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紅の狩人 2

作者: 神崎 創

おことわり

◆この稿は「紅の狩人」の続きです。

◆作中、実在するものや制度等の名称であっても、そのまま用いると世界観や設定に不自然さを与えると筆者が判断した言葉については、独自の造語に置き換えてあります。特に、現代語では横文字と呼ばれる単語に対し、その傾向が強いと思われます。あらかじめご了承を願う次第です。

「――どうぞ、中へ」


 老執事に促され、重々しい扉の隙間をすり抜けるようにして部屋の中へ足を踏み入れたリオット。

 戸口で立ち止まり眼だけでちらと室内を一瞥してから、ほうと僅かに表情を動かした。

 やや横長の部屋。

 左右の壁は端から端まで六段の立派な書棚で、本がぎっしりと並べられている。ゆうに一千冊は超えていそうなものだが、それでも収め切れない書籍が書棚の足元、あちこちに堆く積み上げられていた。随分と精力的な読書家もいたものだと思った。

 正面へと目をやれば、大きな窓を背に、これまた大きな机が置かれている。離れて見ても美しい木目がわかるほどのもので、こちらを向いたその背、正方形と円を組み合わせた家印が彫り込まれているのだった。採光が十分なだけに、室内はことのほか明るい。

 机の向こう側、一人の初老の紳士が直立している。

 細身の身体を包んでいるのは、独特な仕立ての貴族衣装。きちんと整えられた側頭の残髪と口髭はすっかり白くなっていたが、漂わせている雰囲気は実に若々しい。普段は厳めしいのであろうその相好を、今は穏和に笑み崩しつつ柔らかな目線をリオットに注いでいた。


「……ようこそ、リオット殿。どうぞ、中の方へ」


 意外にも声に張りがあり、威厳と明朗さを感じさせる。

 予期せず好意的な態度を示され、軽く畏まっていたリオットは思わず微笑を返し


「リオット・ディアでございます。お部屋へと立ち入るご無礼、なにとぞご容赦を」


 丁重に一礼してから前に進み出た。まず一言ことわったのは、高位にある者を訪問した際の、当然の礼儀だからである。他人の私室に足を踏み入れるということは、非常に重大な行為とされている。

 が、老紳士はリオットが近寄っていくといよいよにこやかになり、自分から机の前へ出てきて


「いや、よく来てくれた。聞けば昨夜、東国の長旅から戻ったばかりだとか。疲れも癒えぬ昨今だというのに、急に呼びつけてしまって申し訳なかった。この私の我儘を、どうか勘弁して欲しい」


 握手を求めてきたのには、さすがリオットも驚いた。

 相手は国王の御前に罷り出ることを許された貴族、グリアノ中爵なのだ。普段なら、リオットのような平民がおいそれと近付けるような身分の人間ではない。

 ところが、そういう立場の者が自ら労りの言葉をかけたばかりか、傍へ寄ってくるなり手を差し伸べてきた。驚かないほうがどうかしているというものである。


「本来なら、応接の間に迎えて差し上げたいところなのだが、事は秘匿を要するのでね。余人の耳に入れば由々しき事態を招きかねない。よって、このようなむさ苦しい私の書斎に入ってもらった次第だ。ここならば、他の誰にも聞かれる心配はないからね」


 呵々と笑ったその表情や物言いは、もはや友好的といって良かった。

 こんな貴族もいたものか。

 リオットは穏和な笑みの内側で、そんなことを思ったりした。

 帰都早々見知らぬ貴顕者に呼びつけられ、正直億劫に感じなくもなかった。が、こうも態度で歓待を示してくれると、悪い気もしないというものである。

 ――彼が東国から戻ったのは日付も変わった深夜。街中がすっかり寝静まっている。

 平素から下宿代わりに寝泊まりさせてもらっている商人、ハインツの家の表戸を叩くと、もうだいぶ遅い刻限だというのに彼自ら家の中から飛び出してきた。リオットに負けず劣らず柔和な相好を持った、小太りの壮年である。富商とまではいかないが、それでもこの街では知らぬ者がない中商として名を馳せており、食糧を扱った商いを盛んにやっている。

