めたのだろう。
「どうしてなのか、今までよく分かってませんでした。いえ、本当は何となく分かってはいたんですが、完全には理解できていなかったというか……」
「うん。それで?」
言いたいことは分かる。
分かるけど、分からない。そういうことはたくさんあるから。
「今日、ようやく分かりました。私と澪先輩は、真逆だけど似ていて、似ているけど対極にいるんです」
それもやっぱり、分かる。
さっきは時雨さんや入江先輩と澪を比べたけれど、本当に澪と対極にいるのはきっと大河だ。
誰よりも間違う彼女と、誰よりも正しく在ろうとする彼女。
だがその根っこにあるのは、きっと――。
「だから本当は、私は気付けるはずだったのに……見ないふりをして、見つけようともしないで、そのせいで澪先輩を傷つけてしまったのかもしれません」
その呟きは震えていた。
横をチラと見遣って、ずくん、と胸が苦しくなる。
「アホ。そんなこと、あるわけないだろ」
大河の方は見ないふりをして、俺は呟く。
「綾辻が大河のせいで傷つく? そんなことありえないって」
「そんなこと……だって、私は百瀬先輩に、色々言ってしまって。もちろんそのことは後悔していないんですけど――」
「でも、綾辻も綾辻で“関係”がないとダメな奴だってことに気付いた。だから傷つけたって?」
「――……っ」
沈黙が掠れたみたいに、大河は小さく声を漏らした。
はぁぁぁぁ、と深い溜息をつき、俺は笑う。
「ほんっっとクソ真面目だな、お前。でもって、やっぱりぼっちだ」
「なっ……今はそれ、関係ないじゃないですか!」
「あるよ、大いにある。すべからくぼっちって人種は、自分のことを一ミリも客観視できないんだ」
「百瀬先輩。『すべからく』は『全て』という意味ではないですよ」
「この流れで言葉の誤用を指摘できるクソ真面目さはすげぇな?!」
そういうとこも、大河のいいところなんだけどさ。
気を取り直して、俺は続けて言った。
「大河は自分のこと、客観視できてねぇんだよ。考えてみろ。お前が叱ったのは俺であって、大河じゃない。俺の行動の変化が綾辻に影響を与えたとして、それで大河が悪いってことにはならんだろ」
「私は……そうは思いません」
「ったく、面倒な奴だな! なら俺らしくないけど一言言ってやる」
足を止めそうな大河の肩に手を置いて、はっきりと断じる。
「綾辻のことは俺に任せとけ。あのクソ面倒な女に構ってやるのは、俺だけで充分だから」
「……っ」
「だから、あれだ。あいつがちょっとは面倒じゃなくなって、それでもお前のことを『不倶戴天の敵』とか言ってくるなら、『望むところです』って相手してやってくれよ。あいつもお前も、ぼっちだけどぼっちじゃないんだからさ」
俺が言うと、大河はぱっと目を見開いた。
驚き? それとも他の感情?
何を考えているのかは分からないけれど、大河は、くすっ、と笑った。
「そういうことなら、お任せします。百瀬先輩のそんな顔、初めて見ましたし」
「そっか」
「ですが。澪先輩のことを『クソ面倒な女』呼ばわりしたこと、雫ちゃんに報告しておきますね」
「えぇぇぇぇ……今の流れで俺が追い詰められるの? ここ、信じて任せて終わりじゃねぇの?」
「さあ。知りません。私、ぼっちなので」
「大河はほんと皮肉が上手くなったなぁぁぁ!?」
これでいい、これがいい。
いつまでも、どこまでも、けらけら笑っていられる普通の青春に辿り着きたいから。