四章#39 Be square
「ねぇ百瀬――どうして、終わりにするの?」
澪の一言に、ぴん、と空気が張り詰める。
雫と手を離すと、澪はこちらを真っ直ぐに見つめて、続けた。
「確かに私たちの“関係”は理解されにくいものかもしれない。“理由”がなきゃ関われないのは、間違っているのかもしれない」
さやさやと、明けない夜の果てに想いを運んでいくように。
ねぇどうして、とその視線が問うてくる。
「でもさ。間違ってるかどうかなんて、そんなの誰かが決めたことでしょ? 誰かが決めた正しさに従う必要なんてない。私たちは私たちが関われる方法で、これからも関わればいい」
「……っ」
それはやっぱり、甘やかな毒だった。
「だってさ。楽しかったでしょ? 幸せだったでしょ? 雫とは恋人として、私とは義兄妹として、楽しくて幸せな日々を過ごしてたでしょ?」
「それは……ッ」
「男の子と女の子が一つ屋根の下、三人で暮らしてるんだよ。“関係”でちゃんと境界線を引かなくちゃ、きっといつか平衡感覚を失う」
――……っ。
どうして澪は、そうも真っ直ぐに。
縋るように、なのに今まで見たことがないくらいに力強く。
間違いを肯定してくれるんだ。
「私は百瀬が好き。雫も百瀬が好き。なら――その果てに、どっちかが選ばれるの? 物語の中ならそれが正しいのかもしれない。選ばれない誰かの涙は、さぞや美しく映るのかもしれない。けどさ」
けど、と澪が踏み込んできた。
雫を守る姉の如く、兄に異を唱える義妹の如く。
「私たちは生きてるんだよ! どうして正しく在る必要があるのッ?! 幸せならそれでいいじゃん。私は――自分が振られるのも、雫が振られるのも嫌だよっっ!」
「お姉、ちゃん……」
切実な一言は、あの日と同じくどこまでも間違っていて。
つい澪の勢いに気圧されそうになる。
澪の言う通り――俺たちは生きている。
物語の中でなら正しく在るべきなのかもしれない。けれども現実はそうではないのだ。だって、世の中が端から間違いだらけなのだ。
だってさ。
あんなにもいい子だった美緒があんなにも早く死んじゃうなんて、どう考えても間違ってる。
色んなものが間違っているのに、どうして正しく在らねばならない?
その問いは真っ当だし――俺は、その答えを持ち合わせてはいない。
「違うんだよ、澪。俺はさ、正しく在ろうとなんてしてないんだ」
「「えっ……?」」
唇が戦慄く。
でも美緒が、見ていてくれるから。
美緒に恥ずかしくない自分でいたい。
「正しいか正しくないかじゃなくて……俺はただ、今が嫌なんだ。“関係”を押し付けたままじゃ、二人の『好き』に応えられない。誰かに『好き』を渡せない。そんなのは嫌なんだよ」
ばーん、ぽーんと花火が咲いた。
以前澪がカラオケで歌った、夏の終わりの歌を思い出す。
美緒がくれたものが、胸の奥で咲いているから。
「俺は『好き』を渡したい。その相手が誰なのか分からないし……もしかしたらたくさんの人に『好き』を手渡す、クズ野郎になるかもしれないけど。でも『好き』を贈りたい。大切な誰かに『好き』って言いたいんだよ」
だから……っ。
「俺は……俺の身勝手で、この“関係”をやめたいって言ってるんだ」
俺は一歩、雫と澪に近づいた。
「だから……俺を嫌ってもいい。こんな最低野郎を好きになる理由なんてない、一緒にいる理由なんてない、大嫌いだ。そう思われるのは当然だし、覚悟もできてる」
「そんな、こと――」
「でも俺は! たとえ嫌われようとも、今度はもう離さない。もう一度ッ! 好きになってもらえるように……今度こそ、“関係”なんか気にしないで、一人の男として二人の女の子と関わり続けたい……ッ!」
最低な主人公を、それでもヒロインが好きでいる必要なんてない。
だって俺たちは生きている――否、死んでいてさえも嫌いになる権利はあるのだ。
人と人との関わりは、きっとそういうもので。
