66 side:エーヴィヒ 10
そっと頭を優しく撫でられ、抱いていた腕を外された。ぼぅっとして身体が動かない。ティリアいかないでくれ…俺を置いていかないで。
頭がはっきりして気付く。ここはティリアの病室だ。トイレに行っただけの様だ…置いていかれた訳ではない。
用を足して石鹸で手を洗った後、彼女は薔薇を花瓶に活けながら匂いを嗅いでいる。
思い悩んでいる様だ。俺との事か?ティリア、すまない。もう…離したくはないんだ。どうか俺を受け入れて欲しい。
ティリアの背後から腰の当たりを抱き締めた。
「!」
物思いに耽っていたのか、とても驚いている。
「俺の側を離れちゃ駄目だろ、ティリア」
離したくなくて、そのままティリアの右肩に顎を乗せて密着する。あたたかい。
「ごめんなさい、起こしちゃったのね?具合は…。エーヴィヒ、顔色が悪いわ、休みましょう」
俺の体調をとても心配してくれている。その瞳に何故か俺の劣情が強くなる。
「君に触れたい」
右頬を頬ずりして告げる。離したくない。
「今、私に触れているわ」
そのまま頬と首筋にキスする。このまま君を俺だけの女にしてしまいたい。強い劣情とドス昏い想いがなだれ込んでくる。穢れてしまった身体で君を愛したくはないと思っているのに、欲しい。
こんな事を願ってしまったら余計に彼女が離れていってしまうのを解っているのに止まらない。
「…解っているだろう?」
いくらあの世界での俺達が恋人同士だったとはいえ、現実世界での俺達はまだそこまで至っていない。
俺の気持ちや想いが君にあっても、君の現在の気持ちが何処に有るか解らないのに…一線を引かれているのに。
欲しい、君が欲しい。今まで自制出来たのに異様な程に渇望する。なんて浅ましいんだ。
「わ、解らないわ…」
「嘘付き…解っている癖に。君の身体が、欲しい。愛したい」
うわずった声を出したティリアの臍の辺りを撫でる。俺の手に唇に愛撫に反応している。可愛い。胎に入りたい。身体を繋げたい。欲しい。…俺の欲望ばかりだ。
「ティリア…愛したい。ここでの君の身体も。向こうでは出来なかったが、俺を刻み付けてしまいたい…俺の女にしたい」
耳元で囁き、耳を甘噛みする。もう既に彼女は真っ赤な顔をしてとろけた顔をしている。何て可愛いのか。…俺を受け入れて欲しい。
「いいだろ、ティリア…」
ティリアを強く見つめて、精一杯、誘う。
しかし彼女の言葉は拒絶だった。
「今の状況や状態では…身体に負担が掛かるから、まだ駄目よ。ちゃんと養生しないなら、貴方を置いて私が出ていくわ」
とろけた顔から必死に元に戻そうとしている。
まだ、と言葉が有った。俺の身体を心配してくれているのか?次は本当に有るのか?
