四章#29 月の雫が、ぽろり零れて。
流石に大河も長い間外にいるつもりはないようで、コンビニから出てすぐに、今日はひとまず別れることになった。
別れ際、『また明日』という言葉を口にしたのは雫だけじゃなかった。大河もそうだし……俺も、そう言えた。そのことが少し誇らしい、なんて言ってしまうのは、些か自分を褒める基準が低すぎるかもしれないけれど。
アイスを買って帰ると、まだ父さんたちは飲み続けていた。悪酔いして空気が悪くなるようなら止めようとも思っていたが、見た感じ酒に飲まれてはいなさそうなのでやめた。健康? 知らん。強く生きて。
ともあれ、そうなってくると俺たち子供は居場所に困る。
流石に酒臭い&酔っ払いに絡まれるかもしれない場所でアイスを食ってまったりすることはしたくない。
そんなこんなで、俺たちは四人揃って縁側に向かうことにした。
8月11日。
空を浮かぶ月は半月よりもやや細く、新月にほど近い。朔望という言葉が頭をよぎるのに、それでもなお照らし出してくれることが不思議と嬉しく思えた。
ちりんちりん、と風鈴が踊る。
俺はカップアイス、雫と時雨さんはソフトクリーム、澪はアイス最中をお供に涼を感じていた。
……なんか綺麗な感じに表現したつもりだけど、澪がアイスにまで和を見せている方に気を取られたな。
手始めに大河がいたことを話すと、時雨さんは、あー、と納得したように言った。
「入江っておうちはここの辺りじゃ有名だけど……大河ちゃん、そこのおうちの子だったんだ。知らなかったよ」
「ほーん……俺、入江なんて家聞いたことないけど?」
「それは意識してなかったからだよ。この辺りじゃ結構有名なところだから」
時雨さんがそう言うので、俺も少し記憶を遡ってみる。
入江、いりえか……。
言われてみれば聞いたことがある気がする。夏祭りの協賛とか、そういうのでアナウンスされていたんだっけ? 朧げだが、まぁ凄い家ってことだ。
「へぇ……ならよかったです。これで大河ちゃんとも夏休みを満喫できますもんね~」
「ああ、そうだな。俺たちが義兄妹だってことはバレたけど……大河なら問題ないだろ」
「あはは……。フラグ回収の速度には引いたけどね」
「それは言ったら負けだから!」
もはやあんなのフラグ回収ですらなかったとすら思うし。
俺がツッコむと、けらけらと可笑しそうに三人は笑った。
笑い止んだところで、ぺろりとソフトクリームを舐めた時雨さんが言う。
「それじゃあ明日は大河ちゃんも誘って海、ってことでいいのかな?」
「私はそれがいいかなーって思うんですけど……お姉ちゃん、だめ?」
この中で唯一大河と少ししか関わっていない澪を配慮し、雫が尋ねる。
霞のような微笑を湛え、澪は首肯した。
「大丈夫だよ。雫の友達なら私も仲良くなりたいし……人は多いに越したことはないしね」
「お姉ちゃん……! ありがとーっ!」
「ちょっ、ダメだよ雫。アイスがついちゃうから」
「んふ~。そのときは舐めたげるからだいじょーぶ」
「大丈夫じゃないでしょ、まったくもう……」
澪に抱きつく雫と、満更でもなさそうな声を出す澪。
仲良し姉妹の二人を見ていると、心の奥がぽかぽかした。
「じゃあ時雨さん、そういうことで」
「うん。お祖父ちゃんには私から話しておくね」
「よろしく」
かくて、俺たちは五人で海へ行くことと相成った。
なお、大人たちは明日から別行動だ。これは前々から決まっていたことだが、ちょうどよかったな。大人と一緒だったら大河もいづらかっただろうし。
アイスをスプーンで掬って、もう何口目かも分からない甘みを味わう。
縁から食べ進めていったので、カップの真ん中には山ができている。山を崩しにかかるとアイスももうじき終わりに思えた。
昔からカップアイスが好きだった。
残すつもりはないけど、蓋ができるってだけで長く味わえるような気がしたのだ。あの頃は随分と短絡的で、世界をシンプルに見ていたと思う。
でも、きっと――。
あのときみたいにシンプルに見てもいいんだよな、この世界を。
残りのアイスを食べ終えて、俺は一足先に立ち上がった。
まだアイスを食べている三人に向けて、俺は言う。
「んじゃ、明日に備えて俺はもう寝るわ。今日は色々あって疲れたし」
「それがいいね。キミ、おやすみ」
「そーですね。私も食べ終わったら寝ようかな……おやすみなさい、先輩」
「おう、おやすみ」
時雨さんと雫にそう告げて、ふと澪と目が合った。
まだ寝ないんでしょ。
そう言われているような気がして、苦笑する。ごもっとも、まだ寝るつもりはない。
――だからこそ、俺は言った。
「綾辻も、おやすみ」
「……ん。おやすみなさい」
◇
昏い部屋。蛍光灯を点ける気にはなれなくて、手元を照らすことができるだけのテーブルライトを枕元まで持ってきていた。
時刻は夜11時。
三人と別れてもう30分ほど経っているのに、俺は一向に前に進めていない。テーブルライトに照らし出される本を見つめ、手を伸ばしては躊躇い、手を伸ばしては躊躇い、を繰り返している。
表紙に書かれた文字は――『ブルー・バード』。
表紙に描かれている青い鳥を見るに、童話『青い鳥』をオマージュした話なのだろう、と推測できる。
だからこそ、躊躇してしまう。
だって――『青い鳥』は兄と妹の話だ。
