27:いちばんおそろしいもの
「っ、い……た……」
なんとか足から着地できたけれど、ピリピリとした衝撃を肌に感じて小さく呻く。
噴煙で一メートル先も見えない。床に着いた指の先がクロスボウに触れて、元いた場所に飛ばされたのだと悟った。
――今、あたし、突き飛ばされた……よね。
そうでなければ、たぶん、あたしは爆発の中心にいたはずで。突き飛ばしてくれたのは、間違いなく桐生さんで。
「桐生、さん……?」
爆風に咳き込みながら、あたしは喘いだ。あたしが無事にここにいるということは、桐生さんはどこにいるの。不安を呑み込んで立ち上がる。
「桐生さん!」
クロスボウを握りしめて叫ぶ。けれど、返事はない。一歩足を踏み出す。大丈夫、身体はどこも痛まない。でも、じゃあ、桐生さんは? リュウくんは?
「桐生さん! リュウくん!」
そうだ。できていなかったけれど、いまさらだけど、しっかりとこの場に集中して。集中して、戦況を、状況を把握しないと。そう言われていたのに。あたしは努めて一度、大きく息を吐いた。火薬の匂いがする。
あの瞬間、なにかが爆ぜた。爆ぜた中心にいたのは、……爆ぜさせたのは、きっと、いや、リュウくんだ。
……B+。
あたしはごくりと唾を呑み込んだ。
鬼の能力は遺伝する。親がB+なのなら、子どももB+である確率が高い。
あたしが、この場に、もうひとりのB+を呼び寄せた……。
「リュウ、くん……」
視界がゆっくりと開けていく。その先に立っていたのは、小さな「鬼」だった。身長はたぶん、さほど変わらない。けれど、額から生えた二本の角と紅い瞳が、大きく違っていた。
「リュウくん」
なにをしたの、とは聞けなかった。この子は、父親を守ろうとしたのだ。もう一歩、彼に向かって足を踏み出す。リュウくんの視線の先にはなにもなかった。コンテナボックスや棚、たくさんあったはずのものは、きれいさっぱり消失している。
――桐生さん。
嫌な想像に血の気が一瞬で引く。ううん、いや、大丈夫……。絶対、大丈夫なはずだ。だって、あたしを逃がしてくれるだけの余裕はあったのだから。あの人は、いくつもの死線を乗り越えてきた特Aの鬼狩りだ。
「リュウくん」
何度目になるのかわからない呼びかけに、リュウくんが振り返った。感情のない紅い瞳が大きく瞬く。そして、糸が切れたように彼の身体が崩れ落ちた。角が消える。
駆け寄ろうとした衝動を寸前であたしは堪えた。立ち上がる影が見えたからだ。鬼。
鬼の、――父の手が小さな身体を抱き上げた。その顔には、満足そうな笑みが浮かんでいる。
「感謝すべきかもしれないな」
ざらざらとした声が低く響く。
「我が子を連れて来てくれたばかりか、我らの味方をしてくれたのだから。たいした『鬼狩り』だ」
鬼が笑う。同じ場所で向かい合う威圧感に、スーツの下で肌が泡立った。声が、出ない。
でも、そうだ。あたしのせいだ。あたしが全部の引き金を引いた。
勝手に自分に重ね合わせて、目の前の確保対象から注意を逸らし、子どもを探しに行った。暴力の場に子どもを連れ込んだ。そして、父親が傷つく場面を見せてしまった。そして、――。
リュウくんを一番傷つけたのは、あたしだ。諍いの中心に向かわせてしまったのもあたしで、「子どもでも鬼だ」と言う桐生さんの忠告を無視したのもあたしで。挙句、斬らないでほしいと縋ったのはあたしだ。
その歎願を受けて桐生さんが切っ先をわずかに下げたのも、後先を考えず飛び込んだあたしを助けたせいで初動が遅れたことも。ぜんぶ、ぜんぶ、あたしのせいだ。
手に持っていただけだった武器をあたしは構えた。安全装置は外れている。矢羽の先端が指す方向には鬼がいる。
……心臓は、狙えない。
リュウくんに当たる。鬼は弱点を隠すように息子を抱いている。
「ハヤギ・リュウト。今すぐに投降しなさい」
声は、震えていないだろうか。いや、きっと震えていた。でも、あたししかいない。この状況を引き起こしたのはあたしだけれど、それでも、見習いでも、あたしは「鬼狩り」だ。「鬼狩り」だ。言い聞かせる。「鬼狩り」だ。鬼の脅威から、人間を襲う鬼の悪意から、彼らを守る「鬼狩り」だ。
鬼の紅い瞳に嘲りが浮かぶ。
「震えているぞ」
「っ、……投降しなさい」
「小娘の細い身体でなにができる」
鬼が一歩、こちらに向かって動いた瞬間、誤魔化しようがなく肩が震えた。そんなあたしを一瞥して鬼はくるりと方向を変える。行く先は、向かう先は、一番被害の大きかったところで。そっちは。
「止まりなさい!」
今度こそ、あたしは叫んだ。ハヤギ・リュウトを狙ったクロスボウは、いつでも発射できる。
――そのはずなのに。
ぎゅっと唇をあたしは引き結んだ。
脚が震える。指先が震える。クロスボウの先端も、ずっと震えている。安定していない。でも、でも。
ここまできて「怖い」という感覚が消えない。怖い。目の前にいるのは、すぐ傍にいるのは、人を害する「鬼」だ。あの夜と同じ、紅い目の「鬼」だ。
――ねぇ、ミス・藤子。
耳の中に響いたのは、いつかの恭子先生の声だった。
いや、いつかなんかじゃない。はっきりとあたしは覚えてる。最終課題のあと、今後をどうするかと面談をした日のことだ。
進路指導室で、恭子先生は困ったような微笑を浮かべていた。もしかすると、自発的にあたしに辞めると、諦めるとそう言ってほしかったのかもしれない。
――ミス・藤子。卒業すれば、「鬼」にひとりで立ち向かわなければならないときが訪れるかもしれないのよ。あなたは、そのとき、立ち向かうことができる?
