四章#38 恋人との話/義妹との話(結)
からん、ころん、とビー玉みたいな下駄の音が鳴る。
ドーンパーンと結んでは開いて、結んでは開いてを繰り返す花火たち。
キラキラと子供たちの夢に揺蕩うような輝きから――俺は少し、離れた場所にいる。
墓参りを終えて、六時間ほどが経過して。
夏祭りが始まって早々に、俺は雫と澪と三人っきりになった。
夏祭りをやっている場所からやや離れた、海岸沿い。ざぶーんざぶーんと押し寄せる波を眺めるような小さな高台までやってくると、夏祭りの喧騒のお零れみたいに花火がよく見えた。
昨日の友達と回る予定だから、と父さんたちに言った。
時雨さんは察してくれたのか、晴季さんについていってくれて。
そうしてようやく、俺と雫と澪は三人っきりで話すことができるようになる。
「花火、始まっちゃいましたね」
と、雫が呟いた。
祖母ちゃんから借りた浴衣とはやや不似合いなツインテールが、しかし可愛らしくてよく似合って見える。
儚げなのに確かにそこに存在するその姿は、まさに雫の浴衣を彩る朝顔のようだった。
「そうだね……でも、ここからだとよく見える。穴場だったかもね」
翻って、澪はそう微笑した。
桜の浴衣は、普段さほど華やかな服を着ない澪を艶やかに飾っている。
いつまでも咲いてくれと願うくせに散り際の光景に目を奪われる。そんな桜への矛盾した想いを受け止めてくれるみたいだ、と思った。
「ここ、実は昔からよく来てたんだよ。父さんにも内緒の、秘密の場所。まぁ……見つけたのは俺じゃなくて美緒なんだけどさ」
「ふふっ、そーなんですね。そんなところ……私たちに教えちゃって、よかったんですか?」
「教えたかったんだよ。ここで二人と話したかった。だから、ごめんな。花火はまだ続くし、夏祭りは花火が終わってからの方が本番だからさ。ちょっとだけ時間をくれ」
くしゃっと頭を掻き撫でて言うと、雫はふっと微笑んだ。
「いーですよ。これが終わらないと、一緒に回っても楽しくないですもんね」
「あぁ……そう、だな」
「その代わり! 終わったら一緒に夏の最後の思い出、作ってくださいね」
「終わったときに雫がそう言ってくれるなら、必ず」
夏の終わりには、季節としてはまだ早いのかもしれない。
今や9月ですら夏だと思えるほど暑いのだ。8月中旬なんて、ちっとも夏の終わりじゃない。
けれども――今日で明確に終わるものがある。
ならそこに『夏の終わり』っていう題をつけるくらい、いいじゃないか。
「それで……百瀬。話って、何を話すの?」
澪はそう、話を進める。
こくと俺は頷き、昏い朱色の大空を見上げた。
太陽の光で輝かなくて済む月は、朔の姿でだけ月そのもので在れる。きっとこの日の太陽と月は、お互いに仲良しだろう。
「あぁ……そうだな。まずは何から話そうか。話したいことも話すべきこともあるはずなんだけど…………こういうの、慣れてなくて。すまん」
「なら先輩。一つ話してほしいことがあるんですけど、まずそれを聞いてもいいですか?」
ちょこんと手を挙げる雫。
あぁと頷くと、雫は、
「先輩とお姉ちゃんの“関係”を、聞かせてくれませんか?」
「……っ」
そりゃくるよな、という質問を口にした。
核心に迫るほどど真ん中ではなく、かといって遠回りだと思えるほど婉曲的でもない雫らしい問いに苦笑する。
この場に呼んだのは、俺たちの“関係”を終わらせるためで。
なら俺と雫の恋人という“関係”と同様に、俺と澪にも“関係”があると考えるのは当然だ。
「何となく、察してはいます。二人のことが私大好きですから。けど……先輩とお姉ちゃんの口から聞きたいです。二人と二人と二人から、三人になるために」
「しず、く……」
澪が小さく、消え入るように呟いた。
俺はそんな澪と目を合わせ、こく、と頷く。
奇しくも、雫は俺と同じことを思っていた。
三人になるためには、それぞれの“関係”をきちんと明かさなきゃいけない。秘密があってはいけないとは言わないけれど、フェアではあるべきだ。
俺と雫が恋人で、雫と澪が姉妹で、じゃあ澪と俺は?
