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32:ひとつの結末

 紅屋のドアの前で所長たちと別れて、あたしはひとりでドアを開けた。はじめて実戦で使用したライセンスをかざして開錠。電気を付ける。誰もいない事務所をぐるりと見渡して、自席まで歩く。時計の音だけが静かに響く室内で、あたしは込み上げそうになる感情を必死で飲み下した。

 椅子に座った瞬間、呑み込み切れなかった溜息が零れて、頭を振る。


 ――そうだ、月報。これも仕上げちゃわないといけないんだよね。


 敢えて違うことを考えてみたけれど意味のない抵抗だったかもしれない。頭のなかからは、なにも消えてくれない。

 それでもなんとか切り替えようとパソコンを立ち上げた瞬間、ドアが開いた。


「お疲れ、フジコちゃん。初出動が終わったにしては、浮かん顔やね」

「桐生さん……」


 慌てて顔を取り繕って立ち上がる。


「お疲れ様です。あの、今日って、まだ、お仕事……?」

「そんなこと言うて。フジコちゃんもまだ残ってるやん」


 座り、座り、と笑顔で促がされて、あたしはぎこちなく腰を下ろした。


「あたしは、その、なんというか」

「どうしたん。反省会中やった?」


 そこでその優しい声は反則じゃないだろうか。笑おうとして失敗して、ぎゅっと拳を握り込む。


「フジコちゃん?」


 大丈夫です。ただちょっと疲れちゃいました。ご迷惑をおかけしてすみません。今日は本当にいい勉強に、――。

 言うべきはずだった言葉の代わりに、甘えが零れ落ちる。駄目だ、こんなことでは。もうひとりのあたしはたしかにそう言っているのに、止められなかった。


「桐生さんがいなかったら、なにもできなかったです。あたしがしたことぜんぶが裏目に出て、リュウくんも怖い目に合わせて」

「ついでに下手したら、僕もフジコちゃんも死んでたかもしれんし?」


 あたしは声を失ってしまった。

 桐生さんの声は変わらず優しい。なのに、言っていることはひどく恐ろしい。けれど、それは、本当にそうなったかもしれない、――あったかもしれない未来なのだ。


「っ、……」


 あたしのよかれと思った選択が、誰かを殺したかもしれない。奪ったかもしれない。今ここに、みんな無事でいなかったかもしれない。

 それは、間違いようもない恐怖だった。 


「あのね、フジコちゃん」


 あたしの顔色は、きっと酷いものだったのだろう。桐生さんの声音が仕方ないというように和らいだ。


「はい」

「自分の行動を省みるのは大事なことやけどね。僕が最初に止めてたらよかっただけのことでもあって。それで、それをせんかったのは、フジコちゃんには必要経験かなと思っただけ。そして、僕がフォローできると判断しただけ」

「……でも」

「だから、まぁ、さっきのは言い過ぎました。ごめんね。フジコちゃんがどんな選択をしても、そのくらいで僕もフジコちゃんも死にません」


 あっさりと桐生さんは言う。そんなふうに言えるようになるまでに、どのくらいの年月がかかるのだろう。どれほどの努力が要ったのだろう。あたしには想像もつかない。


「重ねて言うなら、もしそんなことにうっかりなっても、フジコちゃんの責任やなくて僕の責任やからね。まぁ、そんな蒼くんに大激怒されそうなこと死んでもせんけど」


 矛盾だらけの台詞で締めくくって、桐生さんが小さく肩を竦めた。


「僕とペアじゃなかったとしても、たいていの鬼狩りはフジコちゃんがあの無謀な行動を取ろうとする前で止めます。フジコちゃんも、止められてまで自分の考えを強行するほど馬鹿じゃないやろう? そうであれば、フジコちゃんもその鬼狩りも死にません。あの小さい子が救われたかどうかは、また別問題になるけどね」

