67 side:エーヴィヒ 11
久遠の苦言を受けた翌朝、整形外科病棟の別の個室へ移動した。男性看護師が担当になり、かなり気が楽になった。久遠のこの病院での地位はどれ程なのか?素早い対応に感謝した。
俺の入院生活サイクルが変わり、巡回と面会時間帯は病室で筋トレと勉強、ネットで情報収集…それ以外の数時間はティリアの病室に入り浸っていた。
また久遠から苦言を貰ってしまった。先日の一泊は特例で本来は入院患者が病棟を行き来する事は許されていないと。今後は看護師ではなく、医師や久遠の許可がない限り彼女の病室への訪問は禁止された。俺の身体の回復が早く、退院まであと数日だろう事も告げられた。
別に入院中のティリアをどうこうしようとは思ってはいなかっ…いや、思ったし、早く抱きたいと思ってはいるが、肺や呼吸器が弱っている彼女を無理矢理抱くとでも思われていたのか?今でさえ、再会した日以上の事はしていないのに。
それより現時点では俺を受け入れてくれたティリアが、退院したらまた逢えなくなったり、彼女が消えてしまう可能性を危惧してる。
久遠から退院後のティリアへの面会可否について、関係各所に確認する代わり、自分の病室でおとなしく入院生活を過ごす様にと条件を出された。…これも本来は特例措置じゃないのか?なんだかんだ言いつつ、久遠は俺に甘い気がする。
帰還後、ティリアと再会して二週間は経った。
今更な話の気もするが、お互いに現実世界での名前をまだ名乗りあっていない。俺が聞く事で、彼女に名前を強制開示させる事にならないか…そう思い聞けずにいた。だから現在も、ティリア、エーヴィヒと呼び合っている。
俺の事はエーヴィヒでも誠でも彼女が好きな方で呼んでくれれば十分だ。彼女が俺を呼んでくれるだけで俺は嬉しいのだから。
俺が幼すぎて色々と心配になる事が多いが、彼女との今後の為に、今から出来る事を少しずつ確実に俺の力にしなくてはいけない。現実世界の俺は、何も力の無い無職の男なのだから。
知識を増やす事は面白い。くだらないモノも有るが、基本的に無駄な知識は無いと俺は思っている。今は無駄でも後々知っていた事で助かった事も多々有るからだ。
頼んでいた本を両親が沢山持ち込んでくれた。過去三年半のベストセラー本だ。流石、ベストセラーに選ばれただけあると関心する本から、がっかりする本まで有った。人の感性というのはここまで違うのか…これもまた面白い。
退院後の身の振り方についても考えていた。無理は承知で母校に連絡をした。当時の担任が対応してくれ、驚きと共に俺の生還を喜んでくれた。出席日数としてはギリギリ。卒業資格を有しているが、大学進学となるとブランクが厳しいと包み隠さずに教えてくれ、相談に乗るとまで言ってくれた。
そんな夜を過ごしている俺の病室に、珍しく久遠が来た。ティリアが今すぐ会って俺と話がしたいと言っているそうだ。
ティリアからの招待に胸が踊る。
久遠を待たせるのも悪いから最低限の身だしなみを整え、貴重品を持つ。
母に頼んでいたティリア用の菓子を幾つか出す。彼女の事だ。紅茶を出してくれるだろうから、ミニフィナンシェがいいだろうと、愛らしくラッピングされた箱を持ち、久遠と一緒にティリアの病室に向かった。
二日振りくらいか?ティリアに逢える。彼女に逢える嬉しさで心臓が五月蝿い。そうか彼女からの招待なら問題無いのか…と思った。
だが、おかしくないか?
もう消灯時間になるのに、久遠を通しての招待。
俺はまた浮かれすぎて異様さを見落としていた。
まさか、あの事がティリアに知られたのか?いや、それなら久遠が先ず何かしら俺に言ってくるだろう。…それも無い。
あぁ…悪い考えばかりが浮かんでは消えていく。
ティリアをこの腕に戻せたと言っても、完全ではない事くらい、いくら俺が無能だといえど解る。
人には本音と建前が有るのだ。俺がいくら彼女を愛していても、彼女にとって必要の無いモノならば、俺の想いなど…いや、彼女はそんな人ではない。嫌な事は嫌だとはっきり言う人だ。だが悩み始めると不眠になったり、思考の森からなかなか帰って来れないのも彼女だ。
駄目だ、被害妄想がわいて来た。
こんな情けない事で、どうするんだ?
愛する女を守りたい支えたいと思っているのに、こんな事で負けていたら、現実世界で彼女と生きていく事なんて到底無理だ。
…だが、失いたくない…。
ティリアの病室に入ると、彼女は菓子と温かい紅茶を三つ用意して俺達を迎え入れてくれた。
まるでティリアフラウの様に髪を結っているが、彼女にとてもよく似合っていて、俺は見とれてしまった。
羽織っているレースのストールは彼女のお手製だろうか?
