四章#10 ケンカ
「……やるか」
「はい」
プールに残されたのは俺と大河。
手元には二本のデッキブラシとバケツ、そして洗剤がある。なるべく大河には目を向けないようにしつつ、作業を頭の中でシミュレーションした。
「あの、百瀬先輩――」
「じゃあ俺はこっちから半分をやるから、入江はあっち半分からやってくれ。まずは縁とか、飛び込み台とか、プールサイドとか、その辺から。最終的に汚れを全部下に落として一気に流せばいいだろ」
「……分かりました」
大河と一緒に作業するのは嫌だから、あえて手分けをするように申し出た。
てっきり大河は突っかかってくるのかと思ったけれど、手分けしないと終わらないと考えたのだろう。ひとまず納得してくれた。
ほっ、と胸を撫で下ろし、大河に道具一式を渡す。
「頼んだ」
「……分かりました」
コピペみたいな返事はわざとなのだろうか?
気にかかるけど、俺に何かを言うことなどできない。だってそういう“関係”だから。
一応靴下だけ脱いで端に置き、俺は掃除を始めた。
◇
ギラギラと照りつける太陽は、薄っすらと濡れたプールをキラキラと輝かせている。思っていたより汚れは溜まっておらず、作業はサクサクと進んだ。
濡れてもすぐに乾くプールサイドは、足の裏をジリジリと焼く。いっそのことホースで一揆に水を撒いて涼みたいとも思うが、諸々の事情を考慮するとそうもいかない。
別に体育着が濡れる分には構わない。どうせ一学期はもう使う機会がないのだから、これが終わったら洗濯に出すだけだ。多少濡れたところで風邪を引くこともないだろう。
でも、と俺は遠くで掃除をしている大河に目を向けた。
スクール水着に体育着の上だけを着た大河は、とても綺麗だ。健全なエロさ、とでも言うのだろうか。ただのスクール水着よりも露出が少ないはずなのに、その瑞々しさや綺麗は増している。
そういえばと思い出す。
『可愛い子ランキング』の順位にはほとんど変動がなかったが、一人だけ順位を上げている奴がいた。
それが大河だ。
6位から同率4位に。
それはそこまで大きな変動じゃないかもしれないが、大河の良さを知る人が増えたことの証左であるだろう。
そんな子に好かれているという事実。
好いてくれているからこそ振るってくれた鞭を無碍にしてしまった現実。
それらがチクチクと責め立ててくるのだ。
「頭を冷やせ、か」
大河には聞こえないようにぽつりと呟く。
確かに俺は頭を冷やすべきなのだろう。けど頭を冷やして、その後にどうすべきなのかが分かっていない。
大河に謝って、それでどうなる?
どんなに反省しても、申し訳なく思っても、大河が言った通りにはできないのだ。
俺にはどうしても“理由”が必要で、“関係”がないと関われなくて。
それが面倒なタチだとは自覚しているし、どうしてこうなったのかも分かっている。
だがその話を大河にできるわけがないのだ。
だってそれは大切な秘密だから。
誰にも明かしてはならないことで。
ほぼ全てを見抜いた澪ですら気付かなかった、兄妹の話なのだ。
ごしごし、ごしごし、とデッキブラシでプールサイドをこする。
汚いところは洗剤とスポンジを使い、丹念に作業する。そうやって一度掃除に集中すると、余計なことを考えずに済んだ。
ごしゅごしゅ、ぎしぎし。
ちゃー、ぴちゃぴちゃ。
シュワシュワ弾けるサイダーみたいな音は夏っぽい。
もう何度も夏の始まりを感じているのに、それでもまだ、あぁ夏が始まったな、と思っていることが不思議だった。
夏休み、周りと差をつけろ!
