13:休日の朝
スマートフォンのアラームが鳴り響いている。早く消さないと、またみっちゃんにうるさいと怒られてしまう。
この部屋の一番の欠点は壁が薄いことなのだ。そう思う程度には頭は回るのだけれど、まだ覚醒には至っていない。布団に包まったまま右腕を伸ばして目当てのものを掴む。アラームを解除して、ついでに時刻を確認。
……八時、ニ十分?
「あ! 仕事……!」
叫んで飛び起きて、数秒。あたしははたと我に返った。
「そうだ。今日、土曜日だった」
基本的に紅屋は土日休みの週休二日制の勤務体系をとっている。もちろん、緊急招集などが入れば土日もあったものではないし、そうでなくとも「持ち番」の当たり月は不規則な勤務体系になってしまうらしいけれど。
カーテンの隙間からは、いい天気だとわかる光が一筋入り込んでいた。すっかり覚めてしまった頭で、あたしは一度伸びをする。そして、窓辺に寄ってカーテンを引いた。予想どおりの清々しい春の青だ。
食堂のカウンターで一汁三菜のしっかりとした朝食を受け取って――繰り返しになるけれども、あたしはこの研修生寮に在寮する一番のラッキーは、時間内に足を運びさえすれば、美味しいごはんを食べられることだと思っている――、きょろりと周囲を見渡した。
土曜日の九時近いということもあって、寮生の姿はまばらだ。そのなかで、右奥の窓際の席でひとり優雅に珈琲を飲んでいる同期の顔を見つけて、あたしはいそいそと駆け寄った。
寮にいるもう一つのラッキーはこれだなぁ、なんて思いながら。
「みっちゃん、おはよう!」
「あんたはいつでも元気ねぇ」
あたしの大盛り仕様のプレートをちらりと見て、みっちゃんが溜息交じりにソーサーにカップを戻した。朝からお疲れ気味というか、お疲れマックスのご様子だ。
「どうしたの? 昨日、遅かったりしたの?」
「むしろ、今、帰ってきたところよ。ウチの事務所、今月が持ち番で。まったく、しょっぱなから当たるなんて運が悪いというか、なんというか」
「あー、大変だね、それは」
お疲れ様、とあたしも眉を下げる。「持ち番」というのは、緊急通報があったときに一番に駆け付ける役目を担う事務所のことだ。地区ごとに持ち回りで組まれていて、一ヶ月交代で回されているそうなのだけれど。
二十四時間いつでも出動可能な体制を取らなければならないので、今日のみっちゃんのように夜勤も発生することになる。
そして、おまけに、緊急通報の対応以外にも、街中を巡回する仕事も追加されるそうで、それはそれは忙しいことになるらしい。……桐生さんいわくのそれに、あたしは六月に回ってくる持ち番を今から恐れおののいている。
「あたしのところはまだだけど、怒涛の忙しさらしいね」
「怒涛。まさに、そうだわ。怒涛よ、怒涛。今日はこのまま寝て過ごすの」
そのわりには珈琲を飲んでいるんだなぁ、と思ったけれど、余計なことは言わないことにする。お疲れのみっちゃんの沸点はいつもの二割増しで低くなるのだ。
もくもくと焼き鮭の身を解していると、みっちゃんがおもむろに会話を再開した。
「あんたのところは小規模事務所だから、どこかと抱き合わせになるのよね」
「そう、そう。といっても、特Aの事務所は回ってくる回数が少ないらしいんだけどね」
三人きりの事務所で(おまけにあたしはほぼ戦力外なので実質ふたりだ)、持ち番を一月もできるわけがない。ということで、同じような条件の小規模事務所と合同で持ち番に当たるのが通例だそうだけれど、桐生さんいわく「それはそれで気を遣うから面倒くさい」らしい。
とどのつまり良くも悪くも、あのふたりに釣り合う事務所はほとんどないのだと理解した。実際のところ、ウチよりもお相手のほうが気を遣っているのではないかなぁと思ってしまったことは内緒だ。
「いいわねと言いたいところだけど。その分、重大緊急案件が発生したら、持ち番であろうがなかろうが声がかかるものね。特Aは」
