五章#17 澪が好きな曲
SIDE:友斗
「綾辻……今日も行くのか」
「ん。いいでしょ、別に」
「まぁ、そうなんだが……」
土曜日。
学校開始早々だというのに土曜授業があった午前中を超えて、ひとしきり働いて疲れ切った夜8時半。
俺は玄関で靴を履き替えている澪に声をかけた。
水曜日からだっただろうか。
澪は毎日、このくらいの時間帯に外を出歩くようになった。理由を聞けば、ミュージカルの練習がしたいからだ、という。
明らかにそれ以外にも理由がありそうだけれども、今の俺にはそれを言及することはできない。
ぴしゃりと指摘しまうことは容易いだろう。
けどその果てに何がある?
終着駅に降りてみなくちゃ、見えない景色がある。届かない言葉がある。それなのに途中で口を出すのは違う気がするのだ。
「今日も冷えるらしいからな」
「……分かってる。ちゃんとパーカー着てるでしょ」
「俺の、だけどな」
「…………秋服、出す時間もないくらいにやらなきゃいけないことを詰め込んできてるのは誰?」
「俺ですね、はい」
「なら黙って。私だってこんな匂う服、着たくないし」
「そんなに臭い?! 地味に傷つくわぁ……」
俺の問いには答えずに、澪は出て行った。
ちゃんと防犯ブザーとスマホを持っているようだし、11時までには帰ってくる。だから心配しすぎることはないと分かってはいるんだけど……やっぱり、夜は不思議と不安になってしまうわけで。
俺は澪に期待をかけすぎなんじゃないだろうか、とか。
今すぐにでも澪に何か言ってやるべきなんじゃないか、とか。
ぷかぷかと湧き出す考えを頭の隅に押しやった。
今はそういうことを考えるべきじゃない。というか、他に考えるべきことがある。
【ベル:そろそろ歌詞欲しいな】
【ベル:ぼんやりとしたキーワードだけでも送ってくれたら、ウチが相談に乗るよ】
先ほど、夕食中に送られてきたメッセージを見つめつつ、俺はリビングのテーブルに広げたノートと睨めっこする。
部屋にこもっていても進む様子がないから、とリビングでやり始めたのは我ながら名案だったと思う。
事実、リビングで取り組み始めてからの数十分でそれっぽいフレーズは幾つか浮かんだ。
が、まだ何かが足りない。
澪に歌ってほしいことがあって、伝えたいことがあって。
でもそれを言葉にするのが、なかなかどうして、難しい。
「せーんぱいっ。なにやってるんですかっ?」
「……雫。別に驚く要素も驚かせる要素もないんだから、驚くかな、みたいなワクワク顔で見てくんのやめろ」
「むぅ……。お茶目な後輩の悪戯心をそーやって流すのはどーかと思いますけどねぇ」
「お茶目さも慣れればただの鬱陶しさだからな」
「ふむふむ。つまり最初はよかったところが鬱陶しく思えるようになるけど、それでもやっぱり傍にいたいって感じる熟年夫婦みたいな距離感でいたいってことですね。かしこまりです」
「かしこまるな。って、いきなりツッコミの応酬をさせないでくんない!? 雫は俺にツッコませないと生きていけないのか?」
いやまぁ、雫の鬱陶しさに心地よさを感じているあたり、当たらずとも遠からずなんだろうけれども。
まだ『好き』をあげられない以上、この話に乗っかるのは不誠実に思える。
俺が言うと、雫は俺の正面に座り、にこーっと笑った。
「えへへ。なんか元気がなさそうだったので、元気づけてあげようかなーっと思いまして。作戦大成功ですね♪」
「……ちょっと待て。それだと俺が雫にツッコむことで元気になるツッコミ体質みたいな感じになるんだけど?!」
「え、違うんですか?」
まさかの素。
雫の目には心なしか小馬鹿にするような色が見え隠れしている。
「…………否定は、できないけど」
「ふっふー♪ ならいーじゃないですか。先輩はツンデレさんですねぇ」
「ツンデレてはないんだよなぁ」
「つまりデレてはいる、と」
「それを肯定したら今度は自分が赤くなるくせによく言うよな」
「~っ。先輩のあんぽんたん」
雫が、ぷいっ、と顔を背ける。
頬を染める桃色は、風呂上がりというだけが理由ではないだろう。
シャンプーとドライヤーの独特な匂いに鼻をすんすんと動かす。なんていうか、雫って本当に女の子って感じの匂いなんだよな。
……匂いのことを考えるのはやめとこ。さっきの澪の言葉が地味に効いてるし。
「それで。先輩はなにをやってるんですか? 疲れすぎてポエムです?」