…彼女が側を離れる方が苦痛だ。一時の激しい劣情よりも彼女がいなくなる方が、辛い…。
「それは困る。…ティリア、俺はこの部屋にいつまで滞在できる?」
ふと、長時間この部屋に滞在していて何も無い事を疑問に思った。
「明日よ。久遠さんが今日と明日は巡回を止めてくれる事になっているの」
久遠…。もう色々と知られた可能性が有る。情けない話だが、このまま久遠を利用させて貰おう。あいつの様子だとそんなに低い地位では無い筈だ。
「解った。その間は誰にも邪魔されずに君と居られるという事だな。眠るのが惜しい…」
ティリアを離したくなくて抱き締めて顔や頭にキスの雨を降らした。またティリアの顔が赤くなってきた。
「エーヴィヒがちゃんと休まないなら…」
ティリアは俺の胸を押して離れようとする。また拒絶された様で苦しくなり、きつく抱きすくめる。
「離れるな。俺の側にいろよ。でないと…俺は」
「大丈夫よ、側にいるわ。だからちゃんと休んで欲しい。このまま眠る準備をするから、エーヴィヒ、貴方は先にベッドに入っていて?貴方が心配なの」
そっと左頬を撫でてくれる。いつもティリアが触れてくれる手は優しい。
「解った」
てのひらにキスをして、その身体を離した。
ティリアは開けていた窓を閉めたり、カーテンを閉めたり、ドアの施錠確認をしている。
俺の病室と違って、ここの病棟はちゃんとプライバシーが守られている事に安心した。…本来はこれが当たり前なのであって、あの病棟が異常なだけだ。今夜はあの病室に戻らなくてもいいのだと思ったら、心底ほっとした。
まだ明るい時間帯だがカーテンを閉めると室内が少し暗くなり、室内の雰囲気が変わった気がした。
…きっと彼女はこれを最後に俺から離れてしまうだろう。そんな気がする。それは仕方の無い事だ…。
冷蔵庫からペットボトルを出している彼女を呼ぶ。
「ティリア」
「なぁに、エーヴィヒ」
彼女は微笑んで応えてくれた。
「おいで」
俺はベッドに座って両腕を広げ、最後の望みと願いを込めて誘った。
「俺の腕の中に、早く、帰っておいで」
「エーヴィヒ…」
一瞬でティリアの瞳からぼろぼろと涙がこぼれた。
久遠が何故、頑なにティリアとの面会を拒んでいたのか解った。
俺が現れてしまった事で、彼女に負担をかけていた事に今更ながら…気付いた。
俺はやはり愚かだ。焦って自分の気持ちばかりでティリアの気持ちとまた向き合っていなかった。現実世界での彼女が、自分よりもずっと年上だという事はかなり前…学園時代の彼女の様子から気付いていたのに。
彼女は色々と見えていたのだろう。だからこそ現実世界での俺との再会を久遠を通して拒んだのではないか?
「ティリア…いいよ。君の楽な方を選んでいい。俺が君の邪魔になっているなら、俺を…選ばなくても、いいんだ。君が幸せなら…それが俺の幸せだから」
本音だ。君が幸せなら俺も幸せだ。だが。
「でも本当は、俺を選んで欲しい。…ティリア、君は俺の全てだから。俺は、君さえいてくれれば、何でも出来る」
これも本音だ。君が欲しい。俺が君を幸せにしたい。貪欲だ。
「エーヴィヒ」
「…こんな言い方したら駄目だな。君は俺の籠から出られなくなる」
自分の事ばかりで嫌気がさした。こんな男、君に嫌われても仕方が無い。
「エーヴィヒ…ごめんなさい」
謝罪の言葉に心が抉られる。一瞬、息が出来なくなった。苦しい。
ティリアは涙を流しながらよろよろと俺に近付いてくれる。
「私は…」
卑怯な俺は君からの先の言葉が聞きたくなくて、遮る。
「いいよ。本当は、解っていたんだ。現実世界に戻った瞬間に、君を失ってしまう事は。…解っていたのに…俺が諦めが悪いから。俺が…君を愛し過ぎてしまったから…」
「違うわ!私がいけないの」
今度はティリアが俺の言葉を遮った。彼女の声が通るのは知っていたが、窓ガラスが震える程の声量の有る声を発するとは思わず、驚いた。
「…エーヴィヒは悪くないの。私がいけないの。私があの世界で貴方に伝えていた気持ちは、嘘偽りも無い、本心よ。本当は、今もエーヴィヒに愛されたいし、愛したい。でも、本当の私を知ったら…貴方を…傷付けて失ってしまうと思った」
彼女の心は今も俺に有った!
だが俺を慮って離れる事を考えていたというのか?
彼女は以前、俺の邪魔にならない限りはいつまでも側にいさせてと言った。現実世界での君が俺の邪魔になると判断したのか?