 彼はリオットを一目見るなり喜びの声を上げ、旅塵に塗れた身体に抱き付かんばかりにした。


「おお、リオットさん、よくぞ戻られた! あなたの戻りを、一日千秋の思いで待ってましたぞ!」


 リオットはハインツの大袈裟過ぎる表現に苦笑しながら


「到着が夜分になってしまいまして、申し訳ありません。ローム川が雨で増水していて、渡しの船がなかなか出なかったのですよ」


 帰着が遅くなった理由を説明した。宿を借りる側の者として、当然の責任だと思ったからだ。

 が、ハインツは、そんなことはどうでもいいというように


「ささ、早く中へ。――おーい、ナーシャ! お茶を、お茶の用意を!」


 大声で家事婦を呼びつけたりしている。

 元々、尻に火が付いたように何かと気忙しい性格のハインツだったが、今は何か大事な話を持っているらしいと直感したリオット。一日千秋の思いで待っていた、というのが引っかかっている。

 案の定、若い家事婦のナーシャが運んできてくれたお茶を一口啜るなり


「……実はですね、リオットさん。さる貴族の方が、あなたに会いたいと言ってきたのですよ」


 円卓を挟んだ向こう側に座っているハインツ、しかつめらしい顔でそう切り出した。

 リオットは驚きもせず、素の表情のまま


「なるほど。グリアノ中爵殿が、妖魔に関する案件で相談があるから私に屋敷まで来いと仰せなのですね?」


 先回りして言ってやった。


「ええ、そうそう、そうなんです! グリアノ中爵様がですね、ひと月ほど前に――って、ええっ!?」


 大真面目に椅子から転げ落ちたハインツ。言わんとしたことをずばり当てられてよほど驚愕したらしい。この男は感情が表現や行動にはっきり現れ過ぎるから、こういうことがよくある。

 思わず吹き出しかけたリオットだったが、そこはぐっと堪えながらハインツを引き起こしてやった。

 椅子に座り直したハインツの顔が、なおも驚いたままになっている。


「私はまだ、何も言ってないのに! どうして、わかったんですか?」

「造作もありませんよ。ハインツさんが出入りを許されている貴族といえばグリアノ中爵ですし、会ったこともない貴族が私を直々に指名してきたとあらば、これはもう妖魔絡みの案件しかないじゃありませんか。――それにしても、ひと月前のお話とは、随分お待たせしてしまったようですね」


 種明かしをしてやると、ハインツは「なぁんだ」と相好を崩し


「リオットさんも、お人が悪い。私はまた、狩人にはそういう力でもあるのかと思いましたよ。……まあ、そのことは置いておくとして」


 円卓の上にぐっと身を乗り出した。


「帰着早々でお疲れのところ大変申し訳ないのですが、誰でもない、グリアノ中爵様からの依頼です。明日朝にでも、お出かけ願えませんか? グリアノ中爵のお屋敷には先に下使いの若者を走らせて、あなたの訪問を伝えておきますので」

「いいでしょう。ハインツさんのお顔もありますし、すぐに伺うとしましょう」


 頷いたリオットの胸中、実は別の思案がある。

 が、そのことは口に出す必要がないのであえて黙っていた。

 そうして翌朝、彼はグリアノ中爵の屋敷へ出向いてきたのである。

 グリアノ中爵は愛用している背もたれのついた大きな椅子に腰を下ろすと、傍らに置いてあった少し小さな、しかし高価そうな椅子をリオットに勧めた。

 言われるがまま、着席したリオット。

 彼が品良く座るのを見ながら、グリアノ中爵は


「その椅子は、孫のためのものでね。毎日ここで、孫に色々と学問を教えている。貴族に相応しい教養を身につけて欲しいという、まあ、年寄りのお節介なのだが」


 そんな説明を加えてきた。

 孫の椅子とはいえ、貴族が使っているそれに下位の者を座らせるという行為自体、稀有といっていい。要するに、歓待の意図をそういう表現で伝えようとしたのであろう。

 外は良く晴れ渡り、澄み切った青空がどこまでも広がっている。

 大きな窓からたっぷり差し込む午前の陽光が、正対している二人の横顔に降り注ぐ。

 グリアノ中爵は俄かに背もたれから身体を起こした。


「……では、本題に入らせてもらうとしよう。今から話す内容は、宮廷でもごく一部の者しか知らない」


 他言無用、とは念を押さない。

 それをやればリオットへの礼を失するのと同時に、自ら指名して招いた人間を信用しきっていないということになる。つまり、自分の判断が不十分だったとグリアノ自身で認めるにも等しいからだ。

