赤い腕輪
全て偽物だったのさ。元から偽物だったのであり、偽物になったのであり、偽物にされた。結局何も残らなかった。いや、後悔だけは……。
右腕に巻き付けてある赤い腕輪。奴隷の印。全部アイツのせいだ。
始業式の日というのに、俺は憂鬱だった。春休みが終わったから、なんて理由ではない。まあ少しはそれもあるが、別に俺は学校が嫌いなわけじゃない。うーん、これでもだいぶ語弊があるな。「普通」の学校生活ならば、俺は嫌いじゃないのだ。普通に勉強して、友達と遊んで、できれば彼女作って……。そんな平凡な学校生活だったならば、俺はここまで憂鬱にはならない。
学校の正門が見えてきた。思わず溜息を溢す。誰もが俺の腕輪を見ている。これは自意識過剰ではない。少しの好奇心と、ある種の侮蔑を帯びた目で遠くから眺め、避けて通ろうとする。彼らの大半は恐れているのだ。奴隷と関りを持つことを。自分たちも目をつけられてしまったら困るから。
俺はそれらをなるべく無視しようと心掛けながら、急いで教室へと向かう。目の端、掲示板に人だかりができているのが映る。新学年のクラスが貼ってあるのだ。皆誰かと一緒に騒いでいる。ハイタッチしている奴もいる。
しかし俺には関係のない話だった。俺のクラスは決まっている。一年前から決まっていると言ってもいい。
二年八組。通称「奴隷の八組」。
一年生の修了式の段階で、奴隷である者が所属するというシステムだ。
奴隷というのは、この美月学園に入学した際貸し付けられる「美月ポイント(MP)」を全損した者のことを指す。MPの貸し付けは強制的で、入学を決定したと同時にMP貸し付けにも同意したと見なされる。生徒はこれを使って学食や学内の売店の支払いをすることが可能。つまりプリペイドだ。
ただ、これは表向きと言ってもいい。実際、このMPで買い物する奴はほとんどいないのだ。なぜなら奴隷になりたくないから。
MPは基本的に追加チャージできない。入学時に一万ポイント分のMPカードを渡され、その後は入金できないのだ。
まあこれだけなら大した問題ではないし、「不便なプリペイドカードだな」で済むのだが、問題はさらにその後。MPは生徒で奪い合うことができる。できるというか、結果としてしなければならないのだ。
この学園では、MPが高い者ほど、よりよい待遇を享受できる。二年生からはMPによるクラス分けが行われ、最下位のクラスと最上位のクラスでは設備もまるで違う。そもそも最上位のクラスは専用の棟が設けられているほどだ。
ついでに付け加えておくと、MPによる学食・売店の割引も存在するし、生徒会選挙に対する投票権にも差がある。
たかが生徒会の選挙権と思われるかもしれないが、ここでは割と重要だ。MPが低い者たちが結集して、自分たちの待遇改善を要求することが実質不可能となるのである。
更なる制度として、MPが高い者は低い者に対して命令権を持つ、ということだ。これが一番の問題と言っていい。生徒間の暗黙の了解のようなものではなく、校則にそう記されているのだ。
まあこんな具合だから、生徒たちはMPを奪い合う。そして俺たちのような奴隷が生まれる。
ああそうだ、それともう一つ。奪い合う手段はゲームだ。ルール上は公平であり、勝敗が伴ったものならなんでもいい。
この学園はそういうところだ。
ちなみに、ここまで長々と偉そうに説明しといてアレだが、俺は入学初日に奴隷となった。ある一人の女に根こそぎ奪われたのだ。
「……相沢、おはよう」
「ああ」
靴箱で俺を待っているこいつ、新島綾香は俺の幼馴染だ。が、正直もう認めたくないものでもある。憂鬱の元凶はこいつなのだ。一年前、こいつは俺のMPを一日で全て奪っていった。これは美月学園が始まって以来、最速記録らしい。不名誉だ。
新島が俺を狙った理由は今もよく分からない。昔何か恨みを買うような真似をしたのかもしれない。俺たちは小学生の頃、家が近いこともあってよく遊ぶ仲だった。学年が上がるにつれてその頻度は減り、中学生の頃は多感な時期ということもあり、学校の廊下ですれ違っても喋ることすらなくなっていたが。
高校が同じということも知らなかった。春休みのある日、母親が「綾香ちゃんも同じ高校なんだってね」などと言われるまで知らなかった。母親同士の仲は昔から変わっていないらしい。
俺たちの仲は……、まあ察してほしい。何しろ「相沢」だ。昔は「弥生」と名前で呼んでいた。俺も「綾ちゃん」なんて微笑ましい呼び方をしていた。いや、中学の頃は「綾」だったかな。名前の呼び方だけで、どの程度距離が離れてしまったか分かるものだ。ちなみに現在は「新島」と呼んでいる。向こうが苗字を使うのに合わせた感じだ。
入学直後は何と呼ぼうか非常に悩んだのを覚えている。というか、向こうが初めて苗字で呼んできたとき、俺の脳内では「綾」のままだったから、ちょっと面食らってしまったのだ。あのとき俺が「綾」と呼ぶことを突き通せば、こいつは許したんだろうか。それとも、「その呼び方はやめて」なんて冷たくあしらったんだろうか。
結局、俺は苗字に逃げた。それはある種の反抗心と防衛線の意味を持っていた。奴隷にされたことが俺にはショックだったし、何よりその搾取の相手が幼馴染で、しかも実は恋心を抱いていたなんて、馬鹿らしいではないか。
だから俺は逃げた。強がったと言ってもいい。彼女に、そして自分自身に、ささやかな抗議をするしかなかったのである。
「てか新島、何でここにいんの?」
こいつは最上位の1組。つまり別棟だから、当然俺たち八組とは靴箱も違うのだ。
「お前が時間になっても来ないからだろう」
「悪い寝坊した」
実は嘘だ。こいつは去年から、俺と一緒に通学することを約束というか命令し、俺もそれに従っていたのだが、今日くらいは自由に登校したかった。だから忘れたふりをしたのである。
「一緒に学校に行くという命令は今年度も継続だ。それとメールは見たか?」
「いいや」
それも無視していた。
「だろうと思った。帰りは正門で待っていてくれ。一緒に帰ろう」
「分かったよ」
普通の男子高校生なら喜んでいる場面だろうが、俺はさらに気が重くなっただけだった。
「用はそれだけ?」
「ああ」
「……そう。じゃあな」
軽く手を挙げると、向こうは小さな声で「うん」と言った。
溜息が零れる。何でこんなことになったのか、よく分からない。四階まで上がって廊下に出ると、二年八組の表札が見える。ここで恐らく一年、皆に蔑まれながら過ごすのだ。そう考えると、俺はまた無意識に息を吐いた。