五章#02 解るひと
SIDE:友斗
――ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶ泡沫はかつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし
あぁ、なんたる名文であろうか。千年弱前にかの鴨長明が綴った『方丈記』の冒頭を見つめながら、俺は強く思う。
幾千もの時を超え、それでもなお愛され、解釈され、人の心に染みていく。そんな名文を紡ぐことができるのならば、それはもう何にも勝る幸運であろう。
入学祝いに、と晴季さんがプレゼントしてくれた電子辞書。
その中には名著がデータとして収録されており、いつでもどこでも読むことができる。
あぁ、科学って素晴らしい!
文学も、化学も、どちらも人の生活の礎となるものであり……っ!
文系と理系を分かつというのは、なるほど、なんと愚かな行――
『なぁ友斗。いい加減、現実逃避しないで書こうぜ?』
「…………うす」
平安時代に記された書物を今になって味わえる喜びから現代の教育事情にまで思いを馳せる、教養に満ちた俺に対し、電話の向こう側の何某はぴしゃりと現実を突きつけてきた。
あぁ、こうして人は余裕を奪われて思考を停止するのだな――などとジョークを言っていられる時期はもう、とっくに過ぎてしまっている。
夏祭りから一夜明けて、8月14日。
予定通り昼頃にあちらを出て帰宅すると、俺は荷物を片付けるのもそっちのけでパソコンと睨めっこし始めた。
正確には、せざるを得なくなった、と表現すべきか。
ほとんど空白のテキストファイル。
そのファイル名は『文化祭ミュージカルプロット』。
提出期限は――明日である。
『つーか! まだ一文字も書けてないとは思わなかったぞ、マジで』
「うっ……ち、違うんだよ。昨日っていうか、今日の昼間までは家の用事でだな……」
『でもこの前の打ち合わせから一週間以上経ってる』
「くっ……この編集者め」
『編集者を悪口みたいに扱うな! ってか友斗は編集者に何を知ってるんだよ?!』
そりゃもちろん、何も知らない。父さんも義母さんも業界人として頑張っているためたまに編集者と話すこともあるらしいが、二人とも仕事の愚痴を漏らすタイプじゃないからな。晴季さんは編集者をやっているんだけど、仕事の話はあまり聞いたことがないからな。
編集者は鬼らしい。
それはラノベ読者の単なる共通見解でしかなく、多分事実とは無関係である。むしろめっちゃ大変だと思う。時雨さんが前に漏らしていた。その割には晴季さん、やたらと俺に構ってくれてたけど。
と、話を逸らしつつも。
流石の俺だって現実は直視できている。
しつこいようだが本日は8月14日――つまり、来たる明日、文化祭の出し物についての会議が行われるのだ。
クラスでの会議がその後になってしまうのでストーリーの変更は多少許されるが、大雑把にどんなお話なのかは説明しなくちゃいけない。場合によってはその時点でNGが出るかもしれないからな。
『明日の会議、だいじょーぶなのか? プロットだけありゃいいってわけでもないんだろ?』
「あー……まぁな。企画書とか全部まとめて提出してプレゼンすることになってる」
『うわぁ……マジでキツそうなんだけど』
どんよりと言う電話の相手は八雲。
さっき作業通話的な感じで相談に乗ってほしいと頼んだら快く受け入れてくれた。なお、伊藤には声をかけていない。なんか、こう、ね? 流石に八雲以外には申し訳なさを感じると言いますか……。
八雲の声に俺は苦笑交じりで、いや、と答えて続けた。
「企画書とかそっちの方は問題ないぞ。既に作ってあるし、ついでに予算とか今後の作業スケジュールとかも改めて見直した案を作成済みだ」
『おー、うっかり惚れそうになるレベルでめっちゃやってるじゃん』
「まぁな。というかこの辺は慣れてるし、さほど手間じゃない」
去年は学級委員に所属していたわけではなかったから、文化祭は生徒会の助っ人として働くだけだった。あとはクラスのことを手伝ったり、とかな。
けどそれだけでも充分に勝手は分かる。他のことでちょいちょい企画書は作らされているのだ。
『で……どーしてそーゆうところは完璧なのに、肝心のプロットは一文字も進んでねぇんだよ』
「クリエイティブな仕事は苦手なんだよ。はぁぁぁ。こんなことなら引き受けなきゃよかったかなぁ」
ぎぃと椅子の背もたれが軋む。
ほぅ、とスピーカーモードのスマホから、意外そうな声が聞こえた。
「ん……八雲、どうかしたか?」
『あっ、いや。なんかそこまで弱音を吐く友斗って珍しいなーって思ってさ。これまではこう、色々と言いつつもしれっと上手くやって終わり、みたいな感じだったろ』
「そうか?」
体育祭の出場競技を決めるときとか、結構色々言ってたよな……?