 リオットもまたよく心得ているから「承知しております」と、そんな表情で頷いて見せただけである。

 グリアノ中爵の眼差しが深くなり、真っ直ぐにリオットをとらえている。

 いささかも目線を外さぬまま、ぐっと上体を乗り出しながら、彼はこう切り出したのだった。


「……リオット殿は『生媒術』というものをご存じかな?」




 五度目に空の酒杯を突き出されたとき、ミィナはさすがに受け取るのを躊躇っていた。

 並々と注いで渡しているはずが、ちょっと目を離した隙にもう空いてしまっている。酒杯といっても、並みのそれではない。大人の拳が二つすっぽり収まるほど容量の大きなもので、わざわざこの杯で注文してくる客は四人に一人といなかった。

 それを瞬く間に四杯も飲み干してしまうというのは、酒を楽しんでいる者のやることではない。溜まった鬱懐を発散できず、酒に逃げている者の飲み方ではないか。


「ジェシカさんてば、飲み過ぎですよ! 今夜はもう、そのへんにしておいたらどうですか!?」


 たまりかねて声を上げたミィナ。

 両手を腰に当て、怒った表情をつくっている。彼女としてはげんに怒っているつもりだが、顔立ちにも声にも歳相応の可愛らしさがあるから、いまいち怖さというものが伴っていない。

 まして、その相手は不貞腐れて自棄酒を呷ったジェシカである。

 早々に酔いの回った彼女は、円卓の上に突っ伏したまま、聞き取れないほどの小さい声でぶつぶつと独り言を呟き続けているのであった。ミィナの訴えが耳に入っている様子ではない。


「もうっ、ジェシカさん! 聞いているんですか!?」


 もう一度呼びかけると、ようやく酔っ払いは首だけでミィナのほうを向いた。


「聞こえて、ますよーだ。いいから、早く、持ってきてよぉ……飲み代はちゃあんと、あるんだから。大杯だし、店の儲けにもなるんだし、いいでしょ? ねぇ……」


 組み敷いた両腕に頭を埋めているから、肩越しに喋る声が聞き取りづらく、呂律もかなり怪しくなっている。普段は美しい切れ長の目が今はとろりとして半分閉じかけており、放っておけば眠ってしまうのではないかとミィナは思った。

 が、それは困る。

 今のジェシカは酒で身体が火照ったのか、得意の赤い折れ襟付き外套を脱ぎ捨ててしまっていた。ゆえに、上半身は胸回りしか隠さない革製の胸当て、下は腰回りを覆った下半身衣だけという、裸同然のあられもない姿である。他に客がいないのが幸いだったが、もし男客がやってこようものなら、たちまち視線を釘づけにするであろう。あるいは、暇を持て余して酔い潰れた踊り子と勘違いされるかも知れない。お色気で客を呼ぶ飲み屋などと噂が立ったらば、迷惑もいいところである。

 どうしたものかと、ちらりと部屋の片隅を一瞥した。

 積み重ねた酒樽の塔にもたれかかるようにして、一人の大男が立っている。

 すっかり毛髪を失った頭に細く鋭い目、顔の下半分を隠すふさふさとした髭。首から下は逞しく鍛え上げられた筋肉が肩や胸に盛り上がっており、袖のない薄手の上衣が今にも破れんばかりにはちきれていた。腰に巻かれた前掛けがことのほか小さく見え、どこか滑稽な服装に見えなくもない。

 男はミィナの目線に気づくと、無言で髭だらけの顎を僅かにしゃくった。

 看板を下げてこい、という意味である。

 店仕舞いするにはまだ早い時間だが、妖魔の騒ぎがしばらく続いたせいで夜間飲みに出歩く者がめっきり減っており、これ以上開けていても客の入りは期待できない。今宵はこのあたりが潮だとふんだらしい。

 だらしなく伸びているジェシカを見下ろしつつ、大きく一つ溜め息を吐いたミィナ。すぐに扉を開けて外に出ると「酒屋ロイ」と彫り込まれた木の看板を外して中に入れた。

 その間、大男――ロイ――はゆっくりとジェシカに近寄っていくと、床の上に放られていた外套を拾い上げて彼女の露わな背にそっとかけてやったのだった。子供が泣き出しそうな面つきと巨人のような体格に似合わず、手つきがとても柔らかい。