そんな言説が広まるくらい、夏は何かを変える季節なのだろう。
だとしたら夏は嫌いだ。
俺は変わりたくない。何一つ、変えたくなんてない。
過去と今を離さないように。
俺はそれだけでいいんだ。それだけは、欲しいんだ。
「――ぱい! 百瀬先輩ってば! 聞いてますか⁉」
「うおっ……んだよ、びっくりしたぁ」
考え事をしていると、空高くまで飛んでいきそうな大声が聞こえた。
唐突なその声にびっくりして距離を取る。
声の主である大河は、腰に手を当ててムッとしていた。
「もう何度も話しかけたんですが。二人で協力して作業しているのにそうやって無視をするのは非常識だと思います」
「い、いや。別に無視したつもりはないんだ。ただ聞こえてなかっただけで」
「……そうですか。自意識過剰でした、すみません」
「いや、謝らなくてもいいんだけど、さ……」
距離感を掴みかねて、俺はくしゃっと髪を掻いた。
ふと冷静になると、もう随分作業が進んでいたことに気付く。プールサイドはもちろんのこと、プールの中も結構な面積を洗い終えていた。日も、それなりに傾き始めている。
――なんて。
大河以外に目を向けようと必死になっている自分に苦笑する。
こほん、と咳払いをし、俺は頭を切り替えた。
「で、入江はどうしたんだ?」
「まず、その入江という呼び方をやめてください」
「っ……別に呼び方なんて何でもいいだろ? どうして入江に指図されなくちゃいけないんだ」
あえて名前を強調して言うと、大河は一歩近づいてくる。
「他の人ならまだしも、私自身のことです。私が呼ばれたくない呼び名を拒否するのは当然じゃないですか」
「じゃあなんだ。先生から入江って呼ばれても拒否するのか?」
「それは人によります。大嫌いな人には下の名前で呼ばれたくなくとも、親友や好きな人には呼んでほしいって思うのは当然ですよね」
ああ言えばこう言う。
大河とのやり取りはいつも心地よかったけれど、今だけはやめてほしい。
ぎゅっと拳を握り締めた俺は、ふぅ、と息を吸ってから言い返す。
「なら言い方を変えてやるよ。俺と入江は仕事上の“関係”だ。上司と部下ってだけのな」
「……っ」
「そんな仕事上の相手と仲良しこよしをする義務はないし、呼び方を指定される筋合いもない」
ふるふると小さく震えた肩は、紛れもなく怒りを表していた。
「この……っ、この分からず屋ッッッ!」
ギリリと睨んでくるくせに、大河の瞳は僅かに潤んでいた。まるでプールサイドみたいだけど、プールサイドとは違ってすぐに乾く様子はない。
ふん、と俺に背を向けた大河を見てほっとした。
俺に失望してくれたなら安心だ。きっとあの子の胸に生まれた気持ちはバグみたいなものだから、時間の経過と共に消えてくれることだろう。
元はと言えば監視役なんて変な役目を任せた俺が悪いのだけど。
俺に贖罪に足る能力はないから、せめて俺から離れてほしい。俺よりもずっと、大河の厳しさと優しさを向ける相手がいるはずだから。
と、そう結論付けている俺に向けて。
大河は――否、あえて言い直そう――入江大河は。
ぷしゃぁぁぁぁ、とホースから勢いよく水を放った。
「ちょっ、うぶぅぅぅ」
「頑固な百瀬先輩は頭を冷やせばいいんです!」
「ばっ、ぶぅ、ばっ――」
凄まじい勢いの水は、どんどん俺を濡らしていく。
ものの数秒で水浸しになったが、自分がどう見えているのかを気にする余裕なんて今の俺にはない。
だって――マジで勢い強すぎて息すらしにくいし。
「待てって! マジで、ほんとにっ」
「なら前みたいに呼んでください。入江って呼ばないで、大河って呼んでください」
「こん、のぉ……ッ」
調子に乗りやがって……ッ!
