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15:不意の来客

 ビルの階段を勢いよく三階分駆け上がる。スカートスーツで走る苦痛も、クロスボウを常に背負う重さも、最近は気にならなくなってきた。これが、「慣れて」きた、ということなのだろうか。もしそうであればうれしいのだけれど。

 朝の早いこの時間は、二階より上で誰かと出会うことは皆無なので、気は使わず一段飛ばしで目的地に向かう。人気のないビルも、朝の光のなかでは寂しさも怖さもない。

 とはいえ、医局のある一階が慌ただしい朝は、前夜に恐ろしい事件があったことと同義なので、あたしはできるだけ一階も無人であってほしいと願っている。


「おはようございます!」


 ライセンスで解錠する前に息を整えて、ドアを開ける。室内には予想どおり、ふたりの姿があった。

 本当は、新人のあたしが一番に出勤しなければならないのだとは思うのだけれど。配属初日、桐生さんに「蒼くんの勤務時間に合わせたら早々に身体壊すから止めとき。精々が十分前出勤でえぇよ」と止められてしまったので、あたしは始業三十分前の八時前後に顔を出すことにしている。


 所長が何時に出勤しているのか疑問だったのだけど、先だっての桐生さんの発言でひとつ謎が解けた。そりゃ、出勤時間、ほぼゼロ分だったら、早くもなるよね……。

 といっても、あたしも出勤時間十分強だけど。


「あぁ、おはよう。フジコちゃん。今日も朝から元気やね」

「昨日も遅くまでお疲れさまでした」

「フジコちゃんもね、お疲れ様」


 にこりと愛想よく応じてくれる桐生さんのいつもどおりに、あたしもほほえんだ。自席にリュックとショルダーバッグを置いて、ジャケットの裾を整える。そして少しだけ気合を入れて、所長の机の前に向かう。


「おはようございます」


 顔を上げた所長も、見慣れた気難し気なそれだ。いつのまにか、それも、あたしのなかではいつもの光景としてインプットされてしまったらしい。

 緊張はするものの、それでも、桐生さんの笑顔と同じで、なんとはなしに落ち着くものに変化していた。


 ――もうそろそろ、ではあるけれど、まだ一ヵ月も経ってないのに。そんなものなのかな。


「なんだ?」


 訝しげな声に、二言目を続けるタイミングも、立ち去るタイミングも、逸していたことにはたと気が付く。


「いえ、なんでもないです。お茶でも飲まれますか」

「構わない」


 本日のプラス一言、終了。ばっさりと切り捨てられて肩を落としたあたしに、苦笑いと一緒に助け舟が降ってきた。


「あ、ほんなら、フジコちゃん。僕にちょーだい」

「わかりました。珈琲でよかったですよね」


 桐生さんは基本的にブラック。ちょっと濃い目くらいのほうが好き。

 ちなみに、だけれど。所長はあまり珈琲を飲まない。もしかして飲めないのだろうか、と密かに疑っているのだけれど、さすがにそれを聞く勇気はまだなかった。



 八時半を少し過ぎたころ、事務所のドアがコンコンと鳴って、来客を告げる。


「ラッキーちゃん、ラッキーちゃん」


 ラッキーちゃんという呼び方も多少は聞き慣れたものの、やはり犬みたいだ。その呼び声に悪意がないことはわかっているから、嫌な気はしないけれど。


「おはようございます、渡辺さん」


 紅屋のドアを開けると、予想どおりの顔があった。二階にお住いの術具職人の渡辺さんだ。


「おう、おはよう。ラッキーちゃん。今日もかわいいねぇ」

「あはは、ありがとうございます。渡辺さんもお元気そうでなによりです」


 ともすれば、ヤクザかと言いたくなるようなご人相に、これまた渋い笑みが浮かぶ。はじめてご挨拶をした際は恐れおののいたけれども、今となってはそれも笑い話だ。昔からのご近所さんのような親近感を勝手ながらあたしは覚えている。


「今日はどうされたんですか?」


 数日前に顔を出されたときは、「どうせ客が来るのは午後からだから暇なんだ(相手しろ)」だったなぁ、と思いながら問いかける。渡辺さんの返事より先に返ってきたのは、ぞんざいな所長の声だったけれど。


「おい、じいさん。そいつは一応、ウチの訓練生であって、じいさんの孫じゃないからな」

「なんだ、蒼坊。嫉妬か、わしに」

「……その呼び方はいい加減にやめろと何度言ったらわかるんだ、あんたは」


 みし、と所長の机から嫌な音がした。マウスかな。ボールペンかな。マグカップではなさそうだけれど、もはや選択肢が多すぎてあたしには判別が付かない。愛想笑いのまま固まるあたしの正面で、渡辺さんが渋面を作った。


「わしはもう受話器は直さんぞ。わしの専門は術具であって、家電修理じゃない」

「誰が頼むか、あんたに」

「今月の頭にも直してやっただろうが。桃弥が頼むから、仕方なしに、ではあるが。もうやってやらんからな」

「桐生」


 トーンの下がった所長の声に、知らぬ存ぜぬを突き通していた桐生さんが、小さく肩をすくめた。

 あたしが孫、というよりかは、所長が孫だ。渡辺さんの年齢的には、おじいちゃんと言われたくはないとは思うけれど。たぶん、七十に手が届くか届かないか、くらいだろうし。


「えー、だって、仕方ないやん。ナベさんに頼んだら、経費で落とせるんやから」

「経費」


 思わず呟いたあたしに、桐生さんは「僕ら、一応、公務員やからねぇ」と応じて、所長に釘を刺した。 

「というか、そもそもとして、蒼くんが壊さんかったらいいだけの話やからね、これ」

「それで。今日はなんの用だ」


 分が悪いと判断したのか、所長が話を元に戻した。今までに一体、どのくらいの数の備品を壊しているのだろうか。一瞬、そんな疑問が浮かんだけれど、深くは考えないことにする。


「このあいだみたく、じいさんの茶飲み話に突き合わせるのなら、三十分以下にしろ。就業中だ」


 三十分は認めてあげるんだぁ、と思ったのはあたしだけではなかったらしい。ご機嫌に目元を緩めて渡辺さんが、紅屋に入って来た。あたしもそっとドアを閉じる。

 自席に戻る手前。桐生さんが所長の死角で笑いを噛み殺しているところを見てしまったわけだが、賢明なあたしは気が付かなかったことにした。

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