「おじさん、ありがと……」


 そうと気付いたジェシカが、小さく礼を言った。

 半分閉じかけていたその瞳が少しばかり開いて、悲しげに大男を見つめている。

 大男は微かに頷いて見せると、短く一言。


「……いいってことよ。期待が外れりゃ人間、誰でも悲しくなるモンだ」


 扉を閉めてそんな二人のやり取りを眺めているうち、ミィナはようやく理解したような気がした。

 昨晩失敗に終わった仕事に、ジェシカがどれだけ精魂を傾けていたのかを。

 この数夜というもの、彼女は誰の手も借りず、自力で妖魔の行動を探索しつつ追跡していたという。根っからのものぐさで、とかく楽して儲けようとしたがるジェシカにしては上々な働きぶりといっていい。目当ての金が手に入らなかっただけ、といってしまえばそれまでなのだが――金を得るために汗水たらして働いているという点においては、父親のロイも自分もジェシカと変わりはない。懸命に働いたにもかかわらず、期待していた報酬が得られなくて悲しむのは人情というものであろう。

 まだ齢十四のミィナがそのことに気付くには少し時間が要った。が、明け方にがっくりとして戻ってきたジェシカの姿を見たロイは、すぐに全てを察したに違いなかった。ゆえに、彼女がだらしなく酔い潰れていても何も言わなかったのだ。普段なら、その常人離れした怪力で華奢な身体を軽々とつまみ上げ、部屋に放り込んでしまうのだから。

 彼は何を思ったか、ジェシカが使っていた大杯を手にすると、酒樽の注栓を抜いて紫色の液体を注ぎこみ始めた。そうしてもう一つ用意した大杯にもそうしておいて、彼女のそれを円卓の上に置いたのだった。


「……醸造が遅れているから、濃葡萄酒はしばらく手に入らん。その一杯、味わって飲んでおきな」


 と言って、自分も大杯に口をつけている。

 円卓の上に伸びていたジェシカは、ロイの言葉の意味をすぐに理解していた。

 ゆっくりと上体を起こし


「じゃ、ありがたく、いただくね?」


 ロイに微笑を向けると、両手で大杯を持って飲み始めた。

 妖魔二十九号に襲われた男児の中には、ロイが懇意にしている酒造屋の子供がいたことを、彼女は知っている。一人息子だったらしい。その大切な跡取りを奪われた酒造屋の主人が悲嘆にくれるあまり、しばらく仕事に戻れないであろうという想像は、容易につく。

 差し出された最後の一杯は、酒造屋の息子の仇――形の上でのことだが――をとろうと東奔西走していた彼女への、せめてもの謝礼のつもりであろう。

 もはや、ミィナは何も言わない。

 父のロイがしていることなのだから、それで良いのだ。

 自分は店の卓や椅子を綺麗に拭き取る作業をしておこうと思い、もう一度外へ出るべく扉に手をかけた。水を汲んで来なければならない。

 と、いきなり扉が勝手に開き、彼女は驚いて身を竦めた。


「わあっ――」


 視野に飛び込んできたのは、青い闇を背景にしてゆったり揺れている白い波布。

 

「おっと? これは失礼した」


 続けて、頭上から若い青年の声が落ちてきた。

 ハッとして見上げると、穏和に微笑んだ相好がこちらに向けられている。

 その顔を、ミィナはよく見知っていた。


「リ、リオットさ――」


 言いかけた途端である。

 背後から浴びせられてきた、ジェシカの不快そうな一声。


「何の用かしら、リオット? 謝りにきたとか言わないでね?」


 口調にかなり棘を含んでいる。

 が、戸口のリオットは怯んだ様子もなく、相変わらずニコニコしながら


「俺が謝ったところで二千五百レヴは降ってきやしないだろ? それよりも」


 つかつかと歩み寄っていき、円卓の上に小さな革袋を放り出した。

 それを無造作につまみ上げ、逆さまにひっくり返したジェシカ。

 キン、キン、と甲高く響きながら卓の上に散らばったそれは、黄金色に輝くレヴ硬貨であった。

 ざっと百枚近くある。

 ミィナが思わず声を呑んだのは、それがすこぶる大金だからだ。仮に店が毎日繁盛したとして稼ぎに稼いでも、ひと月に得られる収入はその半分もない。


「一緒に、仕事をして欲しい。これはその、前金なんだけど――」

「嫌」


 口をつけていた大杯をガン、と乱暴に置きざま、両腕を組んだジェシカ。

 リオットに向けられたその酔眼が、刺さるように鋭くなっている。


「あたしに手伝って欲しいなら、せめて五百レヴは出してよね。百レヴばかりもらったところで、弾の五発も買えやしないのよ」


 百レヴでも相当な金額だというのに、五百レヴとは大きく出たものである。

 二人のやり取りがどう落着するか、固唾をのんでなりゆきを見守っているロイとミィナ。

 

