03
律儀に百八十まで数えたあと、シアが「さあ、行くか」と笑顔を見せたとき、林の向こうでは物々しい喧噪音と、悲鳴が聞こえていた。何が起きているのか、はるかには想像することしかできない。徐々にそれらが遠ざかっていくので、ヨハンたちが優勢なのだと不安を抑え込もうとしたが、たまりせりあがる吐き気を抑えるのが精一杯だった。
林は山へと続いていたようで、奥へ歩みを進めていくと、傾斜がきつくなってきた。心臓が痛いほど脈をうち、全身から汗が吹き出て、すぐに冷気に冷やされる。一歩が重く、泣きたいほどつらいのに、シアは足をとめてくれない。「帰りたい」「逃げ出したい」という声が頭の中を占めるのに、どうすれば帰れるのか、逃げ出せるのか、見当もつかず、ただここでシアを見失えば野垂れ死にすることだけが本能的に理解できた。学生鞄から出してみたスマホは、当たり前のように圏外だった。
やがて体が苦痛に慣れて、辺りを見渡す余裕が出てきた頃、遠くで水流の音が聞こえるのが分かった。とたんに喉の渇きを覚え、シアに伝えると、一時間ほどで水場につくと言われた。それが長いのか短いのか、はるかには分からない。
「あ、水場につくまで、これ食べるといいよ」
こめかみからしたたる汗の量と対照的に、相変わらず軽やかな口調と笑顔のまま、シアが小さな包み紙を手渡してきた。
「飴だって。さっきヨハンからもらったんだ、途中でみつけた露店で売ってたらしい」
「戦場に、行く前に、飴を、買ったん、ですか」
「戦場っていっても、リンヘのいた日本と違って、蘭国では日常だからね、畑耕しに行く前に買うのと同じだよ。それと、戦場になったあとじゃ、略奪とか押収とかになって、お店の売り上げに貢献できないからね」
息も絶え絶えなはるかは、言われるままに受け取った飴を口に入れた。甘味が舌のうえに広がり、そこから唾液腺が刺激され、喉の渇きが一時的に弱くなるのがわかった。まだ歩けるという活力が沸いてくるのと同時に、ヨハンの無事を祈る気持ちが強くなった。
はるかの疲労を紛らわすためか、山道を行くなか、シアは蘭国の成り立ちや、神官の立場について、少しずつ説明してくれた。
蘭国は、もともと大陸の中央に位置する小国だったという。あるとき小国を襲った飢饉を逃れるため、一人の女性が立ち上がったのが、女王陛下を筆頭とした国家としての始まりだったそうだ。彼女には体の弱い弟がいたが、その弟には類まれなる『直観力』があり、彼の指示に従えば、自国は潤い、他国と衝突しても勝利を収めることができたのだという。弟はけして他人に心を開かず、姉のみにその内なる閃きを共有したため、『直観力』の恩恵を受けるためには、必ず彼女を通す必要があった。以来、国民は女王陛下を国家の象徴として敬い、重大な決断には『直観力』を受け継いだ神官の声を最優先するという伝統がうまれたらしい。
「第一神官っていうのは、役職みたいなもので、二百人くらいいる神官のリーダーなんだ。陛下の側近を任されるから、護衛できる体力と、とっさの判断力と、社交性が求められる。皇女との婚姻が暗黙のうちに認められるから、競争率高いんだけど、先代は惜しかったな。『直観力』の衰えさえなければ、誰よりも蘭国のトップに近いところにいたのに」
「その、『直観力』って、結局なんな、んですか。衰えって、いうけど、そんな、完璧なものじゃ、ないんでしょう」
「さあね。俺にはその力がないから分からないけど、神のお告げみたいに、聞こえるか見えるかするんじゃないの。先代も詳しく教えてくれなかったけど、歴代世界のどこかに一人いて、死期が近くなると次の一人が誰か分かるらしいよ。つっても、そいつが『直観力』をもってるかどうかなんて、たしかめる方法がないから、俺たち凡人は言われるままに信じるしかないけど」
俺は先代に指名されなくて良かったな、そんな不確かな発言力のせいで死にたくないし、とシアが言ったとき、はるかは穿った。本当はシアが次の『直観力』を受け継いだ神官として指名されたけれど、保身のために、どこか遠くから自分を連れてきたのではないかと。
「山村令和って名前だけを頼りに探すの大変だったけど、見つかって良かったよ。神官庁は男くさいところだけど、衣食住は保障するし、戦争が落ち着いたら帰れるよう陛下に図らうから、少しの間力を貸してくれ」
「両親が、心配する、から連絡、したいし。なんなら、警察、探してる、かもしれない、けど」
「あー、それは大丈夫。日本から来た神官、リンヘだけじゃないから。あとでタイさんに話聞いてみるといいよ」
それから細い山道で上り下りを二回ほど繰り返して、やっと視界が開けたところに、滝つぼがあった。滝つぼから直接水を汲むのは危険だと言われ、岩の隙間からちょろちょろと流れ落ちる新鮮な水を両手に受け、飲んだ。新鮮な冷たさが食道を通って胃へと落ちるのがわかる。おいしい。顔の火照りに、今さら気が付いた。
ついでに少し休憩しようと言われて、平たい岩のうえに腰をおろすと、膝から下ががくがくと震えだした。しかし、ふくらはぎに力を入れて、震えをとめようという気持ちは起こらなかった。体力はすでに限界で、余計なことに気を回す余裕などなかった。
「山道は初めてだった? このあとは、ゆるやかに下り続けるだけだから、そんなにつらくないよ」
シアの言葉に、わかった、という意味をこめてうなずく。
しかし、そんなにつらくないはずの下り道が、日が陰るまで続いて、あと一歩でも歩いたら倒れるという限界を三回過ぎたところでようやく宮殿についたので、はるかはシアの言葉を今後信じないことに決めた。