その答えは説明すべきだから、昨日の夜、美緒の気持ちを看破した澪に聞いたのだ。
『なぁ澪。明日で終わりにするために、明日からちゃんと始めるために。俺たちの“関係”を雫に話してもいいか?』
と。
澪は唇をきゅっと引き結んで、了承してくれた。
但しセフレ関係のことは口にしない、という条件付きだったけれど。
「分かったよ。話すから聞いてくれるか?」
「はい……お願いします」
三人で話をするために、まずは二人の話をしよう。
その後に――卑怯な一人の話をしなくちゃいけないのだから。
◇
吶々と、俺は澪との“関係”を説明した。
俺と澪は中学校が同じで、当時からそれなりに知り合いだったこと。
澪が美緒に似ていて、俺はそんな澪に惹かれたこと。
そして――澪に美緒の代わりを、妹の代わりをしてもらい続けていたこと。
いざ話してみると、酷く醜くて間違った“関係”を押し付けていたのだ、と自覚する。
雫はうん、うん、と幾度も頷いて。
澪はただじっと、罪悪感に満ちた顔で立ち尽くして。
話が終わるのを待った。
「――と、いうことなんだ。すまん、急なことでよく分からなかったよな」
俺が言うと雫は、いいえ、と首を横に振った。
「私、二人に黙ってたことがあるんです」
「黙ってたこと……?」
「うん……実は、知ってたんだ。お姉ちゃんが先輩のこと、『兄さん』とか『お兄ちゃん』って呼んでるの。たまたま、聞いちゃったんだ」
「っ……雫、それは」
苦しそうに、澪が言う。
けれども雫は澪の手を握って、ううん、と澪の言葉を続けさせなかった。
「責めてはないんだよ。むしろね、二人が仲良くなってくれて嬉しかったの。先輩、覚えてますか? 前に私が、先輩に好きですって言ったときのこと」
「公園で話したときの、だよな」
「はい。あれ、どうしてあのタイミングで、って思いませんでしたか?」
えっ、と思う。
唐突な質問に戸惑うけれど……なるほど、確かにそう考えなかったかと言えば嘘になる。
「あのとき、私は二人が仲良くなれたらな、って思ったんです。二人が一緒にいても大丈夫なように、私が二人に“理由”をあげられたならな、って」
「そう、だったのか……」
「でも――少しして、『兄さん』って声が聞こえてきて。もうとっくに二人は固い絆で、私が知らない“関係”で結ばれてるんだなって思ったら、嬉しさよりも寂しさが勝っちゃって」
臆病風みたいな、夏の涼風が雫のツインテールを揺らす。
澪は雫の手をぎゅっと握って、後ろめたそうな顔をしていた。
私は、と続ける雫の声は、紛れもなく潤んでいた。涙に、濡れていた。
「あの体育祭の日、ズルをしました。あんな風にすれば先輩は突き放さないだろう、って。お姉ちゃんとの“関係”がどうだろうと、私とも“関係”を作ってくれる、って。そう分かってて、あの日、先輩を連れて行ったんです」
借り物競争のときの雫を思い出す。
そうか……あのときの雫は、そんなことを考えていたのか。
ごめん、と口にしようとして。
それよりも先に澪が言った。
「雫……っ、ごめん。雫はズルくなんかないよ。ズルいのは、私なの。雫と百瀬が付き合ったら、もう『好き』っていう気持ちを言えなくなっちゃうから……ッ。だから私は、『好き』って言うための“理由”を、雫に内緒で作ったの」
「お姉、ちゃん……」
「ごめんね。雫に嘘ばっかりのお姉ちゃんでごめん。隠し事ばっかりの、ダメなお姉ちゃんで……ごめん。雫が『好きな人がいる』って教えてくれたとき、『私も』って、ただ一言言ってあげることができなくて……っ、ごめんねぇ」
――だからこそだよ! 雫は世界で一番大切な妹だからっ! この瞬間を逃したらもう、私は何もできない! あなたに『愛してる』って言えなくなって、関わり続ける理由すら失くしちゃうのッッ!
澪の、切実な叫びが脳裏をよぎる。
あの日犯した罪は、何をどうしても消えない。無理やりだったけれども確かに三人だったはずの俺たちは、あの日、二人ずつに切り分けられてしまったのだ。
否、切り分けたのは俺自身。
俺が間違いを犯したから――雫と澪が傷ついている。
自覚的に傷つけて、それでもそこにいてくれるならいいんだ、なんて開き直って。
もうこんなのは、やめなくちゃな。
「雫、澪……今まで、ごめん。二人は悪くないんだ。二人はちっとも悪くない。だって全て、俺が“関係”を二人に押し付けたのが悪いんだから」
言うと、二人はこちらを見つめた。
雫は泣き腫らした顔で、澪はまだ涙を流さずに。
姉妹なのに似ていない二人は、正しく姉妹らしかった。
「でも――もうそういうのはよくない、って思った。“関係”を押し付けて、『好き』って気持ちを見ないふりして。そんなのはもう、やめたいんだ」
俺はさ、と続けた声は少し掠れていた。
「怖かったんだよ、大切な雫や澪を失うのが。でも『好き』って気持ちにどうやって応えたらいいのか、まだ分からなくて……」
二人に向ける気持ちは恋心か?
分からないんだ、それはまだ。だって“関係”を貼りつけることでしか二人と関わってこなかったから。
綾辻雫と綾辻澪ではなく、後輩や恋人、セフレや義妹とだけ話をしてきたから。
「二人との“関係”に名前をつけて。『好き』に応えなくとも二人が離れないように縛り付けたんだ」
二人は何も言わない。
失望しているだろうか。いや、きっとこんな俺の醜さはもうとっくのとうに見抜かれていることだろう。その上で一緒に間違ってくれたんだと思う。傷付きながら、それでもなお。
「だからこそ、もう遅いかもしれないけど……こういうのを、終わりにしたいんだ。雫との恋人っていう“関係”も、澪との義兄妹っていう“関係”も終わりにしたい」
一泊置いて、続けようとして。
澪は、どうして、と心底分からなそうに言った。
「ねぇ百瀬――どうして、終わりにするの?」