彼女の趣味の一つにレース編みが有る。以前、母に見事なレースのストールを贈ってくれたのを思い出した。
ティリアの側に行き、その右手を取ってキスをする。
「こんばんは、ティリア。招待してくれて嬉しい。ありがとう。今夜も君はとても素敵だ」
彼女へ想いと共に両手で菓子折りを渡す。
「こんばんは、エーヴィヒ。こちらこそ急な招待なのに、来て下さってありがとう。わざわざ今日もお菓子を用意してくれたの?逢う度にでは大変でしょう?気を遣ってくれなくてもいいのよ?」
あぁ…可愛い。君が俺を気遣ってくれているのに。
「ここでも前にも伝えただろう?…俺が選んだ物じゃなくてすまないが」
「そうだったわね。ありがとう、エーヴィヒ」
ティリアは優しく微笑む。俺は吸い寄せられる様に彼女のこめかみにキスを贈る。触れる事が出来て幸せだ。
彼女はソファを勧めてくれ、それぞれ座った。
ティリアが淹れてくれた紅茶を飲む。美味しい。これは先日贈ったロミオとジュリエットか?視線を向けると頷いてくれた。早速、淹れてくれたのが嬉しい。
「久遠さん、忙しいのに私達の為に時間を作って下さってありがとう。エーヴィヒの事も…色々ご迷惑をお掛けして、ごめんなさい」
ティリアから思わぬ言葉が出た。
まさか久遠はあの事をティリアに言ったのか?久遠を鋭く見る。だが久遠もティリアの言葉に驚いている様子だった。…じゃあ、何故…?
「エーヴィヒ、久遠さんを睨まないで。帰還してからの貴方の言動から、私が導き出した事なの。そもそも久遠さんと私の関係は、彼がベヒューテンだった時と同じ。…同じ様にしてくれているのよ」
彼女は俺の手にそっと触れてくれる。
「…エーヴィヒ、貴方の今の行動で私の勘が当たっている事が判ってしまった。私との事で、これ以上、無理や無茶はしないで。お願いだから」
「ティリア…」
君との事で必要なら無理や無茶はするさ、君を失いたくないから。
だが俺の言動で導き出した?一体、俺の何から?判らない、解らない…。
久遠の事だって確かに俺があの看護師に依頼してしまった事だが、その対価として俺は…。
「これから、貴方は、どうしたい?再会したあの日、貴方は私に誓ってくれたわ。その誓いは、今でもその胸に有る?…ティリアの存在が、貴方の邪魔になっているのではなくて?」
君が邪魔になる事なんて有り得ない。そう、有り得ない事だ!
「そんな事、なる筈が無い!君が…君が居てくれるから。君が居ないと、俺は…」
一体、君は俺から何を感じた?
瞳の奥をじっと見つめるが、ティリアの瞳は悲しみの色だけだ。俺が…君を悲しませたのか…。
「エーヴィヒ、私は貴方を愛しているわ。ティリアフラウの時に伝えた事を覚えてくれている?もし、また貴方が不安になったり足りなくなったら、私に言って欲しいとお願いした事。…帰還して、ちゃんと話さなかった私の間違いを、貴方は正してくれたわ。二人の事はちゃんと話し合うべきって。だから、ちゃんと話して?」
今、また俺を愛していると言ってくれた。愛していると言ってくれたのだ…!
俺の手を両手で包み、じっと見つめてくれる。
彼女もあの看護師達の虚偽を聞いたのか…この様子だとソースは久遠ではない…ではあの女か?
忌々しい!腹立たしいが、それよりも、ティリアだ。
あの悪夢を彼女が知ってしまわない様に…俺の口からは出ない様に。
ティリアは俺の言葉を待ってくれている。
「俺を…これからも、受け入れてくれるか心配だった。再会した時にも伝えたが、俺は君に子供がいようが、年齢が離れていようが関係無いと思っている。君は君だからだ。だがこの腕で君を抱き締めても、幾らキスを贈っても、現実では俺が幼すぎて、君を直ぐに支えられない事に不安になった。それならエーヴィヒのままでいたい。君とあの世界に戻って暮らしたい。そう思った。あの幸せな日々を夢物語にはしたくなかった。それが逃げだとしても」
再会したあの日。俺はもうこの腕からは君を離さないと言った。だが俺の腕の檻なんて、とても脆い。
つくづく俺はエーヴィヒでいたいのだと再確認した。俺はなんて情け無いのか。
「君は…君だけを見て、愛し、求める。そんな人を求めていたと言った。それは俺じゃなくても良いんじゃないのかと思った。久遠だって、俺と同じだからだ」
久遠も俺と同じ。ティリアフラウではなく君に想いを寄せている男だ。
久遠の本質は俺と同じだと確信している。久遠の方が巧妙に隠しているが。…多分、良いやつ過ぎた故のヘタれだ。
あのゲームの世界を医療機器に移植使用していると解った時点でこれも確信した。ゲームの著作権を持っている管理者…久遠が元々のエーヴィヒだ。
本来は、久遠が君と恋に落ちるべきだったのだろう。二人が並んでも違和感は無い。
でも、俺は…?
