四章#19 待ってて
暑い中遠出をするような気力は、俺はもちろん雫にもなかった。
元より近場にはそれなりに利便性の高い街があるのだ。わざわざ渋谷だの原宿だのと人が多いところに行く必要はないだろう。
そんなこんなで俺たちは例の如く武蔵小杉までやってきていた。
ショッピングセンターに入ると、キンキンに冷えた空気が肌をきゅっと引き締めてきた。僅かに滲んでいた汗のおかげでスーっとしていて、心地いい。
文明の利器、万歳。
そう思いながらエスカレーターに乗っていると、雫が、あの、と聞いてきた。
「そういえば先輩。私なんとなくしか聞いてないんですけど、お義父さんの実家ってどんなところなんですか? 海がある、とは聞いてましたけど」
「あー、そうだな。どんなところって言われると説明に困るが……」
父さんの実家は海沿いにある観光地だ。
とはいえ大人気と呼ぶほど賑わっているわけでもないし、海以外に特別なものもない。
「まぁあれだ。普通に海辺の街だぞ」
「んー。ってことは、ノベルゲームに出てくる合宿イベントみたいな場所ですか?」
「喩え方が色々思うところはあるが……まぁ、そうだな」
最終日には夏祭りもあるし、あながち雫の喩えは間違っていない。
「人も多いわけじゃないし、結構穴場だからな。それなりに楽しい帰省になると思うぞ」
「ふふー、それは楽しみです。そのためにも今日はしっかり水着を選ばなくちゃですね」
「あー……うん、そうだなぁ」
キラキラな笑顔を浮かべる雫。
俺がそっぽは少し遠い目になり、あはは、と枯れた笑みを零した。
水着選び……水着選びなぁ……。
これは俺の持論だが、水着と下着には本質的な違いがないと思う。水着を選ぶということはつまり、下着を選ぶことと同義ではなかろうか。
下着を選ぶといえば、四月末の買い物が頭をよぎる。あのときの気まずさといったら、今でも思い出すのは容易い。
「な、なぁ雫。水着ってあれだよな。スポーツショップに――」
「水着のお店に行きたくないのは分かりますけど、それはそれでどうなんですか? 彼女に競泳水着を着させる方がよっぽど変態だと思いません?」
「……それは確かに」
「分かったら大人しく私に連行されてください。どうせ一緒に海に行くんですから」
水着ショップがあるフロアに到着すると、俺の手をグイっと引っ張った。
もう一つ上に行けばスポーツショップがあるんだが……雫の言う通り、競泳水着の方が遥かに変態な感じがするので観念する。だいたい、雫のスタイルじゃ競泳水着みたいな水着は合わないしな。
……いや合わないっていうか、合うけど刺激がアレというか。
「先輩。どーかしたんですか?」
「……なんでもない。早く行こう」
「ふふっ。先輩の~、お顔が真っ赤~♪」
「歌うな馬鹿!」
セフレがいたからってそういう話に免疫があるかと思ったら大違いである。
腕を組まれたときに感じる柔らかさに悶々としながら、俺は雫に連行されていった。
◇
「そういえば」
店に着くと、案の定既に何人も客がいた。ほとんどは女性客だが、なかにはカップルらしき客もおり、余計にドギマギさせられる。
水着を見始めようとする雫に対し、今更なことを俺は言う。
「そもそもの話になるけど。わざわざ水着を買い替える必要ってあるのか?」
「えっ……?」
「ほら。雫、前に友達とプールに行ったって言ってただろ」
「あー」
俺が言うと、雫もそのときのことを思い出したようだった。
流石に去年は雫も周りも受験生だったので遠慮したみたいだが、その前の雫は友達と近所のプールに行ったりしていた。そのときの写真なんかを唐突に送ってくるものだから、その度に対応に困ったものだ。
「それともあれか。水着にも年によって流行りとかあるとか? 俺にはよく分からんけど」