「俺を病んだメンヘラみたいに言うな」
「なら退職届でも書いてるとか」
「俺、そこまで過労状態じゃないからね!?」
確かに最近の睡眠時間は少なめだけれども。
過労には程遠いし、ちゃんとゆっくりする時間も取っているつもりだ。
一瞬気恥ずかしいので言おうか迷ったが、雫はこの話を終わりにするつもりはないように見える。
ならば、と俺は素直に白状してしまう。
「うちのクラス、ミュージカルやるって言っただろ?」
「知ってます知ってます。お姉ちゃんが頑張ってるって聞きましたよ」
「そうそう。……んで、ちょっと色々あってな。週明けまでに一曲分歌詞を考えなくちゃならん」
「へぇ。音楽とかも全部オリジナルなんですね。てっきり既存のものを使うのかと思ってました」
「あー。うちに作詞作曲をこなす奴がいるもんでな」
「なんですかその無駄にハイスペックな人」
「ほんとそれ」
と、雫までもが伊藤の謎なハイスペック加減に言葉を漏らす。
ほんと伊藤は謎が多い奴だが、普通に性格は悪くないし、クラスのことを任せられるくらいには信頼もできる。もうそれでいいかなーって気になってる百瀬友斗くん17歳でした。
「けど……なるほど。先輩が作詞ですか」
「雫、言いたいことは分かるからニヤつくのはやめてくれ」
「いやぁ、別にニヤついてはないですよ~?」
「声がニヤついてるんだよなぁ」
俺が言うと、ぷっ、と雫が吹きだした。
けらけらと楽しそうに笑い終えると、雫は少しアンニュイな表情になる。
「冗談はさておいて。一つ、聞いてもいいですか?」
「ん、なんだ?」
「それって……お姉ちゃんが歌うんですよね?」
「ん。ああ、そうだな」
今回のミュージカル、澪以外には小人七人が揃って登場シーンで歌を歌うくらいしかない。演技力や演出力ではきっと演劇部に勝てないから、その分澪のリサイタル感を出す狙いもあったりする。
「そですか……ねぇ先輩」
「どした」
「一緒に音楽聞きません? お姉ちゃんが小さい頃から好きだった曲、教えてあげます」
澪が小さい頃から好きだった曲、か。
それを知れたら、足りない何かが見えるかもしれない。
昔のことを思い出すことで、今と向き合えた誰かさんのように。
「頼めるか?」
「はいっ!」
パァ、と花咲くように雫ははにかむ。
ちょっと待っててくださいね。
そう言うと、雫はとたとたと部屋に戻っていった。
暫くして戻ってきた雫は、スマホとイヤホンを手に持っていた。
「先輩には右、あげます」
「ん、さんきゅ」
「はい」
雫は俺のすぐ隣に座った。
こつん、と肩が触れ合う距離。恋人だったときと同じだけれども、今はそのときより心地がいいように思えた。
「流しますね」
「おう」
澪が小さい頃から好きだった曲。
果たしてそれは、どんなものだったのだろう。
そう思って、目を瞑ると――
「~~~♪」
イヤホンから聞こえてきたのは、どこか懐かしさすらある電子音。
否、人工音声と呼ぶのが正しいだろうか。
即ちそれは、ボーカロイドの曲だった。
「えっ……これが? 小さい頃から、なんだよな?」
「ですよ。これ、もう10年以上前の曲ですし。お姉ちゃんが小学校の頃にたまたま聞いて、それ以来ずっと好きみたいです」
「そう、なのか……」
ボーカロイドってそんな昔からあったんだな、という驚きがあって。
更に、この曲が小さい頃から好きだったのか、という意外さもあった。
人の声よりもどこか無機質。
でもストレートで、どこかわがままで、哀しさもある。
「どうですか、先輩」
「……いい曲、だな」
「それはそうですよ。何年経っても聞かれてる名曲ですからね」
「だな」
何年聞いても、と言えるほど昔ではない。
今聞いても今っぽいな、とちょっと思うし。
でもそこにはぼやけた時代性も介在していて、そのアンバランスさに澪を感じてしまう。
また一つ、澪のことが分かった気がする。
分かっていたことに確信を持てた、という方が正しいのかもしれないけれど。
「ありがとう雫。何となくだけど、見えた気がする」
「そ、ですか。ならよかったです」
サビが入って、二番になって。
間もなく曲全体が終わりを迎える。
「ねぇ先輩。お姉ちゃんのこと、お願いしますね。きっとまだ、お姉ちゃんの夏は終わってないので」
「…………うん」
なぁ澪、と。もう何度目かの呼びかけを心の中で繰り返した。