五章#01 失恋黒狐
SIDE:澪
8月13日、夏。
朝顔が萎むみたいに花火の勢いは止んで、夏祭りも次第に終わりに近づいていく。これが終われば、明日には東京に戻って、文化祭の準備になるから。
雫も入江さんも、そして彼も。
三人とも、楽しそうに夏を拾い集めていた。
そんな三人と共に、私こと綾辻澪は思う。
あぁ眩しい。そして同時に妬ましい、と。
――正しいか正しくないかじゃなくて……俺はただ、今が嫌なんだ。“関係”を押し付けたままじゃ、二人の『好き』に応えられない。誰かに『好き』を渡せない。そんなのは嫌なんだよ
彼が告げた、最低の告白を思い出す。
これまでの彼は最低だった。堕ちて、堕ちて、堕ちて――どこぞの主人公のように、刺されたり線路に突き飛ばされたりしてもしょうがないと言ってしまえるくらい最低だったように思う。
だって彼は、自覚的だった。
私に、雫に、好意を持って。
けれどもその好意と恋の間の、越えがたい『う』の有無という違いを誤魔化して。
彼の言葉を借りるなら、なるほど、彼は私たちに“関係”を押し付けていたのだろう。
でも、と私は思う。
そうして“関係”を定義することは間違いなのだろうか?
だって、それは誰もがやっている。
告白して、付き合うことを決めて、その“関係”に恋人と名をつけて。
そこに恋心が介在しない場合だって幾らでもあるだろう。それでも“関係”を先んじてしまえば、その後に恋心が生まれてくれるのではないか、と期待する。
或いはそうでなくとも――たとえ恋心が生まれる余地はなくとも、相手を独占することができる。他の誰かへの想いを裏切りだと誹ることができる。
畢竟、人と人との繋がりは契約に等しい。
そもそも愛の終着駅が結婚ならば、それは契約以外の何物でもないではないか。
“関係”で関わることの何が悪い?
関わり続ける“理由”として“関係”を利用することの何が悪い?
ねぇどうして、と彼の背中を見つめて思う。
あなたはどうして――哀を失ってしまったの?
哀を失くして、哀に満ちた目をしなくなって、“理由”なしに人と関われる眩しい人になってしまったの?
私と彼は同類だと思っていた。
だって、私たちは似ている。
眩しくて明るくて変わることのできる強い妹を持って。
初めは妹を守ろうとして、しかし途中で守る必要がないほど強いことに気付いた。
そういう傷を抱えた、同類だったはずなのに――ッ。
「おねーちゃーん! ラムネ飲みきれないから飲んでぇ。炭酸でお腹がぱんぱん!」
唇を噛んでいると、雫がそう明るく言った。
片手には、3分の1ほど中身が残ったラムネ。その上の方でぷかんと沈んで転がる、一粒のビー玉がからからと世界を映し出していた。
ふと、そこに映る自分を見つめそうになって――怖くなった。
そこに映るのは一体だれ?
綾辻澪は、どんな姿でビー玉に映るの?
そう思ったら、ラムネ瓶を直視するのも持つのも恐ろしいことに思えて。
――けれど、と自分を叱咤した。
そんな風に自分の思いを零してしまうのは綾辻澪ではない。
すぅぅぅ、と息を吐いて心を凪がせてから、私は雫の姉としてへなへなと笑った。
「まったく……雫はしょうがないなぁ。百瀬に飲んでもらったら?」
「いや俺も飲んだからな? むしろ雫が全然飲んでないんだって」
「むぅ。私だって頑張ったんですけど? 先輩、そーやって人のせいにするのはどーかと思いますよ」
「自分の分を飲んだ後に雫の分も半分以上飲んでやった俺に言う言葉かねぇ、それ」
彼は、くしゃっと笑う。
あぁ、それはもう屈託のない笑みだった。罪悪感はちょっぴり残っているように見えるけれど、それは決して哀と呼べるようなものではなくて。ただ彼の胸に居残った、これから下校していくであろう申し訳なさでしかない。
はぁ、と雫の姉は溜息をついた。
「分かったよ。けど私一人じゃ無理だから雫も手伝ってね」
「うんっ! 先輩先輩! お姉ちゃんとの間接ちゅーですよ、羨ましいですか?」
「姉妹に間接キスとかねぇだろ……いや姉妹百合ならわんちゃ――って、澪?! そのツララみたいな目をやめてくれませんっ!?」
「別に。そんな目で見てないよ気のせいだよ。ね、入江さん」
「え……? 私はよく分からないですけど……百瀬先輩が明らかに変なことを考えていたのは顔を見て分かったので。自粛と猛省願います」
「ひどくねっ?!」
どっと三人の中で笑いが起こるので、私もそれに合わせて笑う。