「え、まぁ。確かに水着にも流行りがありますけど……今日買いに来たのは、そーゆう理由じゃないです」
「ほーん。ならどんな理由?」
何の気なしに俺が聞くと、雫はジト目を返してきた。
ツンと唇を尖らせ、
「それを私に言わせるとか、先輩ってさいてーですね」
と呟いた。
…………あー、何となくその反応で分かったわ。
視線は、ついつい雫の胸元に引き寄せられてしまう。なるほど、確かに一昨年とはどう見てもサイズが違う。それどころか去年よりも大きくなっているだろう。
「先輩、見すぎです。お姉ちゃんに連絡しましょうか?」
「べ、別にやましいことを考えてたわけじゃなくてだな……単にそうだよなーって納得してたんだよ」
「ヘー。ソーナンデスネー」
「棒読みヤメテ?! つーか、水着選びに誘ったのはそっちだからな? 雫みたいな美少女相手なんだし、そういうことを考えちゃうのはしょうがないだろ」
俺が開き直って言うと、雫の頬に朱が差した。
ぽっ、と耳の先がいちごみたいに赤くなる。緩んだ頬のままそっぽを向き、ふぅん、と雫は言った。
「まぁ? 私が美少女なんてこと分かってますし、不意打ちでキュンキュンしてたりしてないですし? むしろ普段から先輩はもうちょっと褒めるべきと言いますか、その……」
「お、おう……よく分からんが、とりあえずそのぶつぶつ喋るのやめないか? ちょっと店員さんの視線が痛い」
「~~っ! 誰のせいだと思ってるんですか! 先輩のあんぽんたん!」
「あんぽんたんとか、久々に聞いたわ……」
ふん、と頬を膨らませつつも雫は水着を選び始める。
俺はその隣に立ち、なんとなく選んでいる感だけ出しておくことにした。いやほら、水着選んだとして、それを雫に着られるのも変な感じするじゃん? どうせ雫は参考意見を聞きたいだけだろうし、こうして立っておくのがベストである。
気分アレだ。SPだ。
こちら百瀬友斗。警護対象、赤の水着を取りました。流石にないよなぁって感じで笑ったあとに戻し、今度はワンピース型を見始めております。露出控えめですが、あれはあれで充分……。
と、俺は何を考えているんだろうか。
ここ最近気が重くなることが多かったせいか、ちょっとはっちゃけすぎている気がする。或いは、雫はそういうことも考慮して誘ってくれたのかもしれないな。
あー、なんかその説が強い気もしてきた。
だって相手は雫だ。七夕フェスのとき、俺と大河の仲を心配してくれるような素敵な女の子。俺の様子を見て誘ってくれたんだとしても何もおかしくない。
「……ん? 先輩、どーしたんですか?」
「えっ、あ……いや。どうして俺を誘ったのかと思ってな」
誤魔化すことでもないだろうと思い、素直に聞いてみる。
雫ははてと首を傾げ、ぽつりと答えた。
「そんなの先輩に水着を選んでほしかったからですけど。他に理由あるんですか?」
当然だろ、と言うように。
いや『ように』ではなく、そのまんま顔が物語っていた。
他に理由などない。水着を選んでほしかった、という読解力も深読み力も必要としない理由を雫が口にした。
「なーんて。先輩には分からないでしょうけどねー♪」
「っ。言うじゃねぇか」
「じゃあ分かるんですか? 私の気持ち」
「それは……そうだな。じゃあ雫。これが終わったら俺の水着を選んでくれよ」
「うわっ、もう全然分かってないじゃないですか~」
まぁそれでもいいですけどね。
そう、雫は口の端を上げながら言った。
そして水着選びに戻る。俺はその横に立ちながら、聞こえても聞こえなくてもいいような声で呟く。
「いつか……分かるようになるから」
「うん、待ってる。待ってますよ、ずっと」
その声が帯びていた熱は、夏の暑さのせいなのか。
それとも別の何かなのか。
それは、今の俺にでも分かった。