「久遠は君と年齢も近い。この仕事をしている位だ。社会的にも地位は低くはない筈だ。俺と一緒にいるよりも対外的にも君を幸せに出来る。だが、そう思っても何度思って考えても、帰還して君を一目見た時から…また君を愛してしまったこの想いが、もう壊せない。現実の君を、俺は知りたい。君と生きたいと願ってしまった」
年齢は関係無いと君に言った癖に、俺自身が年齢とそれに伴う経験に囚われている。
何故、俺は君よりもずっと年下なんだ。何故もっと早く生まれて来なかった?
「…貴方のその気持ちは、本音?」
「勿論だ。君に嘘は言わない」
「そうね。貴方は嘘は言わないわ。言わないだけで」
ティリアの声がかすかに震えている。
知られたく無かった…。やはり彼女は、看護師を使って俺が久遠を騙した事を知ったのか。
何故こんな事になった?俺が何をしたというんだ?ただ、ティリアを求めていただけなのに…あぁ、自分の至らなさをまた棚に上げている。愚かだ。
「私を…とても心配して思ってくれていたのも、知っているわ。だからこそ貴方と距離を置く事も考えた。私が貴方の邪魔になるのなら、もう、離れた方がいいって」
別れ話が出た。また胸が抉られていく。嫌だ…嫌だ…。
「ティリア、それだけは、嫌だ!君の俺への愛だとしても、それは駄目だ!君の気持ちが俺に有っても、それは嫌だ、駄目だ!」
君が側にいないと俺はもう、駄目なんだ!君を失うなんて、耐えられない…。すり抜けていく。
「…」
ティリア…返事をしてくれ。
「ティリア!」
離れないでくれ、君を…失いたくない…。
俺が穢れている事も、知ったのか?否、それならもっと違う言い方をする筈だ!
嫌だ…嫌だ…どうしたらいい?
「エーヴィヒ。私も、貴方と離れる事はもう出来ないの。貴方を、私は求め過ぎてしまった。今後、私と一緒にいる事で、嫌な思いも辛い思いも、それこそ山の様に貴方を襲うでしょう。それに私達はこれからこの世界で生きていくの。今までとは違うわ」
ティリアの表情が見た事の無い表情へと変わる。
「ここでの私は、私だけの…貴方だけの私では無い。貴方だけを見つめて、貴方だけの私でいる事は出来ないの。そんな私でも良いのなら…私は、貴方が望んでくれるのなら、貴方の側にいたい」
溺れている俺と違い、君は現実を見ていた。
俺が必死に隠している事を、もしかしたら知ってしまったのかもしれないし…最初の久遠と同じ様にあのけだもの共の虚偽を信じてしまっている可能性も有る。…これは俺の恐れだ。
だが彼女が話をしてくれている事は、現実世界で生きていく事への、彼女と一緒に生きていく事への俺の覚悟の確認だ。
俺はここでやっと、彼女が深く俺を想ってくれ、一緒に生きてくれる事を選んでくれたと、気付いた。
実の息子と年齢が変わらない男との生涯を選ぶ…。俺にとっては些細な事だが、母親である君にとっては、かなり大きな覚悟になっただろう。
俺はやはり幼い。
好きだ、愛している…その気持ちだけで守れるモノはきっと、俺が思っているよりも、もっとずっと少ないのだろう。
それを俺に気付かせる様にした。あぁ…ティリア、やはり俺には君しかいないのだ。
「君は…俺との事を、そんなに考えてくれていたのか?俺と一緒にいる為に?…俺は君に甘え過ぎていたのだな。この世界で君と生きていく為に、やはり俺はやらねばいけない事が沢山有るんだな…」
彼女は髪を解いた。ふわりとその肩に流れ落ちていく。
「改めて、私は浜坂 幸です。貴方のお名前は?」
優しく微笑んで見つめてくれる。
君は、既にティリアではなくなっていたんだね。
俺も、もうエーヴィヒではない。あの場所へは戻れないんだ。
「俺は…司波 誠です。幸さん」
君は、俺の中の色んなモノを流し、君を俺にくれたんだ。
特別入館証を久遠から渡された。
「久遠…本当に用意してくれたのか。すまない、手続きが大変だっただろう?ありがとう、嬉しいよ」
今日、俺は退院する。暫くは通院が必要だが帰還してから四週間程で退院出来るとは思わなかった。
「いいんだ。君も私にとっては大切な友人だ。君達の力になれる事は余り無いが、それでも君が私を頼ってくれたのは嬉しかった。…無くすなよ?」
「友人?違うだろ、恋敵だろ?お前に幸を奪わせないからな」
瞳の奥を見る。久遠の中には未だに幸が住んでいる。
「…これからも彼女を頼む」
だが彼女には未だ暫くは久遠の存在が必要だろう。
「こちらこそ」
堅く握手した。
「と言っても、荷物を置いたらまた直ぐに戻ってくるがな」
「程々にしておいてくれよ」
久遠は苦笑いをした。




