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6:「鬼狩り」になった日

「あ。四時半」


 そろそろ戻ってこられる頃かなと思いつつ、あたしは緊張と慣れないスーツで凝った肩をぐるりと回した。ひとつ息を吐いて、きりよく最後の一ページまで読み終えた資料のファイルを閉じる。

 最初はとっつきやすいようにということなのか。ひとまず「鬼狩り」の仕事の実情を知れということなのか。桐生さんに渡されたのは、昨年の桐生さんたちの任務報告書の控えだった。

 目を通し終えたのはほんの一部だけれど、さすが「特A」と思うような内容ばかりで。為になるというよりは感嘆しか出ないというレベルではあったのだけれど。


 ――でも、本当に、勉強することだらけだなぁ。


 任務はもちろんだけれど、それ以外の事務仕事も覚えることが山積みに違いない。頑張って、少しでも早く覚えていかないとなぁと思いながら、あたしは席を立った。ずっと座りっぱなしだったので腰を伸ばす。

 ついでに、お手洗いにも行ってしまおうと外に出る。もともとがビルだからなのだろうけれど、三人きりしかいないフロアでもトイレは男女別にある上に、個室数は人数分以上ある。

 でも、きれいなのはうれしいな。やっぱり。給湯室もちゃんとあるし。明日さっそくマグカップ持ってこようかな。職場に受け入れてもらえる感じがあるとやはりうれしい。

 ふんふんとご機嫌に事務所のドアを開けようとしたところで、あたしは首を傾げた。


「ん?」


 もしや引き戸だっただろうかと引いてみたもののやはり開かない。


「え? 嘘。開かない?」


 だって、鍵なんてなかった。なかったはずだ。押しても引いても開かない。むしろドアノブすらびくともしない。ということは。

 もしかして。……もしかして。


「鬼の……呪い?」


 そんなもの、授業で習った記憶はなかったけれど。でも、だって。特A事務所だ。授業なんかで教えられないレベルの代物が眠っていたのかもしれない。もしかして、それが渡辺さんのあの鈴で呼び起こされちゃったとかなんとか……。

 そこまで考えて、あたしは一気に青くなった。も、もし、それが本当なら、えらいことだ。なんとしてでも中に入って様子を見ないと。

 恥も外聞もなくドアをガチャガチャやっていると、なんだか手のひらがじんわりと汗ばんできた。


 こ、怖い。でも、中でなにかが起こっているかもしれないのに、ほうっておくことなんてできるわけがない。仮にも。仮にも、憧れの鬼狩りの第一歩を踏んだ日に!

 必死に開かないドアと格闘していると、ぽんと誰かの手が肩に置かれた。


「ひぃ!」


 うっかり叫んで腰を抜かしかけたあたしを見下ろしていたのは、ほかでもない桐生さんだった。


「き、桐生さん……」

「え。ごめん。そんなに驚かせた? というか、なにして、――あぁ」

「そうなんです! 鬼の呪いでドアが」

「ごめん。ライセンスがないから中に入れへんかったんやろ? って、鬼? 呪い?」

「え、ライセンス?」


 きょとんとお互い顔を見合わせたのち、しどろもどろなあたしの話を聞き終えた桐生さんは、苦笑としか言いようがない顔で謝ってくれた。

 いわく、外部からの侵入者を防ぐため、事務所入り口はライセンスをかざさない限り開けることができないらしい。


 ……よかった。もっと早い段階でうっかり外に出ていなくて。もっと悲惨な目に合っていたに違いない。今でも十分、穴があったら入りたい心境ではあるけれど。


「ごめん、ごめん。フジコちゃん。僕らが悪かった」

「いえ、その。あたしが勝手に勘違いしただけなので」


 真っ赤になりながら、桐生さんの指示の下、キャビネットにファイルを直す。ここにあるのは過去三年分の写しだそうだけれど、なかなかの量だ。


「フジコちゃんのライセンスもたぶん来週くらいには届くし。それまではちょっと不便かもしれんけど、堪忍ね」


 ライセンスかぁ。国家資格に合格しているわけではないから研修生仕様のものだろうけれど、それでも今から楽しみだ。「はい」とご機嫌に頷いたあたしに、桐生さんが世間話の続きのように口を開く。


「でも、そんなに『鬼』が怖かったん?」


 一瞬、ファイルを並べていた指先がぶれた。気が付かれていないといいなぁと願いながら、へらりと笑う。


「鬼の呪いだって思ったら、頭が真っ白になっちゃって。呪いなんて、あたし今まで聞いたことも見たこともなかったですもん」


 勘違いだったのだから、聞いたことも見たこともなくて当たり前だったわけだけれど。


「まぁ、僕もあんまり聞いたことはないけどねぇ」

「あんまりってことは……あるんですか!?」

「んー、フジコちゃんも学校で多少は習ったかもしれんけど、鬼のすべてがわかってるわけじゃないからねぇ。そんなものはないなんて決めつけんほうがいいとは思うよ、なにごとも」