それでも大切だと思うなら、ちゃんと関わりたいって叫ばなくちゃいけないんだ。一歩踏み出して、手を伸ばさなくちゃダメなんだ。
「……百瀬」
ぽつりと、澪が俺を呼ぶ。
「百瀬は……そう、するんだ」
「ああ。そう、したい。勝手かもしれないけど――」
「――うん、本当に勝手だね。私を、雫を振り回して。けど……きっと、始めたのは私だから」
「っ……」
その瞳は、どこか寂しそうで。
空に咲いた菫色の小さな花火は、ぽつ、と弱々しく音を鳴らした。
「あなたがそう在りたいなら、私もそうするよ。
もう――美緒ちゃんのことと向き合ったみたいだしね」
但し、と言いながら、澪の表情はスイッチを切り替えたみたいに変わった。
すっとこちらに手を伸ばしてから、澪は、
――ぱちん
と、デコピンをしてきた。
「百瀬は雫の初めてを奪った。そのことをなかったことにするのは、雫の姉として……義妹だった者として、許さないから」
「約束するよ。なかったことになんて、絶対にしない」
「なら……よし。私からは言うことはないよ。元々私は百瀬にとって都合がいい女だしね」
「言い方が酷い?!」
「だって事実だし。義妹とか言いつつ、愛人みたいなものだったじゃん」
なんてね、と澪はからかうように言った。
それが澪なりの、俺への優しさなのだろう。
どうしようもなく心に染みて、ありがとう、と思う。
かた、かた、と足音を鳴らして。
今度は雫が俺の前に立った。
「じゃあ次は私から」
「……うん」
「と言っても、私はあんまり言うことないですけどね。お姉ちゃんと違って、秘密の関係じゃなかったですし。形だけ見れば、体育祭で舞い上がって付き合ったけど好きになってもらえなくて振られた、っていう。ただそれだけですし」
「っ。別に、そういうわけじゃ――」
「ふふっ、じょーだんです。そんなこと分かってますよ。さっきの私の、超健気な告白を聞いてなかったんですか?」
「自分で言うかね、それ」
「言いますよ。負けてないのに負けヒロイン感を出せるなんて、最高のアピールタイムですもん♪」
えへへ、と可愛らしく言うけれど、それは紛れもなく虚勢で。
でも全てを可愛いへと変えて自分のものにせんとする雫は、どこまでも雫らしかった。
「あのですね、先輩。先輩は確かに最低です。私が何度好きって言っても、やっぱり好きとは言ってくれない、彼氏失格な人でした」
「……すまん」
「でもやっぱり先輩のこと、大好きです。だってそもそも私、先輩と付き合えてるだなんて思ってませんでしたもん」
「えっ?」
「だって先輩ですよ? ラノベ主人公ですよ? 付き合うって言われたら『ああ買い物か?』って返すような、最低の一族ですよ?」
「うんそれは俺じゃない気がするなっ?!」
くすくすと雫は笑って、そして言った。
「いいですか、先輩。私が本気で先輩と付き合うんだったら、あんなものじゃ済みませんからね。毎日腕を組んで登校しますし、一緒にお昼を食べて皆の前であーんし合います。休みの日には毎日デートして、ハグとか、き、キスとか……そういうのも、たくさんしちゃいます」
「えっ、と――」
「だから! あんなのじゃ物足りないから……続きを貰えるの、悪い子で待ってます」
屈託なくそう宣言すると、雫はまた一歩、こちらに近づいてきた。
そして――
「さしあたっては先輩」
――ちゅぷり
さっき澪がデコピンをしたところに、柔らかくて湿った何かが触れた。
その温もりがなんなのか、分からないほど間抜けではない。
綾辻雫の恋心の雫みたいな、おでこへの甘いキスだった。
「このキスを、預けておきます。
返却期限はありませんけど……延滞料は、高くつきますからね」
「……返却期限がないのに延滞料はあるって、無茶苦茶だな」
「そーですよ。先輩のメンドーなお腹の中とお揃いです」
ぶい、とピースサインをして、雫は俺から離れて行く。
「さてと。それじゃあ皆で夏祭り、行きましょっか!」