「はは。うん、まぁ、……そんなこと起こらなけれいいなぁとは思うんだけど」
特Aにお声がかかるような緊急案件とか。想像するだけで恐ろしい。愛想笑いを浮かべて、あたしはごはんを口に放り込んだ。
「そういえば、このあいだ、恭子先生、様子を見に来てくれていたのよ」
「え、嘘! いつ、いつ。逢いたかったなぁ」
「あの日よ。あんたが遅くなって、こともあろうか所長様に送ってもらって帰ってきた日よ」
勢い込んだあたしに、みっちゃんが冷たく言い放った。あ、これ、絶対、根に持ってる。確信して、あたしはえへらとほほえんだ。
「大丈夫だって。みっちゃん。あの、そのときも言ったと思うけど、所長、そんなくだらないことで怒ったりしない……と、思うよ?」
「……あんたにわかるわけがないわ。あの瞬間のあたしの絶望を」
みっちゃんの恨み節に耐え切れなくなって、ついと視線を逸らす。
……いや、でも、あれって、あたしが悪いのかなぁ。
「だから言ったのに。びっくりするくらい、所長が童顔だったって」
「聞いたわよ。聞いたけど。まさか、本当にあんな学生みたいな見かけをしてるとは思わないじゃない……!」
はは、と乾いた笑いを浮かべて、あたしはお味噌汁に口を付けた。やっぱりお出しの味って、ほっとする。
なにを隠そう、みっちゃんは、あの日の夜。ちょっと疲れて、自室でひとりチューハイを空けていて。そしてお酒に弱いみっちゃんは、あっというまにほろ酔いになっていて。酔い覚ましにと自室の窓を開けて。そこで見てしまったわけだ。
なにをって、あたしとあたしを送ってくれた所長を、だ。
「あら。奈々ってば、忙しい、忙しいって泣きながらどこでオトコ掴まえたのかしら、なーんて思ったあたしが馬鹿だった」
「……」
「もしかして年下の学生かしら。やだー、奈々ってば、かわいいの掴まえちゃってー、なんて思ったあたしが馬鹿だった」
まぁ、あの夜は、いつにもましてな格好だったからなぁ、所長、と。あたしはその一点に置いてはみっちゃんに同情した。
「なんで、あたし、あんなことしちゃったのかしら……。いや、酔ってたのよ。ちょっと、酔ってたのよ。ちょっとかわいい年下を揶揄いたかっただけなのよ」
頭を抱えていたみっちゃんは、顔を上げるなり、やけくそ気味に叫んだ。
「まさか、それが特Aの天野の人間だなんて思わなかったものでね!」
つまるところ、みっちゃんは。うっかりあたしと所長を見てしまって。うっかり、所長を同年代どころか年下と判断して。……うっかり、窓から親し気に手を振って。それだけに飽き足らず、投げキスまでプレゼントしたそうだ。
投げキスって今日日聞かないなぁと思ったが、さすがにその追い打ちはかけなかった。なんというか、打ちひしがれているみっちゃんの姿があまりにもあまりだったので。
「普段は、あれだよ。スーツを着てたら、もうちょっと年相応に見えるよ?」
「なんのフォローにもなってないわよ。というか、年相応っていくつなのよ、結局。あんたのところの所長様は」
「……知らない」
知らない? と声を裏返らせたみっちゃんを「まぁまぁ」と宥めながら、話を戻す。桐生さんより年下ということは、二十代後半くらいかなぁと踏んではいるけれど。
どちらにしてもふたりとも特Aライセンス所持者というにはすこぶる若いことに変わりはない。
「恭子先生に変わりはなかった?」
「えぇ。そりゃぁもう、いつもどおりよ」
珈琲を飲んで一息ついたみっちゃんが、ふと顔を和らげた。
「恭子先生、あんたのこと、心配してたわよ。ミス・藤子は元気にやっていますかって」
「恭子先生……」
やっぱり、優しいなぁ、と。頭に浮かんだエレガントな先生の微笑に、あたしの顔も自然と綻ぶ。こうやって、卒業しても気にかけてくれるのだから、本当に先生は先生の鏡のような人で、そんな先生が担当だったあたし達は幸せ者だ。




