虫除け薬の博士と虫刺され薬の博士
春が終わり、夏の気配の迫る夜。ある大手製薬会社にひとりの男が忍び込んでいた。ここで働く研究員を買収して社員証を手に入れていたので、ビルの中に侵入するのは簡単だった。
研究室のある階までやってくると、その部屋にはまだ明かりが灯っていた。男は窓から、そっとなかを覗きこむ。博士がひとり残り、パソコンの画面に映し出した製造法を見ながら、薬を混ぜ合わせている。試作品を作っているようである。
博士はこれまでに、人々の生活に役立つ商品を次々と発明してきた。医薬品業界を発展させた立役者のひとりだとも言われている。ここ20年は、虫除けの薬の開発に取り組んできていた。博士の代名詞ともいえる〈虫除けDX〉シリーズは、体に直接吹きかけるスプレータイプと吊るすだけのプレートタイプの2種類ある。毎年、機能強化といったモデルチェンジを繰り返しながら開発・販売が続けられている。そしてこの夏に発売される予定の虫除けDXの新商品は、これまでのものとは比較にならないほどの効果があると噂されていた。
噂が事実なら、蚊、ハエ、マダニ、アブ、クモ、ムカデなどといった全ての害虫が嫌う成分を博士はついに発明したらしい。効果は絶大で、害虫を100%寄せ付けないという結果をもたらした。その成分を使った新商品が発売されれば、もう害虫に悩まされる事はなくなるだろう。そしてそれは、人類が地球に誕生して以来、初めての事である。
さぞかし、多くの人々は手を叩いて大喜びするだろうが、この製薬会社に忍び込んできた男は、違った。男も医薬品業界に身を置く博士だった。この夏に新商品を発売しようと研究を重ねてきていた。その新商品というのが、虫刺されに効く薬だった。しかし、このまま虫除けDXの新商品が発売されれば、虫が人に寄り付くことは無くなり、虫に刺される事もなくなり、虫刺され薬は一切売れなくなる。これまでの努力が、無駄になってしまうというわけだ。何が何でも発売を阻止せねばならない。
研究室のなかでは、博士が試作品となる薬を完成させたようだった。調合して作った薬は紫色をした液体だった。1枚壁を隔てたすぐ隣で、同業者が薬を狙っているとも知らず、博士は薬の出来栄えに満足したのか嬉しそうな顔を浮かべている。顔を見る限り、完璧な虫除け薬は完成したのは分かった。そして博士は試作品の薬を部屋の隅においた金庫に、大事そうにしまった。
間もなくして研究室の明かりが消えると、博士が出て来て帰っていった。こんな夜更けに何か用事でもあるのか、しきりに腕時計を気にしていた。
男はこの時をずっと待ち構えていたとばかりに、小型のLEDライトを照らすと、研究室のドアに近づいていく。鍵に買収した研究員の社員証をかざして、予め聞いていた暗証番号を入力する。ドアを開錠すると、なかに忍び込む。まっすぐ金庫の前までやって来ると、さきほどと同様の方法でなんなく開けると、さっき博士がしまった、試作品の薬を取り出し、バックの中に入れた。少し惜しい気はするが、これを家のながしに捨てる予定だった。ここで捨てても良かったのだが、そうなると同業者のやっかみからの犯行だと思われかねない。それより、この薬でひと儲けしようと考えた強盗の犯行だと思わせたかった。
男が次に取り掛かったのは、製造法を保存したパソコンを破壊する事だった。カバンから持ってきた金槌を取り出して、二度と使えないよう何度も何度も殴りつける。研究室というのはたいがい防音になっているので、叩き壊す音は気にしなくて良かった。他にも薬の製造法を何処かに残してないか細かく丁寧に調べたが、見当たらなかった。
「これで、当分の間は完璧な虫除け薬が発売される事はないだろう。この夏の販売商戦は、うちの製薬会社の一人勝ちというわけだ」
全て抜かりなく終えると、男は早々に逃げ出した。
しかしこの夏、男の勤める製薬会社の一人勝ちにはならなかった。この日の夜、大手製薬会社を狙った強盗事件はもう一件発生していたのだった。
ある大手製薬会社にひとりの強盗が忍び込んでいた。ここで働く研究員を買収して社員証を手に入れていたので、ビルの中に侵入するのは簡単だった。
研究室のある階までやってくると、すでに明かりは消えていた。強盗は窓から、そっとなかを覗きこむ。人の気配はなかった。やはり誰もいないようだ。強盗の彼は小型のLEDライトを照らすと、研究室のドアに近づいていく。鍵に買収した研究員の社員証をかざして、予め聞いていた暗証番号を入力する。ドアを開錠すると、なかに忍び込む。