 のんびりとした口調だったけれど、特Aの鬼狩りの口から出たと思うと、なんというか、いやに信憑性があって恐ろしい。

 こくこくと頷いたあたしに、桐生さんがついでとばかりに説明を始めた。


「鬼についてわかっている確実なことは、ふたつだけ。本性を表すとき鬼の瞳が紅く染まること」


 それが鬼が本性を現すときのサインだということは、きっと多くの人たちが知っている。見てなお生き残っている人間がどれほどいるのかは定かではないけれど。


「もうひとつは、心臓を潰さない限り、鬼は死なないこと」


 人間とは線を逸する強靭さを持ち、不死ではないけれど、たとえ怪我を負ってもあっというまに治してしまうという鬼の唯一にして最大の弱点。だから、人は鬼を恐ろしいと判断する。敵うはずがない、と。

 神妙な顔で頷いたあたしに、桐生さんが付け足した。


「そして、これはおまけやけど。その強靭な鬼と対抗できるのは、鬼狩りだけということ」


 残りのファイルを大きな手で元通りに戻して、桐生さんがほほえむ。時刻はちょうど五時を指したところだった。


「今日はお疲れ様、フジコちゃん。ひとりでほうっといてごめんね」



 鬼は、謎に満ち満ちた存在だ。

 時の政府が鬼の存在を公式に認めて数十年経とうとも。はるか昔から歴史の裏で、鬼に対峙していた先人がいようとも。

 鬼のすべてが解き明かされることはない。

 それは、なぜ、鬼があたしたち人間の世界に、いきなり介在してきたのかということも含めて。


 紅屋の入っているビルを出て、研修生用の寮に向かう。徒歩十分強。研修生たちのなかでも一番通勤時間が短いのはおそらくあたしだ。

 人通りの少ない川べりを歩きながら、あたしは空を見上げた。まだ明るい夕闇だけれど、西の空に一番星を見つけることができた。

 明るく輝く宵の明星。


「怖くない」


 呟いてみたけれど、やはりどこか空々しく響いた。

 鬼という存在すべてを怖いと思っているわけではない。それは本当だ。けれど、人を襲う鬼は、と問われると答えに窮してしまう。あの紅い瞳は。あたしたち人間を餌だとしか思ってない凶悪な瞳は。人間を切り裂く鋭い爪も、太刀打ちできない強靭な体躯も。そのすべてを忘れることはできない。

 「鬼狩り」として生きていくのならば、そんなことを言っていては駄目だということは重々わかってはいる。だから。

 怖くない自分でいたいと思う。そうありたくて、誰かのためになりたくて、「鬼狩り」を目指した。あの人みたいになりたいと願って、「鬼狩り」になった。まだ見習いではあるけれど。


 お父さん、お母さん、それから瑛人。

 十年前。死んでしまった家族の顔を思い浮かべながら、あたしは祈る。

 十年前、鬼によって殺されてしまったあたしの家族。


 むやみやたらと鬼を怖がる必要はありません。

 鬼に襲われるような事態はめったなことでは起こりません。


 そう、あたしは学校で学んだ。弟はまだ学んでいなかった。だって、小学校に入学する直前のできごとだったのだ。そうだよねと思っていたし、今でもある意味ではそう思っている。

 人間に害を成そうとする鬼ばかりではない。人間とともに生きる意思を持った鬼が大半だということもまた事実だ。

 だって、そうでなければ、この世界は成り立たない。いくら人間側が抑止として「鬼狩り」を育てたところで。圧倒的に数が足りないのだ。だから、今の世界の共存は、お互いの意思の下で形成されたものだ。


 でも、と同じ心で思う。

 同じ場にいたはずなのに、なんであたしだけが救われたのだろう、と。

 雷に撃たれるような凶運で、あたしたち家族はたまたま襲われて、そしてたままあたしだけ、宝くじに当たるような強運で間一髪、あの人に救われたのだろうか。あの人。あたしが人生ではじめて見た「鬼狩り」。


 ――ラッキー、かぁ。


 思い悩みそうになって、まぁ、でもラッキーではあるかと考え直す。命あっての物種だ。とはいえ、さすがにそう思えるようになるまでに時間はかかったけれど。

 でも、そのおかげで。あの人に助けてもらったおかげで、あたしは生き残って、成長して、そして今日、目指していた鬼狩りの第一歩を踏み出した。

 だから、つまり、そういうことだ。言い聞かせる。そういうことなのだ。


 お父さん、お母さん。瑛人。

 もう一度、胸の中で名前を紡ぐ。

 あたし、今日から「鬼狩り」になったよ。


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