02
ぶるりと体が震えた振動で、目が覚めた。
肌の表皮から寒気がしみいるようだ。いつの間にか芯まで冷えて、ぞくりと悪寒が走った。
雨はやんだようだった。木漏れ日が眩しい。そこまで思って、なぜ木々に囲まれているのだろうと疑問が沸くと同時に、背中を刺す痛みに気付いた。柔らかく湿った土と、落ち葉のクッションの隙間から、小さな草木の芽が出て、 仰向けに寝ている無防備な自分を起こそうとしている。
「えっ、ここどこ」
思い出そうとしても、校門で男に声をかけられたところまでしか覚えていない。誘拐だろうか、でも狙われるような要素を自分は持っていない。お金持ちではないし、美人でもない。
「お、気づいたか、お姫様」
「いえ、お姫様ではないです」
ちょうどいいタイミングで声をかけられ、真顔で否定した。お姫様という誤解のせいでさらわれたなら、今すぐ元の場所へ帰してほしい。
肘に体重をかけて上体を起こし、そのまま両足に力を入れて立ち上がると、運動靴が土に沈んだ。ジャージでよかった。急に立ち上がったので軽くめまいがしたが、それはすぐ治った。全身あちこち汚れててはいるものの、怪我もなく、手足を動かしても痛くなかった。
周囲は、空まで伸びる高い木々におおわれて、どこからか鳥の鳴き声がした。視界が明るいのは、太陽がほぼ真上にいるからだと気づき、腕時計を見たが、壊れたのか針は動かない。むせ返るような木のにおいが充満して、空気中の酸素量が多いのだろう。息を吸うたび、体が元気になるのが分かった。
声の主である白ラン姿は、雨風に邪魔されない視界のなかで目にすると、輝いてみえた。小さな顔に、長い手足、広い肩幅のバランスが、男を洗練された雰囲気にみせている。少し茶色がかった髪は、雨に打たれたあとだからか、毛先があちこちへ散らばっている。その下にある、同じくらい明るい瞳が、きょとんと丸みを帯びて、お姫様は冗談のつもりだったのかと理解した。
「令和……いや、蘭国風に令和でいいか。ここは蘭国で、俺は仔空、女王陛下つきの第一神官だ」
ひとつの会話のなかで、聞きなれない単語がいくつも出てきて、はるかは混乱した。しかし、シアと名乗った男は続ける。
「俺の職務は、女王陛下を守り、陛下の収める蘭国を守り、そして領地を拡大すること。最近は戦が絶えないんで、神官も人手不足で、各地から徴集してるんだよね。リンヘには将来を先読みする『直観力』ってやつがあるらしいって、先代の第一神官が言ってたから、俺直々に日本まで迎えにいったんだけど、まあ飯とか家とかは用意するから、ちょっと手伝ってくれ、頼む」
「ちょっと待って」
はるかはこめかみに手をあてた。情報を整理しきれないが、この男が、ひどく重要なことを、鉛筆貸してくれ、くらいの軽さで口にしたことは分かった。
「いま戦争が起きていて、その戦争に参加させるために連れてきたって言いました?」
「あー、うん、そう。俺もわざわざ日本から連れてこなくてもって思ったんだけど、先代の第一神官にも、その『直観力』ってのがあって、陛下がすげー重宝してたから、先代の言葉には逆らえなくって」
「それたぶん人違いだと思います。先代の人に、本当は誰を探しているのか、もう少し確認してもらうほうがいいんじゃないかなと思うんですけど」
「や、それ無理。死んだから」
シアは、後頭部をがしがし搔きながら、うーんとうなった後、困ったように言った。
「その『直観力』にしたがって指揮した、ひとつ前の大戦に負けちゃってさ。陛下の命令で処刑されたんだよね」
神官たちからすれば、直観力も完璧じゃないという気付きを得た経験だったが、陛下はそれを『直観力』の衰えと解釈したらしく、すげ替えるよう指示が下ったという。今朝、目玉焼き失敗してスクランブルエッグにしたんだよね、くらいの口ぶりでいうから、理解するまでに五秒ほどかかった。
「それって、私が『直観力』あると誤解されたまま戦争に参加させられて、失敗したら、同じように処刑され……」
さえずっていた小鳥の声が一斉にとまり、その直後、辺りが騒然とした。シアが唇に人差し指をあて、周囲へ目を配る。やがて、草を踏む足音がひとつ近づいてきて、緊張感に身を強張らせたが、ライチョウに似た低めの鳥の鳴き声を聞くと、警戒を解いたのがわかった。
