05
三人が皿の上のものをすべて空にする前に、シアの部下がやってきて、「陛下謁見の準備が整ったそうです」と伝令をうけた。思わずフォークを置いたはるかを尻目に、シアは平然と咀嚼を続けた。
「腹が減っては戦はできぬ、って日本でも言うんだろ。次にいつ食べられるか分からないんだから、ぜんぶ食べてから行こう」
部下の困り眉がさらに下がり、時間の経過につれて顔色が悪くなっていくのを見て、はるかは気の毒に思った。女王陛下は、それほど恐ろしい人なのだろうか。
昼に別れたヨハンの安否について、シアは何も言わない。これから謁見する陛下についても、何も教えられていない。日本の両親が心配していないかという不安が解消されても、胸中が晴れることはなく、はるかはせっかくの食事をほとんど味わうことなく飲み込んだ。
トレイを洗い場へ返して神官庁を出たあと、宮廷奥にある皇殿へ向かって移動するさなか、神官庁で会った全員が男性だったことについて尋ねると、太一が思い出したように言った。
「そうそう、神官はすべて男性なんだ。陛下が女性なので、たまにお喜び隊だなんて揶揄されることもあるけど、陛下にそういう関係を求められることはないから気にしないで。恋愛も自由にしていいよ」
「俺は第一神官として、皇女と結婚するつもりだけど」
「それだって、あくまで認められているだけで、本人同士の意思を無視してまで進められることはないはずだ。男ばかりで出会いが少ないのは事実だけど、リンヘは気構えず、まずは環境に慣れてもらって」
太一は、さすがに長くこの国で神官をやってきた余裕で緊張感をほぐそうとしてくれたが、はるかの耳には届かなかった。
神官はすべて男性なのに、なぜ自分が神官として徴兵されたのか。決断力のない自分に、なぜ『直観力』を受け継いだ者として指名があったのか。シアに蘭国へ連れてこられた経緯を思い返せば、容易に誤解に気が付いた。彼らが探していたのは、令和ではなく、令和だからだ。
いくらジャージ姿とはいえ、年頃の女子の性別を間違えるなんて失礼な話だが、日本では大雨で視界が悪かったし、山道で泥まみれになったせいで、肩まである髪はぱさつき広がっている。間違えられてもおかしくない。そんなことより、本来その資格のない自分が下した決断にしたがい命をかけたヨハンのことが気がかりだった。謝りたくても、彼が無事でなければ、謝ることもできない。
「あの、もし、人違いだったら、どうなるんでしょうか」
謁見の間の控室にやってきたとき、おそるおそる口にするが、太一はよほどシアを信頼しているのか、本気にしなかった。
「どうだろう、さすがに人違いだったら、最悪極刑もあるかもしれないね。でも、名前も場所も指名された通りの人物を連れてきたんだから、人違いはさすがにないんじゃないかな」
「人違いはないなあ。だって山村令和本人だって確認したし」
「それは、そうなんですけど」
今ならまだ間に合うかもしれない。そう思って真実を告げようとしたが、
「第一神官、シアどの。リンヘどの。お入りください」
扉前で警備していた白ラン姿の緊張感ある号令に促され、扉が開いてしまった。太一に優しく背中を押され、足を踏み出してしまう。振り返ろうとしたが、今度はシアに腕を引かれ、はるかは逃げ場がなくなった。
陛下の座る椅子は、五段ほど上がった上にあり、薄い帳がかけられていて、その姿を直接目にすることは叶わなかった。階段下のもっとも陛下に近いところに美しい女性がひとり佇んでおり、それが噂の皇女であることはすぐに分かった。薄いラベンダー色のワンピースに身を包み、背筋を伸ばしてこちらを見ている。黒髪は遠目にも分かるさらさらの直毛で、腰までの伸びる艶髪を、背中の位置でで一つに結んでいるようだ。真っ白な肌に、わずかに朱色が色づく表情をみて、同性ながら色気を感じて、自身の泥まみれの出で立ちを恥ずかしく思った。
「待っていたよ、シア」
陛下の声は落ち着いていたが、言葉ほどには温かみを感じなかった。
「お待たせしました。山村令和を連れてまいりました」
「報告は聞いている。すでに実戦で活躍したという話だったが、今日戦った神官の過半数が戦死した」
はるかは、ぎょっとして陛下の顔を仰ぎ見ようとして、シアに頭上からその頭を押さえつけられた。許しが出るまで見上げたらダメだ、と囁かれる。視線は行き場をなくし、階段の一段目をじっと見つめるが、見開いたままの目は、焦点を結ばない。
「はい、その程度で済んで不幸中の幸いでした。リンヘがいなければ、全滅だったことでしょう」
「……そうか、わかった。リンヘ」
呼びかけられ、許可を求めるつもりでシアを見ると、頷かれた。帳の向こうに浮かぶ陛下の人影を見上げ、はい、と応える。口の中が乾ききって、声が震えた。
「よく来てくれた、お前の『直観力』に期待している。長旅だっただろうから、今日はもう休んでよい、下がれ」
陛下はそう言うと、はるかが返事をする前に、帳の向こうから影を消した。
シアは、結婚するつもりだとのたまった皇女には目もくれず、陛下の去ったあとの帳に向けて一礼すると、はるかの腕をつかんで謁見の間を後にした。