それは、違うだろう。君の俺への想いだとしても、それは違うよ、ティリア。
「ティリア、前も言ったが。俺の想いを、君が決めつけないでくれ。それは俺が判断する事だろう?」
彼女をこの腕の中に迎え入れる。涙でぐしゃぐしゃの瞳の奥を見つめる。俺を求めてくれている時の瞳だ。指で涙をぬぐう。
「俺との年齢差?…多分、十歳位、君の方が年上か?生活環境はそれだけ離れていれば異なるのは当たり前だろう?そんなのは、気にならない」
止まらない涙をキスで吸い取る。
「それだけじゃないの」
「やっぱり男がいるのか?」
数年来ずっと気になっていた事を、思わず問い詰める。君は俺の女だと言ってくれたのに、俺は狭量だ。
だが彼女の言葉は予想出来ない、とても…衝撃的な言葉だった。
「…子供がいるの」
一瞬で頭が真っ白になる。
「今年、高校生になった息子がいるの」
「高校生?息子?」
頭が混乱する。今、ティリアは何て言った?子供?息子?高校生?どういう事だ?
俺が触れただけで、キスをしただけで、あんなに真っ赤になるうぶで可愛い彼女が、母親?人妻だというのか?俺以外の男が、彼女のとろけたあの可愛い顔を見ているというのか?彼女の中の大事な人とは、夫の事か?嫉妬心でくらくら目眩がする。
「私、バツイチなの。息子と二人で暮らしているの。両親は健在で別居」
バツイチ…なら、もう夫はいない。彼女を抱いて子を成した事への嫉妬や、過去の彼女を苦しめただろう事に苛立ちを覚えるが、彼女にとってはもう過去の男だ。
それに彼女は言っていた。余り恋愛経験が無いと。それは本当の事なんだろう。彼女はいつでも真っ直ぐに俺を見て愛してくれた。
この若さで十六になる子供がいるという事は。
「君、結婚、かなり早かったのか?」
「今年、四十二歳。貴方は多分、二十代でしょ?私の方が倍年上なの…言えなくて、ごめんなさい」
ティリアはぼろぼろ泣いている。
俺の両親と歳が余り変わらない事にも驚いた。
「息子さんと俺は、五つしか歳が離れていないのか…」
彼女を胸に抱いて優しく頭を撫でながら、天を仰ぐ。
俺が子供の立場ならどう思うか、想像する。しかも思春期だ。
母である自分と女である自分とでせめぎ合い、ティリアは苦しんだだろう。
「それじゃ、悩むよな…」
抱き締めながらあやす様に頭にキスをする。
「…そうか!君が現実世界に残してきた未練って、息子さんの事か!」
「ええ」
「なんだ…俺はてっきり、男かと思っていたよ。母親なら、子供が大事なのは当たり前だな」
彼女の大事な人は確かに男だったが、息子さんの事だとは思い至らなかった。…ティリアが母親なのも思い至らなかったが。深く安堵した。
「親子って言っても難しいから友人からだな」
歳が近いから逆に難しいか?いや、受け入れるし、受け入れて貰える様に俺が努力するだけだ。
他に隠し事が無いか、ティリアの顎に手を当てて持ち上げた。
「ティリア。他に俺に言えなかった事は?」
彼女の瞳の奥をぐっと見つめる。見つめ返してくれる。
「貴方とはきっと一緒に居られないから、貴方と離れると決めた事」
親指でティリアの唇を撫でる。
想定していた事だが少し胸が痛い。
「…他に隠している事は?」
「エーヴィヒだけが、欲しい。貴方と一緒にいたい。貴方の腕の中に帰りたい」
俺の元に戻ると言ってくれた、俺を受け入れてくれた!