「味方だ」
笛を吹きながら姿をあらわしたのは、シアの小洒落た白ランとは異なり、機能性を重視したような薄茶の上下に身をつつんだ、小柄な男だった。シアがはるかより頭ひとつ高いのに対して、新しく現れた男ははるかと目線がほとんど同じだった。
洒落気をそぎ落としたような短い黒髪に、切れ長の鋭い瞳が印象的だ。年齢ははるかと同じくらいか、それより若いように見える。左手に、映画のなかでしか見たことのないような大きな銃を、無造作にぶらさげているのがアンバランスだったが、本人は他人からどう見られるかに興味を抱いていなそうだった。はるかを一瞥したあと、シアに対して、「近くまできてる」と言ったきり、目線は木々をすり抜けて、どこか遠くを見ているようだった。
「ヨハン、こちらはリンヘ。さっそくだけど戦況を説明してやってくれ」
「わかった」
ヨハンと呼ばれた少年は、はるかの素性について説明を求めない代わりに、自身についても一切説明しなかった。親愛も嫌悪もみせない無機質な声音のまま、今まさに林の向こうで起きている隣国との小競り合いについて、神官何名がどこでどんな武装をして待機していて、敵兵およそ何名がどこにいることが分かっている、ということを詳細に説明していく。
シアは聞きながら何度も相槌をうっていたので、すぐに理解できたようだが、土地勘もなく、戦争など映画でしか知らないはるかにとっては、その詳細な説明はほとんど意味をなさなかった。理解できたのは、シアやヨハンのいう神官が、神社の宮司のような役割でなく、軍人のような立場を指す単語であることと、ヨハンがプランAとプランBを用意していることくらいだった。
「説明ありがとう。で、リンヘ、どっちがいいと思う?」
「はい?」
「ヨハンの説明をうけて、プランAとプランB、どっちに勝機があるかな」
シアが軽薄な笑みを刷いて、はるかに答えを求める。ヨハンは、シアの言葉をうけて、はるかをまっすぐ見据えたまま、返事を待っている。
「それは、……私が決めるんじゃなくて、ヨハンさんが決めた方がいいんじゃないかな。彼の方が戦況にも戦術にも詳しくて、彼が命をかけて今戦っているんですよね?」
「自分はどっちでも構わない。戦況は今説明した通りで、神官の指揮権は第一神官にある」
ヨハンは肩を竦めて言い放つと、まっすぐな鋭い瞳を、しかし無感情にはるかに向けたまま、口を閉じた。はるかは、第一神官と名乗ったはずのシアを振り替える。
「指揮権はあなたにあるって」
「うん。でも俺は先代の第一神官と違って『直観力』がないから、それを持っているらしいリンヘの判断に任せたいんだよね」
どっちがいいと思う、と再度聞かれて、はるかは唾を飲み込んだ。もともと決断力のある方ではない。
嵐の日にジャージに着替えて帰るかどうかも、誕生日に買うケーキも、すべて弟に決めてもらうような生活を送ってきた。何も知らない土地で、何も知らない人たちの戦争の、戦い方に口を出す権利など本来はるかにない。けれど、なんの誤解かそれを求められ、その選択次第で多くの人が死ぬかもしれず、また自分も先代と同様に処刑されるかもしれない。どう考えても、荷が重すぎた。
縋るように視線を合わせても、シアとヨハンは助け舟を出してくれず、はるかは長い沈黙のあと、プランAで、と言った。
「わかった。ではシア、自分は真正面からいくから、三分後にここを離れてくれ」
「おっけー、任せた。リンヘ、俺たちはこのまま宮殿に向かうんで、そのつもりで」
ヨハンが左手の銃を担ぎ上げて、今にも去ろうとするので、はるかは慌てて「待って」と声をあげた。
「いいの? 理由は聞かないの? 疑問があれば、もっと話し合ってもいいんじゃ」
ヨハンは、肩を竦めただけで、口を開かなかった。代わりにシアが答える。
「理由なんてどうでもいいよ。先代の衰える前と同じ『直観力』が決めた結論なら、俺たちは信じて戦うだけだ。な、ヨハン?」
「……もし自分が死んでも、それは自分の力不足だから、リンヘのせいじゃない。生きていたら、また会うこともあるでしょう、では」
来たときと同じ道を、静かに戻っていくヨハンの背中が見えなくなるまで、はるかは言葉を紡げなかった。隣で、いーち、にー、さーん、と時間を数えだすシアの軽やかな声音が、頭の中でこだました。