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五章#07 踏み込んで屋上、抜け出して群青。

「今日のところはこれで終わりかな」


 生徒会として働くこと数時間。

 最終下校時刻がすぐ近くに迫ったところで、無事今日のうちに終わらせるべき仕事が終わった。

 文出会の事後処理と各団体の企画整理、それから外部との諸々の手続き。量としてはそれなりだが、ほぼ全てデータを処理するだけなので慣れればさほど大変ではない。


「時雨さん。学級委員の方は例年通りでいいんだよね?」

「んー? うん、そうだね。二学期になったら招集するよ。その辺の連絡はボクがやっとく」

「了解。じゃあ今日はここで解散ってことで」


 文化祭は、三大祭の中でも最も規模が大きい行事だ。とはいえ学級委員にはクラスのことをやってもらう必要もあるため、学級委員会に仕事を集中させるわけにはいかない。生徒会の方で負担しつつ、効率化を図らなきゃいけないところだが……それは時雨さんが色々と準備をしてくれていた。


 各自帰り支度を済ませると、各々に挨拶をしてから生徒会室を出ていく。

 かさかさとファイルをまとめている大河を一瞥し、送ろうか、と言おうとしたとき。


「ねぇキミ。澪ちゃんが借りて行った屋上の鍵が返ってきてないんだけど……キミ、持ってたりしない?」

「えっ?」


 時雨さんの思わぬ問いに俺は声を漏らした。

 澪が屋上の鍵……?

 屋上の鍵は申請さえ出せば誰でも借りられることになっている。夏前までは俺と雫と澪の三人で昼食を摂ることがままあったから、澪も屋上の鍵の入手法は知っているだろう。


 だが、今日は三人で昼を食べる約束などしていない。それどころか澪が学校に来ていたことすら知らなかった。


「えっと、ごめん。俺は知らないんだけど」

「そっかぁ。ならキミの方から連絡してみてくれないかな。もしかしたら借りたのを忘れて持って帰っちゃってるのかもしれないし」

「あ、うん。そういうことなら」


 屋上の鍵の所在が分からぬまま帰ることはできない。

 時雨さんの提案に了承して俺がRINEを開くと、あの、と大河が声をかけてくる。


「澪先輩に限ってそういううっかりミスがあるとは思えませんし、一度屋上を見に行った方がいいんじゃないでしょうか? そうでなくとも、どちらにせよ施錠されているか確認しに行かなきゃいけないわけですし」

