三章#34 最低で最悪な結末
SIDE:友斗
「そんなの嘘ですよ。本当は私を心配してくれた。それだけじゃないんですか?」
それは唐突な、そしてあまりにも自意識過剰な言葉だった。
仮にそうだったとしても、今の俺の言葉を正すことに何の意味がある? 今までにも無駄に突っかかってきたことはあったが、今回のこれはその比ではなかった。
「ど、どうしたんだよ大河。やっぱりまだ、体調がおかしいのか?」
「話を逸らさないでください。体調は……百瀬先輩が看病してくださったおかげでだいぶ調子がいいです。ありがとうございます」
「あ、お、おう……」
すごい剣幕なのにきっちりとお礼を言うあたり、やっぱり目の前にいるのは入江大河その人としか思えなくて。
調子が戻っているのに意味不明なことを口走っていることに、余計に戸惑ってしまう。
「答えてください、百瀬先輩。百瀬先輩は私が心配だと思ったから来たんですか? それとも私と百瀬先輩が上司と部下という“関係”だから来たんですか?」
「そん、なの……っ」
その問いに意味はない。
但し、それはあくまで俺以外にとっては、ということ。
俺の奥底をピンポイントで突き刺すような問いのせいで、けはっ、と喉から息が零れた。
「答えて、ください」
まだ少し体が怠そうなのに、大河の目つきは鋭い。
以前、大河に問い詰められたときのことを思い出す。彼女と約束をしたあの日だ。
痛いほどに眩しい瞳だ、と思う。
こんなの直視できるわけがない。虫眼鏡でダンゴムシを焼く虐待みたいじゃないか。
どうして、と。
そう問われれば、答えは決まっている。
“関係”も“理由”も、結局のところは全部後付けで。
「……大河のことが心配だったから、だよ。これで満足か」
俺は大河を心配した。
失くしたくないから看病に来て、さっきようやく雫から“理由”を貰った。
だって“関係”がないのに誰かに関わったら、相手を傷つけてしまうから。
ついさっき、玄関で臥せっていた大河のように。
「そうなんですね……ありがとうございます。もし違ったら、って少しだけ不安でした」
「はぁ……そうかよ。安心しろ。大河を心配せず、義務感できたわけじゃない」
話がこれで終わってくれたならよかった。
まだ風邪が治ったわけじゃない大河が不安になって、俺に変なことを聞いてきているだけなら誤魔化すことができたはずだ。
けれど大河は、俺を逃がさない。
部屋を出ようとする俺に、
「なら、どうして――」
と絞り出すように告げた。
「どうして、雫ちゃんにはそうできないんですか?」
「……っ」
どうして、はこっちの台詞だった。
どうしてお前はそうも簡単に……俺が見ないふりをしていたものを、雫も澪も受け止めてくれた俺の弱さを、あっさりと看破するんだよ……ッ!
苦い鉄の味がじんじんと口先にだけ染みる。
それでも平静を装うとする俺を、大河は辛そうに見つめた。
「百瀬先輩は言いましたよね。恋とか愛とか、そういうことが分からないって。雫ちゃんを『好き』だとは言えないって」
「……あぁ」
確かに言った。正しくは『言ってしまった』なのかもしれないけれど。
俺は雫を、好きだとは言えない。
それは澪に対しても同じだ。
俺は『好き』という感情が分からない。
もっと言えば、家族愛と友愛と恋愛を分けることができないのだ。それらは本質的に同じ愛なのに、どうして分ける必要がある? そう、感じてしまうから。
「百瀬先輩が雫ちゃんと付き合ったのは……関わる理由が欲しかったから。そうなんですよね?」
「そうだよ。もうこの話はやめにしよう。この前終わった話だし、お前の体に障る」
「嫌です。絶対にやめません」
「どうしてだよ! お前は自分の体調を考えろ。さっき言っただろ。俺はお前を心配して――」
「そうやって気持ちを盾に話を終わらせようとするのは卑怯だと思います。……まぁそれは私も、ですが」
「っ」
一歩も引かない、などという言葉ではまだ甘いほどに大河はずかずかと踏み込んでくる。ここまで臆面もなく言えてしまうことが、少し怖かった。
「ねぇ百瀬先輩。どうして雫ちゃんには、私にしてくれたようにできないんですか。彼女って“関係”を“理由”にしなくても、関わり続ければよかったじゃないですか……けほけほっ」
声を張ったせいだろう。
苦しそうに大河が咳をする。背中をさすってやりたかったけれど、今の俺が大河に触れるのは許されない気がした。
伸ばしかけた手でベッドの近くのポ〇リを取って、大河に渡す。
「ありがとうございます」
「あ、あぁ……」
この状況ですらお礼を言える律儀さが、過剰なほどに力強いその正義が、心をじんじん苛む。
口の中全部に血の味が広がって、いよいよ唇を噛む力が強すぎることに気が付いた。爪が食い込んでいる掌がビリリと痺れを伝えてくる。
「どうして」
「えっ……?」
気付くと、俺は口を開いていた。
また余計なことを言おうとしている。そう自覚するのに、自分を抑えられない。大河の口元から零れる雫を目で追ってから、俺は言った。
「どうして大河の言う通りにしなくちゃいけないんだよ。別にいいだろ、そんなの。“理由”がなきゃ、誰かと関われない奴だっている。今回は状況が状況だからそういう面倒な性格が働かなかっただけでしかない」
「それは……それ、は――」