ふとそう思うが、きっと八雲が言っているのとは少し違うのだろう。
確かに、全く違いがないわけではないはずだ。前ならば色々言いはするが、IFの話はしなかった。だって『引き受けなきゃよかった』と言ってしまうのは、俺に脚本を任せたクラスメイト達を迂遠に誹るようなものだから。
それは学級委員という“関係”で関わる以上ダメだろ、と思っていたけれど。
一人の生徒としてクラスメイトを見たとき、文句や愚痴くらい言ってもいいよな、と無意識に判断していた。
「ちょっとは……心を開いたってことなんじゃねぇの。自分で言うのはクソださいけど」
『くくっ。ほんとだな、クソださい』
可笑しそうに八雲がくつくつ笑った。
いい友達だな、と思う。同時に嬉しくも思った。こいつに、電話してくれないか、と頼めた自分が誇らしい。
もう俺は、変わった。
“関係”を“理由”にせずとも人と関われるし、助けてくれって言える。
もしかしたらこの変化は、ある側面から見ると退化に似ているのかもしれないけれど。
くすぐったくなった俺は、それに、と話の矛先をもとに戻す。
「今日に関しては一文字も進んでないわけじゃない。ベースにする童話は決まったんだぞ」
『ほーん。で、何にしたんだ?』
「『白雪姫』。綾辻にはそれがぴったりだと思ってさ」
『あー……なるほど。確かにシンデレラとかって柄じゃないもんな』
それは、昨晩から決めていたことでもある。
澪のホワイトクリスマスみたいに白い肌は、今も昔も変わらない。美しさゆえに嫉妬される白雪姫にぴったりだ。
「問題は、そこからどうストーリーを作るか。ネタに走っていいなら馬鹿みたいな話にするけど……そうもいかないだろ?」
『そうだな。なんて言っても、コンセプトが「打倒・演劇部」だし』
「それなぁ」
まぁ、そのコンセプトを満たせるとまで思い上がってはいないけれど。
少なくともネタに走った喜劇はNG、ということは確定してしまう。
そもそも文化祭のような行事でマジの演劇やミュージカルをすること自体、かなりハードルが高い。だってそういうのは寒いから。
もちろん、うちの高校は他ほどそういった嘲笑的空気は蔓延っていない。しかし哂われないだけで、面白いと思ってもらえないのは変わらない。
それでもなお、シリアスで泣ける話を。
そう望まれると、脚本家としてはどうしたもんかと頭を悩ませずにはいられない。
「泣ける、って言われても難しくないし。これなら俺じゃなくて他の奴がやった方がまだマシなものが書ける気がする」
『んー。その気持ちも分からなくはねぇけど、それは無理なんじゃねぇの?』
「分かってるよ。今から放り出すほど無責任じゃない」
『んにゃ、そーゆうことじゃなくてさ』
皆が友斗に任せたのは、と八雲は秘密話でもするように続けた。
『多分、友斗なら綾辻さんのことを分かってる、って思ったからじゃねぇかな。友斗の脚本なら一番綾辻さんを輝かせられるし、他の、綾辻さんをよく知らない奴が書いた脚本じゃ輝かせることなんて無理。そう思ったから任せたんだと思うぜ』
だから時間があろうとなかろうと、誰かが代わることはできない。
言外に伝えられた意図を汲み取って、そっか、と小さく呟く。
コンセプトではないけれど、そういえばクラスで決めたことがあった。
――主演:綾辻澪←マスト! 綾辻さんを輝かせる!
なら……一度、コンセプトは忘れよう。
他ごとは全て捨て置いて、綾辻澪という女の子のことを考えて。
澪と“関係”を剥がして向き合って、そうして抱いた印象を物語に落とし込む。
それだけでいいのか。
「ふっ……サンキュー、八雲。答えが見えた気がする」
『そっか。じゃあ、今度こそ大丈夫なんだな?』
「ああ。大丈夫だ……って、締切前日に電話してきた奴に言われても信憑性ないか」
『そんなことねーよ。友斗ならだいじょーぶそうだな、って今の声聞いて思った。信頼してるぜ、大将』
ぱしんと背中を叩くようなその声に自然を頬が緩んだ。
『ま、それでも一応不安だしな。書き終わるまでは電話したままでいいからさっさと書いちゃえよ』
「…………それ信用してないよな?」
『信頼と信用は別物だぜ、優等生クン』
「俺に日本語をレクチャーするとはいい度胸だな、劣等生クン」
けらけらと二人で笑いながら。
今度こそ俺は、迷うことなくプロットを書き終えた。