「あー、それもそうか……じゃあ俺が行ってくる。時雨さん、それでいい?」

「そうだね。お願いできるかな。その間にボクは他の戸締りを確認しておくから」

「でしたら私も戸締り手伝います」


 手をピンと伸ばして大河が申し出る。

 時雨さんは困ったような、ありがたそうな笑みを浮かべ、うんと首肯した。


「じゃあ大河ちゃんもキミも、お願いできるかな」

「了解。とりあえず行ってくる」

「行ってらっしゃい、百瀬先輩」

「……おう」


 大河とのこういうやり取りって地味にむず痒いな。

 そんなことを思いつつ、一応生徒会室を出る前に澪にメッセージを送っておく。


「澪、どうしたんだよ……」


 窓の外から見える空は、僅かに紫がかって見えた。



 ◇



 夕日によって姿を露わにする埃たちからは目を背け、階段をのぼった。

 ドアノブを捻ると、


 ――がちゃり


 と、抵抗なく扉が開く。施錠し忘れか、それともまだ使用中か。考えるよりも先に、屋上に出てその答えを確かめんとする。


 夏休みも3分の2以上が終わって、8月も中旬だ。

 夏真っ盛りの暑さは、しかし夕暮れ時になるとやや弱くなるらしい。扉を開けると夜の匂いのする風が吹いて、ひゅんわりと頬を撫でた。

 風って頬を撫でがちだな、と苦笑い。

 でもそれだけ風は身近なのだろうと思ったら、笑い飛ばしてしまうのは可哀想に感じた。


 ウチとソトを切り分ける境界を踏み越えて外に出ると、フェンス越しに立つ少女の姿が目に入る。

 夜の風に長い髪を揺られ、彼女は退屈そうに校庭を見下ろしていた。


「み――」


 澪、と。

 そう呼ぼうとして唇を噛む。

 夏祭りの日、澪は俺にはっきりと告げた。これからは綾辻と呼ぶように、と。

 あの言葉に込められた意図を汲み取るのは簡単ではない気がしたから、今はまだ夏の宝箱にそっとしまい込んでいるけれど、頼まれたことにはきちんと答えるべきだ。


「綾辻。学校、来てたんだな」

「……その言い方だと私が不登校児みたいじゃん」

「そういうわけじゃないけどさ。綾辻は登校義務がない日にわざわざ学校に来るような勤勉な奴だとは思ってなかった」

「…………そ。まぁ百瀬が知らないことがあっても当然でしょ」

「だな」


 チクチクと痛い声に俺は顔をしかめる。

 澪はこちらを振り向くことはせず、まだ校庭を眺めていた。その後ろ姿はあまりに完成されすぎていて、澪に近寄ることを躊躇いそうだ。

 けれどもここから話し続けるのも嫌で、澪が何を見ているのかも気になって、俺は見えないバリアを破るように踏み出した。


「…………」


 隣に並ぶと、澪が咎めるようにこちらを一瞥する。

 視線を校庭の方に戻すと、はぁ、と溜息をついた。


「百瀬ってさ、顔はいいよね」

「唐突だな」

「今見て思ったから。私、百瀬の顔はタイプだよ」

「そ、そっか」

「ん」


 あと、と言いながら手に持っていたサイダーをきゅぽっと開けた。

 ごくごくと飲み干すと、口の端から滴が伝う。ぺろりと魔性で官能的な舌の動きがサイダーを舐めとると、言葉を続ける。


「声も表情も仕草も……外身は全部、私好み」

「中身は嫌い、か」

「……気付いてたんだ」

「まぁ、な」


 むしろ外身がそこまで好かれていたことに驚いたくらいだ。

 夏祭りの夜。あの場での会話以降、明らかに俺に対して向ける目が変わったことには気付いていた。

 失望に満ちた瞳を直視するのは胸が痛むけれど、覚悟はしていたことなのでしょうがない。


「ふぅん。なのに迎えにきたんだ」

「嫌われてるからって来ない理由はないだろ」

「まぁね」


 澪は肩を竦めて苦笑する。

 その横顔は、ピンと月に張られた弦のように凛としていた。

 俺たちが戸籍上での義兄妹になった4月から、もう4か月ほどが経っているけれど、澪がこんな風な顔をしていたところは見たことがない。

 俺に冷たいときはあった。雫の前では大抵そうだったしな。


 この顔は……と記憶を遡ると、中学校の頃の彼女が頭をよぎる。

 まだセフレという“関係”ですらなかった頃の澪。孤独より孤立という言葉が似合う、気高い少女。

 あの頃は美緒に重ねていたせいで心が軋んだが、今改めて見つめると、ただただ綺麗だな、と感じる。


 ずっと凝視しているのも変な気がして、澪の視線の先を追ってみる。

 校庭では陸上部が部活終了の後片付けをしていた。


「そういえば。綾辻って、どうして陸上部入らなかったんだ?」

「なんで?」

「だって綾辻、走るの好きじゃん。なのに中学のときから体育会系の部活入ってなかったからさ。ふと気になって」


 澪はこと身体能力にかけては完璧超人の時雨さんすら凌駕する。夏休みにも走り込みをしていると言っていたし、それなら陸上部に入ってもおかしくないように思えた。

 屋上の柵に退屈そうに頬杖をつくと、俺に目を向けることなく口を開く。


「なら百瀬はどうして文芸部入らなかったの? 演劇部とか、漫画研究会とか、向いてそうな部活は色々あるし。部活って“理由”で関われる人も増えるんだから、部活に入ってもおかしくないじゃん」

「あー。言われてみれば」


 部活の仲間だから、という“理由”ならきっと屈託なく関われていた。雫や澪に“関係”を押し付けていた以前の俺がどうして部活に入らなかったのかと言えば……特に答えは思いつかない。


「なんかピンとこなかったから、って理由になるんだろうな。そもそも見学に行った覚えもないし」

「でしょ。それと同じ。別に理由があるわけじゃないよ。走るのなんて一人でもできるし、わざわざ陸上部に見学に行こうって思わなかった」

「なるほどな」

「あと……高校だけで言えば、誰かさんにいつ呼び出されてもいいようにしておきたかったし。今となっては関係ないけどね」

「…………。そっか」


 皮肉げにニィと口角を上げる澪。それは別に、誰かさんのせいにしているわけじゃないのだろう。むしろ『今となっては関係ない』の方に思いが詰め込まれている気がして、言葉に詰まる。


 伸びてきた爪が掌に刺さっていることに気付いた俺は、グーパーを繰り返しながら、じゃあと話を続けた。


「どうして陸上部を見てたんだ? っていうか、なんで屋上?」

「はぁ……どうして、とか、なんで、とか。さっきから質問ばっかり」

「俺が知らないことがあって当然って言われたからな。少しは知る努力をしようって思って」

「誰も求めてないけど?」

「需要に応じて生産を調整するのは市場の原理だからな。こっちは私に情けと書く方の()()なんでね」

「あっそ。くだらない言葉遊びだね。寒い」

「ならもう帰ろうぜ。下校時刻だ」


 俺の思い通りに会話が進んだことに気付いたのか、澪はばつが悪そうに顔をしかめた。

 嫌そうに深い吐息を零すと、柵から離れた。


「先帰ってて。私、鍵戻して帰るから」

「いや俺も――」

「それが嫌だから帰って、って言ってるの」

「俺もそうしたいんだけどな。荷物とか置いてきてるんだよ。それとも自分が借りといて返すのが遅れた鍵を俺に預けるか?」

「……性格悪い」


 苦虫をチューイングガムにしたような顔をして、澪は屋上の出口に歩き出す。

 澪の背中は、飽きの終わりみたいに寂しげだった。


 古い恋愛ゲームの曲が頭に流れる。

 あのゲームの少女と澪は似ても似つかないけれど。

 季節だってちっとも似ていないんだけど。

 でも澪には――澪と俺には、似合う曲に思えた。

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