冷たい水を一身に受けても、ちっとも頭は冷えていかない。むしろ熱くなっていった。
イライラ、イライラ、イライラ。
どうしてお前にそこまで言われなくちゃいけないんだよ、と。
所詮は部外者のくせに、と。
最低な考えが熱を帯びるから。
「そっちがその気ならっ、やってやろうじゃねぇか……!」
ウォータースプラッシュを受けながら、俺は足元にあったバケツを手に取った。
そのままバケツを盾にすると、水はヘンテコな方向にぱちぱちと撥ねる。
一瞬、大河が驚いて動きを止めた。
その隙を逃さず、俺は大河が使っていないホースを手に取った。
「えっ、百瀬せんぱ――」
「問答無用っ」
「きゃっ」
勢いよく水を放つ。
ぷしゃぁぁぁぁぁ、と音が鳴った。まるでサイダーが零れるときみたいな音。
俺がそうだったように、大河もすぐに水浸しになった。それでも俺に負けまいとし、手元のホースをこちらに向ける。
「百瀬先輩の馬鹿! 普通女の子にそういうことしますか?!」
「お前こそ上司に向かってそんなことするんじゃねぇよ!」
「上司上司って……たかが高校の生徒会でしつこいです! というか百瀬先輩の場合、生徒会ですらないじゃないですかっ!」
「なっ、うっせぇなッッ! 生徒会選挙じゃ勝てないんだからしょうがないだろ! 俺だって正規ルートでやった方がいいってことくらい分かってんだよ!」
「またッ! そうやって開き直って!」
自分でもびっくりするくらい、大声を出している。
ぴちゃぴちゃと水を無駄遣いして、掃除なんて後回しにして。
あろうことか大河に逆ギレだなんて、あまりにもかっこ悪すぎる。なのに止まれないのは、大河がいつまでも引こうとしないからだった。
「どうしていつもいつもそうやって! 間違ってるって分かってるくせに開き直るんですかっ! 正しいやり方なんて、やろうともしてないくせに!」
「――……ッ、やろうとしてないわけじゃねぇんだよッ! 俺だって、俺だってなぁ――」
昔は違ったんだ、と。
そう言おうとして、我に返った。
まただ。
また俺は、大河に委ねようとしてしまった。
ああ、そうか。
大河もまた、美緒に似て――って、どうしてだよ。
澪が『みお』をしてくれて、そのおかげで澪に美緒を重ねることはなくなったはずなのに。それでもまだ、代わりの妹をしてくれているのに。
なのにどうして俺は大河にまで美緒を――ぷしゃぁぁ。
考え込みそうになっていた俺をホースから飛び出す水が邪魔した。
「ああっ、くそ……呼べばいいんだろ、呼べば! さっさとやめろよ、大河」
「RINEも、無視しないって約束してください。ブロックしてるなら解除するって、約束してください!」
「追加条件なんてズルいだろ⁉」
「逃げてる百瀬先輩の方がっ、よっぽどズルいじゃないですかぁぁっ!」
逃げるな、と大河の叫びが伝えてくる。
せめて閉じこもるのだけはやめろ、と。
その声があまりに切実で、胸をジンジンと焦がしたから。
俺は、
「分かったよ!!!! ブロック解除してやるからさっさとやめろこの馬鹿!」
全身全霊で、叫んだ。
ごめん、と言える立場じゃないけど。
突き放すべきじゃないって、そう思ったのだ。
きゅっ、と大河を止める。
俺だけやり続けたらまた同じことの繰り返しになりそうだから、俺も素直に止めた。
「まったくもう……百瀬先輩のせいで体育着が水浸しじゃないですか」
「始めたのはそっちだろ。つーか、まだ掃除終わってないのに馬鹿みたいに疲れたし」
「長引かせたのは百瀬先輩です。……と、こんな風に言い合うのは後にして、とりあえずさっさと終わらせましょうか」
もう言い合うつもりはねぇよ、なんて。
本来言うべきことを言う気にはなれなくて、俺はただ頷いた。
多分もう、これが本当に最後。
俺は強く、強く思った。
――――夏が、来た。