「でも、あたしは……」


 生きてさえいれば、なんとでもなるだなんて。独善でリュウくんを連れ出しただけだ。


「その答えは、フジコちゃんが出す必要はないよ、きっと。本人がどう思うかというところやしね。救われたの救われなかったの、なんていうのは。何年か経ってからようやくわかることもあるやろうし」


 生きてさえいれば。あたしがそう思えるようになったのは、何年経ってからだっただろう。当初は一緒に死んでしまいたかったと思っていた。

 それでも、あたしは、感謝している。自分の命があったことに。もし、もし、叶うならば。

 罪を償った父親とリュウくんがまた逢える日まで支えていきたいと思った。あたしの勝手にならないように、ちゃんとリュウくんと話をして。桐生さんや省庁にも相談して、意見を窺って。すべてはそこから、ではあるけれど。


「桐生さんも、そういったご経験はあるんですか」

「うん。あるよ」


 それにもまたあっさりと桐生さんは答えてくれた。


「僕だけじゃなくて蒼くんもあると思うよ。十年も鬼狩りをやってたら、一度や二度、誰でも経験するんと違うかな。もちろん、そのすべてがいい方向に転がることはないけどね」

「……はい」

「それでも、僕らは続けていくし、フジコちゃんもそうするんやろう?」


 その言葉に、はっと息を呑む。桐生さんは静かにあたしを見ていた。膝の上で手のひらを握りしめたまま、しっかり頭を縦に振る。


「っ、はい」


 鬼狩りになりたかったのは、最初は憧れだった。今も憧れがある。けれど、遠かった憧れは、紅屋で過ごすなかで身近になっていった。


「鬼狩りやなんやいうても、ただの人間やから。よくないことやとわかっていても、情が理性的な判断を上回ることもある。よかれと思ったことが悪手になることもある。いつまでもそれやとあかんけど。でも、まぁ。それが許されるのが、フジコちゃんたち研修生の特権やね」


 特権。あたしは心のなかで繰り返した。


「上からの指示待ちだけやと、大きな失敗も後悔もないかもしれんけど、なんの成長もない。だから、フジコちゃんは今の環境にめいっぱい甘えて、フジコちゃんにとっての最善を考えたらいい。それが『鬼狩り』として正しいのかどうかも」

「……はい」

「フジコちゃんのフォローくらい、僕も蒼くんも、いくらでもできるんやから」


「はい」と、あたしは溢れる感情を噛みしめて頷いた。

 いつか。この人たちみたいになれるだろうか。身近になったけれど、その分、とてつもなく遠くなったようにも思う。間違いなくこの国の最高峰の鬼狩りなのだ。

 でも、そこを目指して遮二無二がんばれるのも、特権なのかもしれない。研修生の。そして、幸運にも紅屋に配属されたあたしの。

 あたしを見つめていた桐生さんがにこりと笑って、から恐ろしいことを言った。


「じゃ、まぁ、折角やから、記憶の新しいうちに書類も作っとこうか」

「えぇ!?」

「明日、なにがあるかわからんしねぇ。というか、あ、フジコちゃんは明日休みか。いいなぁ」

「え? 休み? 金曜ですよね」


 目を大きくしたあたしに、あれ、と桐生さんが首を傾げた。


「蒼くんに聞いとらん? 今日も時間外になったし、はじめての出動やったんやから、三連休にしてゆっくり休め、やって」


 聞いてないし。というか、明日も来るつもり満々だったし。今日の任務もだけれど、その前に月報。結局あたし終わってません。泣き言めいたあたしの訴えに、桐生さんは、「まぁ、ほぼほぼ出来てたから、月曜に蒼くんに判子貰ったらえぇんちゃう」と。こともなげに言って、任務報告書も面倒やからねぇ、と嫌な言葉を付け足した。