――もしできないのなら、その武器を置きなさい。あなたは、「鬼狩り」になるべきではないわ。
でも、あたしは首を縦には振らなかった。できますと豪語した。あたしは鬼狩りになりたい、ならなければいけないんです、と。
必死で訴えたあたしに、恭子先生はカウンセリングを受け、実技復帰の許可をもらうことを条件にあたしにチャンスを与えてくれた。
そしてあたしは、見習いではあるけれど「鬼狩り」になったのだ。
お父さん、お母さん、瑛人。
あたしだけのおまじないだ。うれしいとき、苦しいとき、つらいとき、もうひとりで生きていけないと泣きたかったとき。
あたしは何度も何度もその名前に、思い出のなかの笑顔に縋ってきた。
お父さん、お母さん、瑛人。
あたしね、本当に強い鬼狩りになりたかったの。なって、無理なことだってわかっているけれど、あの日のみんなを助けに行きたかった。みんなの明日を守りたかった。
それなのに。
なんでこんなにみっともなくあたしの身体は震えているんだろう。
自分の忙しない息遣いがいやに耳についた。
いやだ、いやだ。こんな自分があたしはいやで、変えたかったはずだ。
お父さん、お母さん。瑛人。――所長。
所長。
最後になぜか所長の顔が浮かんだ。問題はないんだなと、あたしは何度確認されただろう。あたしがここにいるのは、所長はあたしの返事を信用してくれたからだ。
あたしの内心は、きっと見抜かれていた。だって、所長だ。それでも、あたしが問題ないと言ったから、所長は送り出してくれたんだ。
所長は。所長は、――。
怖いと思うことがあると、もっと怖いことを想像するようにしている。
はじめてふたりで外を歩いた夜、所長が言っていたことを思い出した。
優しいと思って、同時に不器用な人だとも思った。あたしよりずっと年もキャリアも上の人に失礼だというのは重々承知だけれど。
所長はぱっと見は怖いけど、とても真面目で誠実な人なのだとあたしは思う。たったの一ヶ月しか一緒にいないけれど、情の深い人だとも思う。
あたしなんかの言葉もしっかりと受け止めてくれる、そんな人だ。
桐生さんは、嫌な顔ひとつせずあたしの面倒を見てくれる、どこまでも優しい人だ。
新人の教育なんて面倒だろうに、細やかにあたしの内面までフォローしてくれる。この一月、あたしがどれだけ桐生さんに救われたかしれない。きっと桐生さんだって知らないくらい、あたしは何度も何度も救われていて、なのに、あたしはなにも返すことができていない。
鬼よりも怖いもの。
あたしは心のうちで繰り返した。
鬼より怖いもの。
瞬間、じわりと心を浸食したのは、あたしの一番恐ろしい記憶だった。
お父さんとお母さんと瑛人が倒れている。誰も起きない。起き上がることはない。
視界の端では恐ろしかったはずの鬼が倒れていて、あたしの前には膝をつく鬼狩りがいた。
――助けられなくて、すまない。
助けられなかった。誰にも助けられなくて、あたしのそばには誰もいなくて、あたしは、――。
あたしは、ひとりになった。
「……いやだ」
知らず声が溢れた。ひとりはいやだ。ひとりはいやだ。
もうみんなの声を聞くことができないのだという、朝になってもあたしはひとりなのだという、あれ以上の絶望を、恐怖を、あたしは知らない。
あたしは、――もう、ひとりは、いやだ。
誰も死んでほしくない。
ひとり残されるのは、もういやだ。それが誰であろうと。あんなに寂しい思いも、怖い思いもしてほしくない。生きて、ほしい。
あたしが殺さなかったら、やらなかったら、死んじゃう。桐生さんも死んじゃう。




