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四章#30 二日目

「――ぱい! 先輩ってば!」

「ん……んん?」

「起きてくださいよ、先輩! 朝ですよー」


 ゆさゆさと体を揺さぶられ、俺はようやくぼやけた頭のまま覚醒した。

 まだ朧げな視界を、ごしごし目をこすることで鮮明にしようとする。口元が気持ち悪くて手で拭うと、案の定、かぴかぴな涎の跡が少しついていた。


「ん……えと、雫か。おはよう」

「おはようございます先輩。ふふっ、酷い顔ですね~!」

「うっせ。寝起きなんだからしょうがないだろ」


 昨日は何時まで起きてたっけ?

 少なくとも2時までの記憶はある。何度も何度も美緒が書いた物語を読んで、なかなか寝付けなかったはずなのに。

 ……それでも気付けば熟睡なのだから、人の体ってやつは信用ならない。


「寝起きって……まったくもう。先輩は今、何時だと思ってるんですかー?」

「何時……。え、もしかして昼間とか? すまん、そういうことなら――」

「7時です」

「あー、朝ご飯か。なんだよマジびびったじゃねぇか」

「てへっ。というか、よく朝ご飯だって分かりましたね」


 まぁそれは経験則から分かる。

 こっちでは大抵、8時になるかならないかくらいになって朝食を摂る。食べ終わって少しゆっくりした後、祖父ちゃんは海まで行く。それまでに身支度を済ませ、祖父ちゃんについていくのがお決まりのパターンだ。