 ――そういえば、前も言ってたなぁ。桐生さん。任務がかさむと事務仕事的な意味でも地獄が始まるって。


「ほな、まぁ。気兼ねなく休むためにということで、今日のほうだけでもやっとこうか。文字にすると整理もできるし。それに、なかなか眠れんかもしれんしね」


 たしかに疲れているけれど、眠くはない。まだ興奮の余韻が残っているのかもしれない。でも。

 時刻はあたしが事務所に入った時点で八時を指していた。桐生さんは残業する必要なんてないんじゃないだろうか。その証拠に、所長もいないし。ということは、たぶん、桐生さんに急ぎの仕事はないということで。


「あの……」

「僕は寝られへんかったらしいよ。はじめての出動って、ほんまに小さいころのことやで、はっきりとは覚えてへんけど」


 あたしの問いかけを遮って、桐生さんが続ける。


「普通に怖がってたらしいよ、僕も。まぁ、兄貴が言うには、やけど。たぶん、あれ……いくつのときや。十になる前くらいの話やし、記憶の彼方で」

「十になる前……」


 思わずあたしは反復していた。十になる前、って。怖い怖くない以前の問題じゃない。少しそう思ってしまったけれど、桐生さんや所長のお家だったら当たり前なのかもしれない。


 鬼狩りのライセンスを取るには二つの道がある。一つは、あたしのように鬼狩り育成校を卒業して、一年間の研修ののち国家試験を受けること。

 もう一つは、五年以上の実戦経験のある人が三名以上の推薦を得て、国家試験に臨むことだ。

 後者は圧倒的に旧家や大家の人たちばかりで、……最近は余程じゃない限り、みんな学校に通っているから、本当に稀ではあるらしいのだけれど、ゼロではない。

 桐生さんは育成校を出ていないと言っていたから間違いなくそうなんだろうし、所長もきっとそうなんだろう。


 幼いころからずっと、そうやって戦ってきて、今のふたりがあるのだとしたら。配属されてすぐのころ。「どうせこの人たちはあたしとはすべてが違う」と感じていたそれが、ひどく失礼だったのだと改めて思い知った。

 追いつくためには、本当に文字どおりの血を吐くような努力が必須だなぁ、とも思いながら。


「でも、良くも悪くも、その感覚も麻痺してまうんやねぇ、いつのまにか。それが当たり前になって」

「……怖くなくなるってことですか?」


 問いかけたあたしに、桐生さんは笑って、それからあまり答えにはなっていないことを言った


「そういう意味では、蒼くんの言うとおり、たまには研修生の面倒を看るのもいいのかもしらんね」


 それが、あたしを採用して下さった経緯だったのだろうか。

 以前、みっちゃんに説明したとおりだったのだろう。そう、あたしは勝手に思っている。たぶん、良い意味でも悪い意味でも誰でもよかったのだ、きっと。もしかしたら、みっちゃんがここに座っていたかもしれないし、違う誰かが座っていたかもしれない。

 嫌だなと思った。たぶん、ほかの人なら、あたしより面倒をかけなかったと思う。桐生さんたちにとっては、そのほうが少しであれ楽だったのではないかなとも思う。でも。嫌だと思った。

 だからこそ。結果論であれ、選んだのがあたしでよかったと。少しでも思ってもらえるように、あたしは頑張らなきゃいけない。


「さて。というわけで、あと残り二時間ほど頑張りましょうか。ある程度のかたちにできるまで」

「はい、お願いします」

「帰りは送ってあげるから、安心していいよ。蒼くんじゃなくて申し訳ないけど」


 決意を新たに勢い込んだあたしは、その言葉にも「いえ」と元気よく返事をして。……しばし、沈黙。ちょっと待って。ちょっと、待って。今、桐生さんはなんて言った?


「え、いえ、えぇ!?」

「ほんまに素直やねぇ、フジコちゃんは」


 しばしの間の後、叫んだあたしに、しみじみと桐生さんはそう言って。いや、違う。違うんです、と自分あてなのか桐生さんあてなのかわからない言い訳を繰り広げながらも、きっと桐生さんは信じてくれないのだろうなぁと知る。

 信じてくれないだろう理由については、あえて触れないことにしたい。


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