四章#17 変われるか、変われないか
SIDE:友斗
気付けば眠っていて、そして俺は目を覚ましていた。
眠る前、何を思っていたのかは覚えていない。シクシクと心が軋んでいたことだけは、目覚めの悪さのおかげで思い出した。
朝食を皆で食べて、帰り支度をして。
あっという間に帰る時間はやってきた。昨日は暇だと思ったものだが、いざ過ぎ去ると『あっという間』と形容しているのだから人間ってのは随分と都合がいいよな、と思う。
「またいつでも来ていいからね~。澪ちゃんも、今度は別の料理を教えたげるから」
「はい、ありがとうございます。また来ますね」
「綾辻が馴染みすぎなんだよなぁ……まぁ、俺もまた来るよ。ありがと、祖母ちゃん」
そうして別れの挨拶を済ませて帰ろうとしていると、最後に一花たち三人は俺を引き留めた。三人とも真剣な顔をしており、何やら大切な話なんだと分かる。
澪や父さんに目で合図をし、二人には先に行ってもらうことにした。
「じゃあ先行こうか、澪ちゃん。友斗も遅れるなよ~」
澪と父さんを見送り、祖母ちゃんが家に入ったのを確認する。
それが終わってから三人の方を向くと、まずは一花が口を開いた。
「ごめんね、ゆー兄。昨日三人で話して……どうしても言っておかなきゃって思ったの」
こくこく、と二葉と弥生が頷く。
よく見ると三人とも、目元が少し腫れぼったい。もしかしたら言い争いをしたのかもしれない。そう思ったら胸が痛む。
夏に、一度っきり。
それだけしか会えない従兄の俺に対して、そんな風に真っ直ぐ関わろうとしてくれる三人の気持ちが嬉しかった、
「そっか。いいよ、聞く。教えてくれ」
優しく笑うと、三人はほっと息を零した。
顔を見合わせてから、まずは弥生が一歩前に出る。そのまま何かを言おうとして、でもすぐにやめた。まるで何かを怖がるように。
「一緒に言お?」
「お姉ちゃん……うん」
二葉が弥生の手を取って、ぎゅっと握る。
――ああ、羨ましい
一瞬だけ頭をよぎった醜い感情を押し殺して、俺は拳を握る手に力を込めた。
「あのね、ゆー兄……みー姉はね――」
――✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕
二人の言葉に、ノイズがかかる。
ざー、ざー、ざー、と。でも二人が何を言っているのかは分かってしまう。それこそが、俺が自覚的に逃げている証拠だった。
いいや、きっと。
俺は本当は、逃げられてすらいない。にっちもさっちもいかなくて、どうすればいいのかも分からなくて、ただずっと怯えて震えているだけなのだ。
「――だからゆー兄は、誰かを好きになってもいいんだよ。澪さんでも、他の人でもいいけど……誰かを好きになって」
ノイズがなくなったとき、二人はそう言っていた。
不安そうで一生懸命なその表情を見て、俺はまた自分の弱さを思い知らされる。
小さな子の勇気に報いることができなかったことへの申し訳なさがムクムクと湧き出す。きゅっと唇を引き結び、せめて上っ面だけは、と作り笑った。
「ありがとう。心に染みたよ」
一花、二葉、弥生。
三人の頭を撫でて、俺は言う。
嘘ではなかった。心に染みたのは本当だ。傷口に塗る消毒液みたいな、そんな風な染み方だったのだけれども。
「俺は行くから。ありがとな、三人とも。またなんかあったらRINEくれよ。なるべく返信するようにするからさ」
三人は、うん、とか、分かった、とか返事をした。
どんな顔をしているのかを確かめるのは怖かったから、すぐに歩き出す。
またな、と言い残して、俺は澪と父さんを追った。
◇
歩いてもすぐ追いつけそうにはなかったので、俺は早々に追いつくことを諦めた。
どうせ電車の時間は決まっている。このまま歩けば余裕で間に合うので問題ないだろう。念のため澪と父さんに連絡を取っていると、ふと大河とのトーク画面が目についた。
【ゆーと:今、空いてるか?】
あのプール掃除の日以来、大河とはマメに連絡を取っている。
日によって多かったり少なかったりはするが、大河は決して欠かさない。その律儀のおかげで俺は生活リズムを最低限保ってていると言えるかもしれん。
朝10時に送られてくる、おはようの挨拶。
今日はそれより些か早いが、トーク画面には既読の二文字がついた。
【大河:おはようございます。空いてますよ】
【大河:どうなさったんですか?】
どうした、か。
どうしたんだろうな。自分でも分からない。人がいないからって歩きスマホなんてすべきじゃないし、大河とメッセージのやり取りをするくらいならさっさと歩くべきなのに。
今は雫でも澪でもなく、大河の声を聞きたくなった。
……そうか、声が聞きたいのか。