金平糖の瓶をひっくり返してしまったみたいに、空には星屑が転がっていた。
花火はまだ終わっていない。
一時間ほどはやり続けるのが通例だから、あと30分は残っているはずだ。
なるほどな、と思った。
キラキラ輝く天の川は、愛を分かつんじゃない。愛を結んでいるんだ。
煌めくのは当然で、甘やかなのも当然で。
そういえばミルキーウェイとも呼ぶんだっけ、と。
五年生の国語の教科書を思い出して、呟いた。
◇
「あーっ! 大河ちゃん!」
「雫ちゃん、こんばんは。百瀬先輩と澪先輩も……話は、終わりましたか?」
夏祭りをやっている神社の近くまで向かうと、雫がすぐに大河を見つけた。
金魚の柄の浴衣を着た大河は、俺の目を見て、尋ねてくる。
「ああ、終わったよ」
「それならよかったです。お疲れさまでした」
「むぅ。なんか、大河ちゃんの正妻感が凄くないですかねぇ」
「雫ちゃん?! そんなこと、全然ないよ。私はただ――」
「ふふっ、冗談! 大河ちゃん慌てすぎ! っていうかむしろ先輩の方がもうちょっと焦って否定しましょうよ!」
「いやだって明らかに冗談なの分かってたしな。だいたい、雫は大河が来ること分かってただろ」
大河が来ることも、大河が俺に背中を押してくれたことも。
分かっていなければ雫はきょろきょろと大河を探すような態度をとっていない。
てへっ、と雫は舌を出した。
「流石先輩、私のこと分かってますね~。流石は元カレです」
「し、雫ちゃん! そんなに言うのは流石に百瀬先輩が可哀想じゃ……」
「だいじょーぶだよ、大河ちゃん。先輩は傷を抉られて喜ぶタイプだから」
「…………百瀬先輩、汚らわしいです」
「違うからね?! 嫌っていいとは言ったけど風評被害はやめてね!?」
ぷっ、と四人で吹き出して。
笑い終えると、いよいよ夏祭りを満喫しに向かう。
瓶ラムネを四本買って、皆で飲んで。
雫がたこ焼きを買ってあーんをしようとしてきたり。
大河が歩きながら食べるのはよくない、と真っ当すぎることを言ったり。
澪が、美緒が好きだったりんご飴を買って複雑な気分になったり。
屈託なく、とはちっとも言えないけれど。
最低主人公の俺には勿体ないくらいに幸せな時間だった。
「ねぇ先輩。やっぱり七夕のお願い、しておいた方がよかったかもですね」
「急にどうしたんだよ。そんな前のこと」
「だって……一か月越しに、彦星様がお願いを叶えてくれましたから」
一緒に歩きながら、雫がそう呟いた。
世界平和――ああ、なるほど。
大河との仲直りだけじゃない。こんな日常エンドを返せ、って雫は言ってたのか。
「そうだなぁ……けど、俺はいいよ。お願いに頼って働かなくなったら、織姫様と引き離されちゃうから」
「むぅ。それじゃあまるで、私は働いてないみたいじゃないですかー!」
「違うのか?」
「違いますよ!」
そんなの、分かってるから。
なら、と俺は続けた。
「雫のお願いは、彦星なんていう色ボケニートが叶えたわけじゃねぇよ。雫が自分の手で、叶えたんだ」
「っ……彦星様を色ボケクソニートとか言っちゃう時点で、先輩って根っこが非モテですよね」
「ぐぬぅ……まぁ、自覚はある」
「ですよねー」
くつくつと笑うと、雫は前を歩いていた大河と澪に並んだ。
三人についていきながら、俺は空を見上げてみた。
夏の三角形なんて、ぶっちゃけ分からない。
デネブもアルタイルもベガも見分けがつかないから、太陽と月以外は全部同じに見えるんだ。
けどその中の好きな星を四つ結んで、四角形を作ってみて。
そしたらなんか、いいな、と思った。
四つが結ぶ、その真ん中で輝く星を見て、くすっと笑った。
二人ずつから三人に。
そして俺たちは――三人から、四人になって。
空から降る雫も、とめどなく流れる大河も、居場所を示してくれる澪標も。
全てに感謝をして俺は、
「ありがとう」
と、線香花火のように呟いた。
『Be square』END




