五章#16 Night Walker
SIDE:澪
「あれ。綾辻、どこ行くんだ?」
夕食を食べ終えた私が玄関で靴を履き替えていると、後ろから聞きたくない声が聞こえた。声自体は好み極まりないから、余計にむかむかとお腹の中で苛立ちが顔を出す。
いっそ無視してしまおうか、と一瞬思う。
彼のことだ、それくらいで怒りはしない。先日からの私との距離感を考えれば、無視されても仕方がないと考えてくれるだろう。
――否、そうして私が無視するだろうと彼が思っている節があるような気さえした。
見透かしてほしいことは何も見透かしてくれないくせに、余計なことはさも当然の如く看破する。そんなところも嫌いだ、と私は思った。
嫌いだからこそ、その計算通りに無視するのが不服で。
私は、はぁ、とわざとらしく溜息をついてから答える。
「別に。どこでもいいでしょ」
「どこでもいいって……もう遅いぞ?」
「遅いって言っても8時だし」
厳密には8時半だけれども。
そんなことをわざわざ言及するほど私は細かい性格をしていないし、夜を注ぐ容器の目盛りは30分単位でつけられてもいない。
けれど、彼はまだ納得いかなそうな顔をしている。
「確かに8時なんて高校生からしたら大したことない時間かもしれないけど……もう充分暗いだろ。せめてどこに行くかくらい教えてくれ」
俺たちは一緒に住んでいるんだから、と。
彼はそう、力強く言う。
こういうとき、決まって彼の頬は強張る。瞳に憂いがこもっていて、本気で心配していることが分かった。
そういうところも、やっぱり嫌いだ。
「大したことない。公園だよ。ミュージカルの練習しに行くの」
「それなら家でも――」
「家だと雫に迷惑かけるし、私自身が思い切ってやれない。防犯ブザーとスマホは持ってるから万が一のこともないよ。他に何かある?」
「……すまん。恩着せがましすぎた」
彼の表情が僅かに歪む。
罪悪感と、それから歯痒さだろうか。そこに悲哀や未練があってさえくれれば、私はこんなに苦しまなくていいのに。
なんて、考えていてもしょうがない。
悟ったじゃないか。私の初恋は終わったのだ。彼は初恋の相手と同じ顔をしているだけにすぎない。
「本当にそう。過保護すぎるし、だいたい百瀬とはただ同居してるだけだから。家族ですらない人に心配される筋合いはない」
「家族ですらない、か」
「そうするって決めたのは、百瀬でしょ?」
私は彼の家族であれればよかった。
義妹として大切にしてもらえれば、哀と未練を注いでくれれば、それでよかった。
なのに百瀬は……百瀬は……っ。
「もう行くから。鍵、帰ってきたら閉めるから開けておいて」
「了解……あ、待った」
「なに?」
扉に手をかけたところで、彼が慌てたように言う。
眉間に皴を寄せながら振り返ると、『ちょっとだけ待ってろ』とだけ言い残し、玄関の直ぐ近くにあるクロークをぱたと開けた。
「流石に夜冷えるし。本当は綾辻のを持ってくるべきなんだけど、わざわざ部屋に戻るのは面倒だろうしさ」
「…………」
彼が差し出してきたのは、薄手のパーカーだった。
去年の今頃、彼が寒いといって羽織っていたのを見た覚えがある。
確かに、半袖短パンのスポーツウェアでは冷えるかもしれない。ほんの僅かに扉を開けると、夏にしては冷たい風が吹き込んできた。
「…………どうして」
「ん?」
「……なんでもない。もう面倒だし、借りてく。だからもう戻って」
「分かった。気をつけろよ」
ん、と小さく頷いて。
私は夜に飛び出した。
◇
彼に借りたパーカーから彼の匂いを感じて、私は顔をしかめた。
彼のにおいを『臭い』ではなく『匂い』と脳内で変換していることが、余計に腹立たしい。どうして彼は、こうも私の『好き』を奪っていくのだろう。奪っていくくせに、最後には『嫌い』に辿り着かせるのだろう。
「惨いよ、百瀬」
秋宵に零した言葉は、誰の耳にも届かない。
それでいい、それがいい。
ジーッとファスナーを上げて前を閉め、なるべく街灯に照らされぬように歩いていく。
とつ、とつ、とつ、とつ。
ランニングシューズの足音は無機質とは少し違うように思えて、むしろどこか擦れた音に感じた。夏休みに走りすぎたせいだろう。そろそろ新調すべきかもしれない。
いっそ走ろう、と脚が言う。
そんな気分じゃない、と頭が答える。
心が何と言ったのかは分からなくて、自分内会議は行き場を見失う。
結局走る気にはなれず、歩き続けた。
彼に告げたようにミュージカルの練習をするつもりではあるし、公園に着くまでに息が切れてはしょうがない。まぁこんな短距離で息切れするほど弱くはないけれど。
こうして夜を歩くと、彼と二人三脚をしたあの夜を思い出す。
あのときはよかった。
彼は私のことを美緒ちゃんの代わりとして見ていたから、否が応でも哀を注いでもらえた。妹の代わりへと変わった後もそう。
彼はいっぱいの哀を注いで、決して本当の私を逃しはしなかった。