【ゆーと:電話ってできるか?】
【ゆーと:今出先で、歩きスマホは気が引ける】
【大河:歩きスマホはやめてください。マナー違反ですよ】
ぷっ……ほぼノータイムでそれかよ。
つくづく大河らしすぎて笑える。言われた通りに立ち止まると、すぐにもう一通メッセージを受信した。
【大河:電話できます。少しうるさいかもしれないですが】
【ゆーと:了解。かけるぞ】
発信ボタンを押す。
とぅるるる、とぅるるる、とぅるるる。
三回分の発信音のあと、大河は通話に出た。
『もしもし……百瀬先輩ですか?』
「あぁ、もしもし。聞こえてるか?」
『聞こえてます。おはようございます』
「あ、おう。おはようさん」
なんだかんだ、電話をするのは初めてだ。
大河の口調はどこか堅苦しく、きっと慣れてないんだろうな、と思う。くすりと笑っていると、電話の向こうからコトコトと何やら物音が聞こえた。
「あー。もしかしてご飯作ってるのか?」
『あっ、すみません。聞こえましたか……?』
「まぁな。別に謝る必要はないぞ。俺が急に言い出したわけだしな」
ぐぅぉぉぉぉん、と横を駆動音が過ぎ去る。
電話をしてみたはいいけど、特に話題があるわけじゃないから。
えっと、とか。あー、とか。そんな意味のない言葉ばかりを続けてしまう。
『あの、百瀬先輩。何か話したいことがあったんじゃないんですか?』
「……はぁ。お前はほんと、一切躊躇せずに言ってくるよな」
『可愛げがなくて申し訳ありません。百瀬先輩のお気に召さないようなので切らせていただきますね』
「冗談だって! なんでそこで拗ねるんだよまったく……」
『そんなの――からに決まってるじゃないですか』
「ん? 悪ぃ、聞こえなかった」
『好きだから、って言ったんです! 少しはデリカシーというものを学んでください』
恥ずかしそうに、けどそんな台詞ですら真っ直ぐと言い切る。
クソ真面目っつうか、不器用なだけだよな。
そう思って、今は苦笑するだけに留める。
大河の『好き』を、きちんと受け取ることができないから。
『私だって、色々考えてるんですよ。好きだけど、でも雫ちゃんを悲しませたくはないですから』
「……うん」
『でも流石に、こう……百瀬先輩の行動にはたまにムカつけちゃうと言いますか』
「それは……うん、悪い。慣れてないんだよ、こういうの」
『まぁそうですよね。雫ちゃんは先輩の手を引いていけちゃう子ですし』
「そう、だな。雫には手を引いてもらってばっかりだ」
だからこそ、雫と関わることに“理由”はいらない。
でもそのままじゃダメだから、俺は恋人って“関係”を“理由”にした。今はそれが間違いだったのだと実感している、
なら俺は――
「大河が言ってた約束、本当に果たせるのか?」
果たすのは俺なのか、それとも大河なのか。
枝葉末節どれも分からない約束に縋って、情けなく聞いた。
『果たせますよ。だって百瀬先輩は……』
「俺は?」
ふっ、と電話の向こうで微笑が聞こえた。
『今はやめておきます。もう少し、ご自身で考えてみてください』
「先輩を試すとは、いい度胸じゃないか」
『百瀬先輩は試されるくらいの方が燃えるタイプの人じゃないですか』
「そんな体育会系じゃないんですけど?」
『そうでもないと思いますけどね』
くすくすと大河の笑い声。
なんだかその音に混じって味噌汁の匂いがした気がした。
『とにかく、です。百瀬先輩は大丈夫ですよ。百瀬先輩から教育を受けた私が保障します』
「……ありがとな」
『いいえ。これくらいなら幾らでも』
話しているうちに、駅が近づいてくる。
行きも帰りも、誰かと話す道のりはあっという間だったな、と思う。
「じゃあ、目的地に着いたから、これくらいで」
『はい。あ、そうだ。その前に一つ聞きたかったんですけど』
「ん、どうしたんだ?」
『えっと……百瀬先輩って、どんな水着が好きですか?』
「水着?」
また随分と急な話だ。
水着なぁ……夏といえば海やプールってイメージはあるし、大河も行くのかもしれない。
つっても俺、別に水着には詳しくないんだよなぁ。雫に聞くのが手っ取り早いと思うんだが。
「水着には詳しくないけど……大河の髪だと、地味めな方が似合うんじゃないか? かっこいい系だとそれっぽい気がする。知らんけど」
『なるほど……参考になりました。ありがとうございます』
「おう」
それじゃあまた。
そう言って、大河は通話を切った。
ぷつり、通話終了画面を一瞥してからスマホをしまう。
「水着、なぁ……」
父さんの実家の方に帰省したら、雫は海に行きたがるかもしれない。
……ちょっとサイズが合うか確かめておこう。太ってはないはずだが、筋肉は去年よりついてると思うし。