けたけたと楽しそうな笑顔に紛れて、私は雫からラムネ瓶を受け取った。
「…………」
「ん……澪先輩。どうかなさったんですか?」
ラムネの口を見つめていたら、入江さんが心配そうな顔で尋ねてきた。
はぁ……この子はどうして、こうも人に気を掛けなければ気が済まないのだろう。そう苛立ちを思えるけれど、そんなことより、と思考の行き先を正した。
なぜラムネの口を凝視するばかりで飲む気が起きないのか。
試しに口を近づけてみて、その理由にすぐに気付く。
背筋をぞわぞわと、違和感が這った。
私は――彼と間接キスをするのを躊躇っているらしい。嫌悪感とまでは言わないけれども、これまでのようにすることには嫌悪感がある。
「ううん、どうもしてないんだけどね。よく考えたらもう、ラムネには飽きちゃってて。入江さん、飲まない?」
「私、ですか……。すみません。私はまだ自分の分を飲み終えてなくて」
「そっかぁ。謝らなくて大丈夫だよ。心配させちゃってごめんね」
「い、いえ」
入江さんの視線は、どこか疑るようなものだったけれど。
その疑念は、哀には及ばない。
幾ら疑り、掴み取ろうとしたところで――彼の哀でなければ、私を正しく捉えることなど、できないのだから。
なのに、と私は歯痒くなった。
歯を掻く代わりに耳たぶを摘まんで、そっと意識を落ち着ける。
彼の瞳に、もう哀はない。
美緒ちゃんへの想いに愛と名前を付け、私や雫との“関係”を清算した彼の瞳では、もう本当の私を映し出してはくれない。
――あなたがそう在りたいなら、私もそうするよ
あの言葉は嘘ではない。
――百瀬は雫の初めてを奪った。そのことをなかったことにするのは、雫の姉として……義妹だった者として、許さないから
この言葉だって、真実だ。これも、それも、全て本音。
但し。そこに私はいなかった。
彼のセフレだった綾辻澪と、雫の姉である綾辻澪しか、あそこにはいなかったのだ。
彼がそうであるように、私だって“関係”を介して関わることに慣れてしまっている。
色んな“関係”によって自分を着けかえるのに慣れてしまった私に、今更“関係”なしの繋がりを持てと言っても、すぐにできるわけがない。
まして彼の哀が失われた今、私の素顔を映し出す鏡は無くなってしまったのだから。
もうとっくに本物の私を探すことすらやめて彼の哀を見続けていたのに、急に放り出されたって、どうすればいいか分からない。
ちょうど通りかかったお面屋さんには、色んなお面が並んでいる。
狐、おかめ、ひょっとこ、鬼、天狗。
古きよきヒーローや最近流行りのアニメキャラクター、それから他にもたくさん。
「どうした。お面、欲しいのか?」
「……別に」
「そっか。おじちゃん、その黒い狐のお面、貰ってもいいですか?」
「おー、いいぜ。500円な」
別にと告げたはずなのに、彼は狐のお面と500円玉を交換した。
そしてそのお面を、ほい、と私に手渡す。
「……要らないんだけど」
「でも見てただろ? それに」
雫と入江さんに聞こえないかを確かめるように視線を移してから、
「さっきから酷い顔してる。俺のせいだろうし何にも言えないけど……雫にはその顔、見せたくないだろ」
そっと呟いた。
……っ。
本当の私を映し出してはくれないくせに、そうやって――ッ。
そう口に出しそうになったけれど、紛れもなく八つ当たりだから。
「…………ん。なら貰っとく。けど一つ」
私はお面を着けて、百瀬に言った。
「澪って呼ぶの、やめて」
「――……っ。分かったよ、綾辻」
くしゃっと顔を歪めると、彼は雫と入江さんの方に向けて歩き出す。
あぁ、と私はようやく気付いた。
遅ればせながらと言うべきだろう。もっと早く気付いていれば、雫のことを傷つけずに済んでいたかもしれないのだから。
私は、彼のことを本当は愛していない。
私が好きだったのは彼の哀でしかなくて。
美緒ちゃんへの未練に囚われた彼のことを、愛していたんだ。
「失恋、か」
どうやら私の想い人は故人と化したらしい。
そんなところは彼に似ているから、やっぱり同類なのかも、と考えてみて。
「まさかね」
まぁいい。
彼への愛が冷めようとやることは変わらない。
他者と上手くやるための仮面の付け替え方は、皮肉にも彼との日々で練習したから。
だから、何も変わりはしない。
何も――変われはしない。
持て余す“関係”すら失くした先にいる私は、のっぺらぼうでしかないから。