あるところに貧しい木こりの家族がいました。子供は二人。兄はチルチル、妹はミチルと言います。
二人は魔法使いから幸せの青い鳥を探すように頼まれ、様々な場所を旅します。
やがて二人は本当の幸せとは何か、見つけ出すのでした。
大雑把に言えばそんな話で。
じゃあ美緒は『ブルー・バード』をどんな物語にしたのか。
それも、推察できてしまう。
「あれ……先輩、まだ起きてたんですか?」
唇を噛んでいると、そんな声が聞こえた。
顔を上げると、暗闇の中から見覚えのある姿は浮かび上がる。
「まぁな。そっちはどうしたんだ?」
「えっと……別に何か用事があるってわけじゃないんですけど。先輩、どんな顔で寝てるかなーって」
「…………夜這い?」
「人聞きの悪いこと言わないでください! 先輩のえっち! 変態!」
「ひっでぇ……寝顔覗こうとしてた奴に言われたくないんだよなぁ」
えへへと惚けるように笑い、雫はこちらまできた。
そしてテーブルライトが照らすものを覗き込む。俺は咄嗟に隠そうとして、その方が不自然だと思い、やめた。
「んー? 先輩、それって……あ。もしかして妹さんのですか?」
「えっ」
――妹。
あっさりとそう告げた雫に、俺は驚いて声を漏らす。
暗い中でパチパチと瞬いた。
「えっと……どうして?」
「どうしてって、ここに書いてあるじゃないですか。百瀬美緒、って」
雫は言いながら、表紙に書かれた作者名を指さす。
至極ごもっとも。表紙に名前が書いてあるのだから分かって当然――なわけがない。
「そうじゃなくて……知ってたのか。俺に妹がいたって」
つまりは、そういうこと以外になくて。
雫は少しばつが悪そうにしながらこくりと頷いた。
「当然じゃないですか。私、先輩と同じ小学校なんですよ? ということは、妹さんとも同じ小学校です」
「それは、そうだけど……」
「今まで言わなかったのは、先輩は考えたくないのかなーって思ったからです。まだ辛いんだろうなーって」
雫は隠し事を咎めるわけではなく、むしろ慈悲に満ちた口調で告げた。
でもね、とそっと壊さぬように続ける。
「けど今、思ったんです。あぁ、きっと先輩は乗り越えようとしてるんだなぁ、って」
「っ」
「だから――お話、しませんか? お泊まりと言えば、夜更かしして秘密の話をするものですし」
雫の言葉は――お月様の雫みたいに、胸に染みた。
話、か。
美緒の話……いつか、澪にもそうねだられたっけ。
「いい子だったんだよ」
「はい」
「とっても、いい子だったんだ。俺よりもずっと才能があって、かっこよくて、ブレない軸を持ってて」
「そうですね。私も、一つ下の学年にとっても頭がいい子がいる、って聞いたことがありました」
「だよなぁ。そうなんだ。学校でも噂になるくらい、凄くて。けどあの子は不器用だったから、俺が守らなくちゃ、って。そう思ってて」
「でしょうね。先輩、そーゆう縁の下の力持ちとか好きそうですもん。『俺は輝けないけどあの子なら』的な厨二マインド、乙です」
「ふっ……本当だよな。今から考えたら、ほんとに厨二臭くて、ガキだった」
それからもたくさん話す。
自分のことじゃないのに、美緒のことを誇らしげに語った。
勉強は俺よりもできて、けど運動はできなくて。
頑張り屋さんで真面目で、ちょっと融通が利かなくて。
友達を作るのは苦手なタイプで、本を読むのが好きで。
「もしも美緒がさ……美緒が生きてたら」
「はい」
「絶対雫と仲良くなってたんだ。趣味が合うところばっかりじゃないし、似てないところもたくさんあるけど……絶対仲良くなってたんだ」
「そうですね。妹ヒロインと後輩ヒロイン。ケンカしつつも、一番仲よくなる組み合わせですもん」
それはありえもしないIFで。叶うわけがないパラレルで。
でもさ――いいじゃないか、妄想したって。
「美緒がいて、雫がいて、綾辻がいて、大河がいて。五人で一緒に話したかった。時雨さんも入れて六人で、アイスを食べられたら良かった」
「それは……楽しそうですね。美緒ちゃんは何を食べるんですか?」
「美緒は雪見大福……じゃ、夏はダメだな。なら俺とパピコを分けるよ。それで、蓋のところのアイスを食べてて、美緒が叱ってくるんだ。お行儀悪い、って」
「はい」
「そしたら今度は大河が言ってくる。二歳も下の妹に叱られてどうするんですか、って」
「先輩、怒られてばっかりですね。ダメな先輩です」
「……だな」
話して、話して、話して。
みっともなく話して、醜く話して。
それでも雫は全部受け止めてくれて――そして気付くと、もう躊躇いはなくなっていた。
「雫……俺、どうしても夜更かしして読みたい本ができた」
ありがとう、とその言葉に詰め込んだ。
一人で約束を果たしきれる、かっこいい奴じゃなくてごめん。
雫は、そうですか、とだけ呟く。
「じゃあ私はもう寝ます。本当は私もお話をしたかったですけど……それは今度で」
「ああ――夏祭りの日、話そう」
「……っ。分かりました。楽しみにしてますね」
そして、今度こそ昏い部屋に一人っきりになった。
夜0時半。美緒なら『夜更かししたらダメだよ』って怒るな、と思った。
でもしょうがないだろ。美緒が書いた物語なんだ。
最初で最後の、美緒が心を込めて――想いを込めて書いた、物語なんだ。
そうしなくちゃ、向き合い始めることすらできないから。