 そうじゃなくとも、この時間に起こして来たら朝食かなって思うだろうし。


 と、少なくとも一般論に照らし合わせて考えることができるほどには目も覚めているらしい。

 くふぁぁと欠伸をしながら体を伸ばすと、枕元に置いてあった『ブルー・バード』がかさりと動いた。


「先輩、これ読んだんですよね?」


 恐る恐るといった感じで聞いてくる雫。

 昨晩のことを思い出すと情けなさで胸がいっぱいになるが、今はそれを言及していてもしょうがない。

 あぁ、と俺は頷いた。


「うちの妹は天才だった。うん、紛れもなく天才だ。あいつは小説家になれる」

「うわぁ……朝からシスコンが酷いんですけど。そんなんでよく今まで私に隠せてるつもりでいましたね」

「むしろ逆だっつーの。雫にバレてるって分かったから隠すのをやめたんだ」

「へぇ。それはいい心がけですね。嘘も秘密も女の子の専売特許ですし。私に通用するなんて思ったら大間違いですもん」


 えっへん、と雫は胸を張って見せた。

 そうだなと適当に流すと、雫は作ったようなムスッとした顔になり、すぐに破顔する。


「で、先輩! その本はどんなお話だったんですか?」


 努めて明るい口調で、雫は尋ねてきた。

 気遣わしげな視線に大丈夫だと笑って見せ、雫の質問に答える。


「基本はタイトルの通りだな。『青い鳥』をベースにオリジナルの要素を入れたり、絵本や童話にするよりも心理描写を多めにしたりしている」

「ふむふむ」


 期せずして俺が文化祭のために書く脚本と美緒がかつて書いた物語は、同じような形態になっている。これも何かの運命なのかもしれない。

 ……未だにプロットは空白のままなので、そもそも同じもくそもないけど。


「心理描写とか情景描写はやっぱり凄かった。きっと文豪になれるベストセラーどころかミリオンセラーになって、日本文学の歴史を変えるほどの――」

「分かりましたから! 先輩がシスコンだってことはもう、じゅーーっぶんに伝わりましたから!」

「いや俺がシスコンだとかそういう話じゃなくてだな……」


 美緒の書く文章は、とても小学三年生とは思えないほどに美しかった。

 身内贔屓抜きで思う。きっとこういう子が物語と関わる仕事――作家とか編集者とか、或いは他の何者か(クリエイター)になるのだろう、と。


「じゃあ、ラストも本家と同じだったんですか?」

「いや違う。最後の最後で、どんでん返しがあった」

「どんでん返しですか」


 本家の『青い鳥』では、最後に旅が夢であったと判明する。いわゆる夢落ちエンド。そして目を覚ますと、家の鳥籠に青い羽の鳥――即ちハトがいる。

 本当の幸せは、すぐ近くにある。

 そう示唆して『青い鳥』は終わる――が、『ブルー・バード』はその限りではない。


「聞きたいか?」

「むぅ……そのドヤ顔むかつくんですけど」

「いやぁ、だって最後が本当に凄かったし? 『青い鳥』だけに鳥肌立って、何度も読み返したし」

「むっっっかつきます!」


 雫がずんずんと地団駄を踏んだ。

 腫れ物に触れるような空気が霧散する。雫はぷんすかと怒るみたいな素振りを見せて続けた。


「そーゆうことなら私に貸してください! 自分で読んで確かめます」

「そうこなくっちゃな」


 物語を読む人間なら、ネタバレを待つのではなく、自ら読んで確かめるべきだろう。

 それは俺たちが付き合う前――先輩と後輩だったときから続いてきた、俺と雫の関わり方で。

 そう来ると思っていたから、俺は『ブルー・バード』を雫に手渡した。


「なるべく早く返しますね」

「そうだな。まぁ急がなくてもいいよ。但し折り癖つけたり汚したりしたら絶対に許さん」

「目がマジすぎるんですけど……いや気持ちは分かりますけどね?」


 くすくすと、苦笑交じりに雫が笑った。


 じゃあいきましょうか。

 そんな風に雫に言われ、俺は自分が目覚めたばかりだと思い出す。立ち上がってぐぐぐーっと伸びた。


「一つ、聞いてもいいですか?」

「ん。どうした」

「妹さんのこと――乗り越えられましたか?」


 とっぷんと深い夜みたいな声だった。

 昨日の俺を見て、そう言ってくれてるんだろう。

 うん、とはっきり言えたらよかった。昨日あんな風に寄り添ってもらったんだから、胸を張って『乗り越えたよ』って克服出来たら。

 けど――そもそも、昨日のアレは乗り越えるためにやったことじゃない。

 乗り越えるんじゃなくて、向き合うためなんだ。


「そう簡単に乗り越えられるようなかっこいい奴だと思うか?」

「ふっ……ですねー。先輩はかっこ悪くて情けなくてどーしようもない人ですし」

「ちょっと? その言い方は泣くよ?」

「昨日みたいに?」

「昨日はギリ泣いてねぇから!」


 そうだ、誓って泣いてはいない。

 顔がぐしゃぐしゃなのは、涎の跡だけのせいだから。




 ――『ブルー・バード』のラストは、こう終わる。

 実はミチルには兄はいなかった。それまでの描写で、実はそれをにおわせるような伏線が無数に敷かれているのだ。

 そして最後の最後――ミチルに兄ができる。養子としてチルチルがやってくるのである。そのことを知らされていたミチルの不安と期待が、チルチルとミチルの夢を繋げた。

 ミチルにとっての本当の幸せとはチルチルがいてくれることなのだ、と。

 そんなオチで、終わるのだ。



 ◇



「四人は今日海に行くんだよなァ?」


 朝食中。

 祖父ちゃんがぐいっと生卵を飲み干してから聞いてきた。


「うんそうだよ、祖父ちゃん。あと時雨さんから聞いてると思うけど――」

「おう、聞いてるぞォ。友達がくるんだろ?」


 時雨さんは抜かりなく伝えてくれたみたいだ。

 こくりと頷くと祖父ちゃんは、それじゃあァ、と続けた。


「いいもんがあるから楽しんできィ。俺ァ海の家にいっからな」

「うん、ありがと」


 いいもん、ね。

 バナナボートかスイカか、それともまた別のものか。海の家っつうとなんだろう? はてと首を傾げて考えつつ、祖母ちゃんが用意してくれた朝食を味わう。澪はここでも祖母ちゃんから料理を教わっていた。和食に対してはマジで抜かりねぇよなぁ。


 なんて考えていると、父さんが真剣な顔でこちらを見つめていることに気付く。

 何を考えているのかは分からない――と惚けても意味はないだろう。ちゃんと分かっているし、雫や澪、時雨さんも察している様子がある。


「父さんたちは今日、行くの?」


 どこに、とは言わないけれど。

 それだけで父さんは汲み取った。


「あぁ行く。今日洗って、迎える準備をしなくちゃいけないから」

「そっか」


 その声は微かに震えている。義母さんが父さんに心配そうな視線を向けるのを見て、父さんもまだ辛いんだろうな、と気付いた。

 いくら理屈をこねて、死を受け止めて乗り越えられたとしても、ズキズキと痛む気持ちを隠せはしない。その痛みは消えることはなく、どんなに現実を受け止めても付き合い続けなくてはいけないのだろう。


「俺は……ごめん。今日はいけないけど」

「うん」

「明日は、ちゃんと行くから」

「っ……友斗!」


 嬉しそうに、泣きそうに、パァと父さんが笑った。

 義母さんが慈悲に満ちた女神のように微笑む。くすぐったくて視線を逃がそうとしても、雫や澪、時雨さんと目が合ってしまって上手くいかない。


「ちゃんと行こうな、友斗」

「……うん」


 8月12日――お盆一日前。

 頭の奥を、チリチリと夏が弾けた。

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