初めはきっと、美緒ちゃんとの違いを探していたのだろう。同一視してはいけないから。その結果、私を正しく映し出してくれた。
やがて私たちがセフレになると、その目的は変わった。彼は気付かぬうちに、美緒ちゃんと私との乖離をも吞み込んで、私と美緒ちゃんを同一視しようとした。
その後も、きっと様々な葛藤があったのだろう。
いずれにせよ、彼とは“関係”で結ばれていて。
押し付けてくれる“関係”のおかげで、私はのっぺらぼうにならずに済んでいて。
彼の哀だけは正しい私を知っているのだ、と信じることができた。
今、“関係”も彼の哀も失って。
あぁだからか、と腑に落ちる。
彼が好きでないのは夏祭りの夜に納得したけれど、嫌いになった理由までは分かっていなかった。今になって、ようやくそれが理解できたのだ。
私は、彼とだけはもう“関係”で関われない。
クラスメイトにも、雫にも、入江さんにだって“関係”に合わせた模範解答で対応できるのに、彼だけはそれを許してはくれないんだ。そのくせ私を正しく映してもくれないとあれば、嫌いになるのも無理はない。
「ふっ……八つ当たりじゃん」
自分で考えていた可笑しくなった。
ああそうだ、なんて酷い八つ当たりだろう。
でも私は怖くてしょうがないのだ。
問いがなければ解を出せはしないように。
“関係”なしに正しい振る舞い方ができないから。
と、そう考えている間に公園に辿り着く。
さほど大きくもない、ブランコだけがある公園。
きぃきぃと軋むように泣くブランコを漕いで、『泣くように軋む』の方が正しいだろうな、と苦笑した。
真っ暗な公園には誰もいない。
大きい公園なら街灯があるし、お盛んな誰かが外でシているかもしれないけど。
ここなら月明かりに光はない。
だから――私は、不安にならずに済む。
常闇の中では自分の在り様なんて気にせずに済む。
鏡には何も映らないし、誰も私を見はしない。
その、はずだったのに――
「あれ澪先輩……ですか?」
「……っ。どうして、入江さんが」
彼に次いで会いたくない存在。
“関係”がなくなるきっかけを作った少女が、そこに立っていた。
「家がこの近くなので。澪先輩は……どうしてこんな遅くに、公園に?」
そうか、と歯噛みする。
そういえば彼女の家はこの近くだった。一人暮らしをしていると言っていたし、こうして会ってしまう危険も会ったはずだ。
まぁいい。
入江さんのことは嫌いだけれども、彼ほどではない。それに彼に向けるのと同じく、この嫌悪だって八つ当たりで逆恨みだ。
なら隠せばいい。
誰にでも人当たりがいい、雫の姉。
学校でも着けている仮面を被って、ふんありと微笑む。
「私は文化祭の練習。百瀬から聞いてない? うちのクラス、ミュージカルやるんだよ」
「それは存じ上げてます。澪先輩が主演をやる、ということも。それなりに噂になってますから」
「そっかぁ……それじゃあ頑張らないとだね」
噂になっているのは、私も知っている。
『みんな』は楽でいい。『みんな』に望まれる姿で在ることができるから、本当の自分を探さずに済む。
期待に応えるのは楽。だからこそ今日もミスコンに出ることを決めたのだ。
「あの」
と絞り出すように言う入江さんは、鋭い目をしていた。
あまりにも真っ直ぐで、力強くて、ついつい彼の哀の代わりを期待してしまう。でもそれが叶わないことは知っているから。
「この前のあれ、どういう意味だったんですか?」
「……あれって、どれかな」
「私のこと、『不倶戴天の敵だと思う』って」
「あぁ、そのことね」
「あと、『このままが一番幸せになれる』とか。百瀬先輩のことを『世界で誰よりも大切な人だ』とか」
「はは……随分と、多いんだね」
枯れた、呆れた笑みのフリ。
お腹の奥の苛立ちにそっとベールを隠して言うのに、入江さんは決して引かずに続けた。
「私、澪先輩のことが分からないんです。でも……分かりたくて」
「うーん……そう言われてもなぁ。入江さんがそうしたいなら、自己紹介でもしようか? 好きな食べ物とか、得意な教科とか」
「……そういう誤魔化し方、百瀬先輩に似ていて嫌いです」
うるさいなぁ……ッ!
そう叫んでしまいたい。彼に似ているなんて言うな。間違えて堕ちていく日々から逃げて、私のことを見てくれなくなった裏切り者と一緒なんて、そんな風に言うな――ッ!
けど、そんなことを言うべきではない。
だって今の私は雫の姉だ。その仮面を外したら、入江さんに向けるべき仮面が見つからなくなる。
だから私は、
「そっか。《《両想い》》だね。……そろそろいいかな? 私、本当に練習しなくちゃだから」
迷子で顔無しの自分ごと、宵闇のラムネ瓶に閉じ込めた。
「早く帰らないなら、百瀬に電話するよ。真面目な誰かさんが夜遊びしてるって。それでもいいなら、いてもいいけど」
「っ。今日は、帰ります。でも……私は、諦めません。だって……澪先輩は、きっと素敵な人だから」
縋るような入江さんの一言が、カラカラと空しく沈むビー玉みたいに、胸に蟠った。