「それに、雫だって分かってるよ。俺が『好き』を分からないって、雫は分かってる。その上で俺が雫を大切にしたいって想いに答えてくれたから、俺と雫は付き合うことにしたんだ」
自己弁護は、驚くほどすらすらと思いついた。
あれだけ、もうアヤマチを犯さない、と決意しておきながら。
間違いを忌避し、正すことに躍起になっていたくせに。
間違っていていいじゃないか、と自分を肯定することに言葉を用いている。自己矛盾という言葉すら生温い。紛れもなく、唾棄すべき悪だ。
でも俺は、嘘をついてはいない。
雫は……そして澪も。
俺が二人を『好き』ではないことを分かっているはずだ。その上で彼女と義妹という“関係”になってくれている。
「私には――」
大河はそれでも引いてくれなかった。
がし、と俺の手首を掴んで離さない。振りほどこうとすればできるけれど、触れた手の熱さを認識してしまったら、もうそんなことはできるはずがなかった。
まだ全然熱いじゃんか。
よく見れば、汗も凄い。冷却シートだってべろんと剥がれてきている。
それなのに目の焦点だけはちっともブレていない。
「私には、百瀬先輩が雫ちゃんの恋心を利用しているようにしか見えません」
「な……っ」
「けほっ……。雫ちゃんが百瀬先輩を好きだから、その気持ちを使って雫ちゃんに『彼女』っていうレッテルを貼って、離れていけないように束縛しているようにしか見えません。関わる理由じゃなくて、関わらなくならない理由を押し付けてるだけじゃないんですか?」
その通りだ、と自分の中で誰かが哂う。
まったくもって、大河の言う通り。
いいや、大河が考えているよりも実情はもっと酷い。
俺は雫と澪、二人に“関係”というレッテルを貼りつけたのだ。大切な関係だから手放したくない、と嘯いて。
それはまるで、大切なものを瓶に詰めてラベルを貼りつけ、棚に並べて飾るようなものなのかもしれない。
「もうやめましょうよ。このままじゃ雫ちゃんもその他の人も……そして誰より、百瀬先輩自身が、苦しいままです。気持ちが追いつかない“関係”を持つって、百瀬先輩が思っている以上に苦しいんですよ?」
「……ッ」
やめてくれ、そんな風に言わないでくれ。
心がギシギシと軋んでいたことに気付いてしまうから。強くて厳しいのに、その何倍も優しいその言葉に甘えたくなってしまうから。
いっそのこと、ぶちまけてしまいたい。
俺の抱えるみっともない想いを全部預けて、叱ってもらいたい。
けれども――ダメだ。
できるはずがない。本当は話すのもやっとなのに荒くなった息を誤魔化しているような女の子に、俺の弱さを任せていいはずがない。
誰かに弱さを預けることは罪だ。
そんなことをすれば、俺が弱さを委ねて依存した美緒のように、もう永遠に戻ってこなくなってしまうかもしれない。
だから俺は、
「関係ないだろ。これは俺と雫の問題だ。関係ない奴が、口を出すなよ」
この期に及んで、最低で最悪な突き放し方をした。
そのはずなのに――
「嫌です」
「っ……どうして!」
「好きだからですよ。好きだから、無関係でなんていたくないんです。好きな人が苦しそうな顔をしてるのを、これ以上見たくないんです!」
「……はっ?」
別の意味で熱を帯びた大河の声が、部屋中に響いた。
は……?
頭が真っ白になった。今、大河は何を言ったんだ?
好き、とか。まさかそんなことを言ってはないよな……?
「え、と。一体何を」
「好きだ、と言いました。これ以上のことを私に話させる必要、ありますか?」
「い、いや、それはないけど」
「じゃあ納得してください。私は好きだから、百瀬先輩にお節介を焼きたいんです。好きだから、間違ってるって、そう言ってあげたいんです」
大河の声は震えている。それが緊張のせいなのか、それとも別の理由のせいなのかは、今の俺には分からない。
言えることがあるとすれば、それは一つだけ。
大河のその言葉は、俺にとって決定的なものだった、ということ。
二人と二人と二人。
バラバラだったはずの二人ずつの関係性は、大河の言葉によって距離を縮めてしまった。
「だから、百瀬先輩。もうやめましょう? “関係”を“理由”にするのはやめて、百瀬先輩の『好き』を見つけてあげてください。そうでなきゃ、雫ちゃんも、澪先輩も、百瀬先輩自身だって……っ、可哀想、じゃないですかっ」
ぽた、ぽた、ぽた、と大河が涙を流していた。
あの入江大河が泣いている。
誰のせいで? 俺のせいで。
あぁそうか、と悟る。
今の俺には、大河の涙を拭うことができない。“理由”がないと動けない俺は、大河が俺のせいで泣いているときですら、何もできない。
改めて、まざまざと実感させられた。
俺は間違っている。どうしようもなく、間違っている。
――それでも俺は。
「無理、だよ。俺には無理だ。……頼む、もうこの話はやめてくれ。そうしないと、俺は今の大河を置いていかなきゃいけなくなるから」
「……っ。どうしてっ」
「頼むからッッッ!」
間違っていると分かっていても、その間違いを正すことができない奴だっている。
誤答だと分かっていたところで正答が分かるとは限らないのだから。
大河の手を振りほどいて、俺は部屋を出る。大河がどんな顔をしていたのかを見ることはできなかった。
上司と部下という“関係”通りにきちんと看病しなくちゃいけない。
雫が与えてくれた“理由”だけが今の俺を動かしてくれた。