「もう帰って来ているよ。おかえり、ティリア」
嬉しすぎて顔がにやけてしまう。
「やっと、君をこの腕の中に戻せた」
嬉しすぎて、ティリアの顔中にキスをする。
「エーヴィヒ、私を許してくれるの?こんな酷い仕打ちをした私を?」
些細な事だよ、君が俺の元に戻ってくれるのなら。それに。
「母親なら、子を思う気持ちが消せないのは当たり前だろ。…俺との子供じゃないのが残念だが。母親が女になった姿を子供に見せたくないのも、見たくないのも子供の立場としては解る。年齢は、どうしようも無い。だがそれ以前に、俺は君を愛している。この話を聞いても、想いは全く揺らがない。安心して俺に堕ちて」
どうか、このまま俺だけの女でいて欲しい。穢れてしまった俺をこのまま受け入れて欲しい。
願いを込めてティリアの唇に優しくキスをした。
…俺は、狡い。本当は伝えるべき事なのに、君が欲しくて、黙っている。
だから、君にはいままで通り本心だけを伝えておきたい。
「ティリア。俺は今まで君以外に恋をした事が無いんだ。心を惹かれた女性もいない。…さっきも言ったが、現実に戻った時には、君を失うだろうと思っていた。しかし現実世界での君に、また一目で恋に落ちてしまった…。だから俺の君へのこの想いは、とても執念深くて重いだろう。…もう、俺の腕からは離してはあげないよ。いいね?」
君は応えて受け入れてくれた。
「エーヴィヒ…嬉しい。ずっと側にいるわ。私だけを抱き締めていて。私を離さないでね。もう、離れないで」
「司波くん、貴方のやり方は間違っている」
ティリアの病室で過ごした翌日、俺の病室にやってきた久遠に責められた。
「何に対してだ?」
ティリアが俺の腕の檻の中に戻った事に浮かれ、あの看護師達が夜間に来なかった事に安堵していた俺は、久遠を騙した事をすっかり忘れていた。
「ゆ…ティリアの病室を調査するのに看護師を使っただろう?しかも貴方に想いを寄せている看護師達を。人としても男としても、それは、そのやり方は違うだろう?」
俺に想いを?そんな筈が無い。奴らは高笑いや下卑た笑いを浮かべながら俺を玩具扱いしたのだ。
どう久遠に説明したんだ?あのけだものどもは。怒りがこみ上げる。腸が煮えくり返る。
「俺はティリアを裏切る様な事は、一切していない」
きっぱりと告げる。
例え久遠だとしても事実は言えない。結果的に久遠を騙して利用し、俺はティリアの病室をを知ったのだから。…久遠に助けて欲しいとは言えない。言える訳も無い。
「看護師達からしつこく俺の願いを聞かれたから、答えただけだ。別に利用なんかしていない」
夜に起こった事を思い出し、気持ち悪さと共に吐き捨てる様に言う。
あのけだものに利用されたのは俺だ…おぞましい。あの女達が看護師だなんて。…世の中の全ての医療従事者達から侮蔑を受けるがいい。
「司波くん…?」
久遠は何かに気付いたのか?俺の瞳をじっと見ている…気付かれたくはない。気付かないで欲しい。
「久遠も知っているだろう?俺にはティリアだけだ。ティリアしかいらないし、他の女性は煩わしいだけで、どうでもいい。正直、帰還してから昼夜問わず、ずっと女性看護師達に散々煩わされていて迷惑しているんだ。あれは俺に対しての好意なんて上等なモノでは無い。迷惑行為…犯罪以外の何物でもないと思っている。男性看護師のいる別の病棟に変えて欲しい位だ」
まくし立てる様に言った。
「解った。司波くんの希望は、要望として話を通すよ」
久遠は俺が看護師達を操ったとでも思っているのだろうか?
何かを久遠が感じたとしても、絶対にティリアには言わないだろう。…久遠もティリアに恋している男だからだ。
「あの看護師達は、まだ暫くは俺の担当のままなのか?」
恐怖が甦ってきた。今夜もあの女達が来るのかと思い、身体が少しだけ震えた。…男でこれなのだから、女性だったらもっと怖いだろう。
「医療従事者なのに私利私欲の為に守秘義務を守れない看護師は問題外だろう。弊社への契約違反にも当たる。君の担当からは昨日付で外された。病院側での処罰は、私には関係無い事だから知らないが」
久遠にしては珍しく冷たい言い方をした。
「そうか…ありがとう」
無意識に久遠へ感謝の言葉を発していた。
結果的に、久遠があの地獄から助けてくれたのだ。
…久遠、すまない。あの世界で気の置けない友人の一人でもあったお前を、信用していない訳ではないんだ。
この時間に話をしに来たという事は、俺の言い訳を聞く為に、忙しいお前の時間を割いてくれてるのは解っている。
このタイミングで話をするべきか…だがフラッシュバックも恐ろしく、話せなかった。




