女神さまは気づかない
あれから、あたしはほとんど眠りにつくことはなくなった。
少年、ナルシスが御礼だと言ってはこの屋敷に通い出し、屋敷中をきれいにしてまわるのをルーチンにしてしまったからだ。貴族の子息のすることではないのに、いい運動だと言って、箒をかけたり雑巾をかけたり。指輪で発動できる屋敷の清掃魔法があるのだけど、彼は自分の手で磨き上げることにこだわった。実際、人の手が入るのは画一的な魔法にはない良さがある。ついついその奉仕を喜んでいるうちに、屋敷はよみがえり、庭もきれいになっていった。
特にナルシスは庭仕事が本当に好きになったらしい。
「次は何を植えようか?」
なんて定位置と化した客間のソファで、今日も花図鑑を眺めている。
その姿はすっかり青年だ。背も伸びて、もう仔豚とは呼びようもない。数年前から剣術を習っているということで、程よい筋肉もついた。長く伸びた銀髪は後ろでひとつに結んで、目元をすっきりと見せている。制服姿だとごく一般的な好青年、いや美青年といってかもしれない。その中指にはいまも木の指輪がはまっている。
「この薔薇はどう? そろそろうまく咲かせられそうな気がするんだ」
「いいけど、たまには白以外の花でもいいんじゃない?」
あたしはその脇をふわふわと浮きながら、ちゃちゃを入れた。するとじっとあたしを見つめて、ナルシスは応える。
「でも、ぼくは白が好きなんだ」
挙動不審だった子どものころとは違って、彼はよく人の眼を見て話す子になった。自信に満ちていて、通っている学校でもしっかり優秀な成績を残しているらしい。横暴で短絡的な白豚ぼっちゃんのおもかげはもうない。
出会ってもう十年以上、その間の少年の変貌ぶりに、月日の早さを実感する。
「じゃあ、ナルシスの好きなようにしたらいいわ」
「ありがとう。うまくいったら、また冠をつくるよ」
「ええ、楽しみにしているわ。そのころはちょうど花祭りね 」
「うん、祭りの晩はランタンを持ってくる。楽しみにしていて」
年にいちど行われる初夏の花祭り。平民たちは街に出て皆で一日飲めや歌えやの大騒ぎをするものだが、貴族たちは自宅の庭で、紙でつくったランタンを飾り、夜通し花と星を楽しむことを好む。
「ねえ毎年だけど、ほんとうにお屋敷はいいの?」
「父も兄も仕事で忙しいから。二番目の兄も領地で過ごすだろうし。それに、ぼくが外に出れば屋敷のみんなも休めるんだよ」
「そう、でもそろそろ付き合いもあるでしょうに」
「ぼくはまだ学生で、しかも末っ子だからね」
淡々と言って、二人分のお茶を手ずから入れる。すっかり器用だ。
「ああ、そういえば。学園に聖女があらわれたんだ」
「聖女?」
なんでも平民育ちの少女だそうだ。黒髪に鳶色の瞳を持ちながら強い魔力の持ち主だったことで、特例で転入してきた。濃い色の髪目は平民のしるしだが、ひとつだけ有名な例外がある。
偉大なる魔法の始祖、初代聖女は黒髪黒目だった。
「だから聖女だと?」
「うん。それで、同級生に第三王子がいるのは話したよね」
「ええ、入学式で、三番目同士仲よくしよう、って言ってきたって子よね」
「そう。その殿下が、王命で聖女のフォローにまわることになって、ぼくも付き合わされている」
「フォローってなにをするの?」
「ぼくもさいしょ意味がわからなかったんだけれど、周囲になじむように見守れって。なにせ平民育ちだから、いろいろと振る舞いが奇矯でさ。貴族の暗黙のルールが通じないんだ。殿下のことを君付けで呼ぶし、殿下の婚約者の公爵令嬢もきりきりしてて……でも魔力が高い上に聖女だから、みな遠慮もあるし…………」
言い淀んだ言葉のさきはわかる。
貴族という階級社会は複雑な力関係でできている。魔力という実力と爵位という立場に一定のバランスをもたらすのが、ルールとマナーだ。それを無視する実力者があらわれれば、様々な波紋が生まれるだろう。特に学校という狭い社会では、きっと嵐にもなりうる。
「大変ねえ」
「大変というか……見ていられないよ」
「どうして? ああ、昔の自分を見るみたいで?」
茶化してみると、彼は拗ねるでも恥じるでもなく、苦笑いを浮かべた。
「あなたにはかなわないな。その通りだよ」
「その割に余裕ね」
「だって、いまのぼくには女神さまがいるから、」
「あたし?」
「うん、いつもぼくを導いてくださる、白い女神さまだ」
言いながら立ち上がった彼は、流れるようにあたしの右手をとらえた。甲をかえして、そこへ口づける。リップ音。洗練されたしぐさは、貴公子のようで。
「……大きくなったわねえ」
しみじみとつぶやくと、美しく成長した仔豚ちゃんは昔のように、ちょっぴり情けなそうに目じりを下げた。