室内を見渡すと、部屋の隅に金庫を見付けた。まっすぐに金庫の前までやって来ると、さきほどと同様の方法でなんなく開け、鮮やかな緑色をした液体が入った薬瓶を見付けた。「これに違いない。こんな物を世に出すわけにはいかないぞ」
この研究室の博士は、これまでに人々の生活に役立つ商品を次々と発明してきた。医薬品業界を発展させた立役者のひとりだとも言われている。ここ20年は、虫刺されに効く薬の開発に取り組んできた。博士の代名詞ともいえる〈虫刺されV〉は、液体タイプと軟膏タイプの2種類あり、毎年、機能強化といったモデルチェンジを繰り返しながら開発・販売が続けられている。そしてこの夏に発売される予定の虫刺されVの新商品は、これまでのものとは比較にならないほどの効果があると噂されていた。
噂が事実なら、蚊、ブユ、アブ、ノミ、イエダニ、クモ、ムカデ、ハチ、毛虫、などに刺された際のかゆみや痛みの症状を一瞬にして完全に取り除く成分を発明したらしい。効果は絶大でかゆみや痛みだけでなく、アレルギー反応や感染症リスクも抑えられるという結果をもたらした。その成分を使った新商品が発売されれば、もう害虫に悩まされる事もなくなるだろう。それは、人類が地球に誕生して以来、初めての事だ。
さぞかし、多くの人々は手を叩いて大喜びするだろうが、この製薬会社に忍び込んできた彼は、違った。彼も医薬品業界に身を置く博士だった。この夏に新商品を発売しようと研究を重ねてきていた。その新商品というのが、虫除けの薬だった。商品名は虫除けDX。蚊、ハエ、マダニ、アブ、クモ、ムカデなどといった全ての害虫を100%寄せ付けないという完璧な虫除け薬だった。だけど、このまま虫刺されVの新商品が発売されれば、人は虫に刺されても一瞬でかゆみから解放され、虫に怯える事もなくなるだろう。そうなると、虫を除けようなんて思わなくなり、虫除け薬は一切売れなくなる。これまでの努力が無駄になってしまうというわけだ。何が何でも発売を阻止しなければならない。
彼は、金庫から鮮やかな緑色をした液体が入った薬瓶を取り出してバックの中に入れた。少し惜しい気はするが、これを家のながしに捨てる予定だった。ここで捨てても良かったのだが、そうなると同業者のやっかみからの犯行だと思われかねない。それより、この薬でひと儲けしようと考えた強盗の犯行だと思わせたかった。
LEDライトの明かりを頼りに室内を隈なく見ていくと、パソコンを見付けた。この中に製造法を保存しているに違いない。カバンから持ってきた金槌を取り出して、二度と使えないよう何度も何度も殴りつける。研究室というのはたいがい防音になっているので、叩き壊す音は気にしなくて良かった。他にも薬の製造法を何処かに残してないか細かく丁寧に調べたが、見当たらなかった。
「これで、当分の間は完璧な虫刺されに効く薬が発売される事はないだろう。この夏の販売商戦は、うちの製薬会社の一人勝ちというわけだ」
全て抜かりなく終えると、男は早々に逃げ出した。
よく日。2人の博士はそれぞれ、勤め先の製薬会社に出勤した。昨晩、遅かったせいもあり、眠かったのだが、研究室に入った瞬間、目が覚めるような事態が待ち受けていた。ここは私の研究室なのか?と疑ってしまう。苦心して開発した新製品の薬が盗まれていたのだ。それだけではない。薬の製造法を保存していたパソコンも粉々に破壊されていた。先にやって来ていた助手が、110番通報をしたようで、間もなく警察官たちが駆けつけてきて、すぐさま現場検証が行われた。ひとりの警察官が博士の元にやってきてこんな事を聞いてきた。
「博士、犯人に心当たりはありますか?」
博士の頭にある博士の顔が浮かんだ。心当たりは無くはない。だけど、それを口にすれば自分の身に返ってくるだろう。博士は首を横に振って「ありません」とだけ答えた。
いつどこから忍び込んだのか、研究室の中に一匹の蚊が飛んでいる。ブ~、ブ~、ブ~、と耳障りな音をあげながら飛び回っている。蚊は呆然としている無防備なターゲットを見付けたようだ。気付かれないように、そっと博士の手の甲に止まると、鋭く尖った針を皮膚に突き刺した。
どちらかひとりでも、犯行を思い留まってくれてさえいれば。誠に残念である。この夏も人類は、虫に悩まされる事になりそうだ。
終