「弱ったなぁ。炎熱弾なんて、高い弾を使わなくてもいいじゃないか。俺はもらった半分を差し出しているんだぜ?」

「安い常弾を何十発撃ち込んだって、妖魔に効きやしないわ。炎熱弾でなければ意味がないから、仕方なくそうしているのよ。無責任なことを言わないで欲しいけど?」


 リオットはぼりぼりと頭を掻いている。

 そのくせ、弱ったと言いながら表情にその色は微塵もない。


「なら、こうしよう。報酬は間違いなく山分けする。昨日の件もあるし、そこは約束する。あとは、そうだな……妖魔を討つとき、君は無理に仕留めようとしないで、引き付けたり退路を断ったり、手助けしてくれるだけでいい。仕留めるのは俺の役目ということで。それなら、何も炎熱弾に頼らなくてもいいだろう?」


 駆け引きが上手い。

 それ以上の金を渡すことが出来ない代わりに、あくまでも彼女の負担を軽くするという形を申し出たのだ。楽をして儲けたいジェシカが食いつきそうな提案である。

 案の定、にわかに彼女の表情が動いた。

 つと、それまで不愉快そうだった相好がすっと平素のそれに戻り


「……報酬を山分けするって一言、間違いないわね?」




 翌日。

 ジェシカは午後になるのを待ってから、身支度を整えてロイの店を出た。

 リオットが指定してきた場所へ赴くためだが、その前に立ち寄らねばならないところがある。


「……こんにちは。あたしだけど」


 入っていったのは、中央広場にほど近い、古びた聖堂であった。

 街を南北に貫く大通りよりも一本奥の小路に面したその建物は、真ん中の部分だけが異様に突き抜けて高い造りになっている。入り口の両開き扉の上に大小の円を組み合わせた紋。いかにも信仰的象徴といった趣を漂わせている。ただ、長い間補修がなされていないようで、傷みが酷い。壁のあちこちがひび割れ、剥がれ落ちているのが目立つ。

 中はほの暗く、がらんとしている。

 左右両側に規則的に設けられた窓はどれも板を打ち付けられていて、採光の役割を果たしていない。唯一、正面に小さく明かりが灯されている。蝋燭の火であった。

 その光のほうへ、ジェシカはゆっくりと歩いていく。

 彼女の立てる足音が、不必要なまでに広い空間にコツコツと響き渡る。

 蝋燭を乗せた燭台の傍で、足を止めた。

 小さな火の向こう側に、佇んでいる人影がある。

 背は高くない。頭から足元まで、白い布ですっぽりと覆っている。が、きちんと両袖が通っており、かつ胸のあたりに施されている奇妙な刺繍から、それが何らかの衣装であるように見える。

 炎がジジジと芯を焼きつつ、ひときわ強く燃えた。

 同時に、床や背後の壁に伸びている装束姿の人物の影が、大きく揺らめいた。


「……ジェシカ殿か。弾を、所望かな?」


 俄かに、白い風防の下から声がした。

 しゃがれた、老人のそれである。

 ジェシカはくいっと帽子のつばを上げた。よく整った相貌の半分、そして胸元へと垂れた美しい金髪が光を受け、朱色に照らし出される。


「ええ。聞いているでしょ? 幼男喰いの妖魔二十九号。そいつにありったけ、ご馳走してやったのよ。……あと一発、っていうところで仕留め損なったんだけどね」


 情けなさそうに報告すると、老人もフフフと小さく笑い声を上げ


「それは骨折りだったの。お前さんの腕なら、聖浄弾(ホーリー・バレット)一発あれば楽々と仕留められたものを。――どうかね? そろそろ聖浄弾に切り替えては」

「それができるなら、そうしているわ。懸賞金が安いから、どうにもならないのよ」


 言いながら、外套の下から小さな革袋を差し出した。


「……今回は、常弾でいいわ。八十レヴある。八発、売ってくれるわね?」


 すっと手を伸ばし、受け取った老人。すっかりと痩せ細っていて、手にも腕にも肉というものがなかった。


「常弾、か。これはまた、ずいぶんと節約なことよ。紅の異名をとるジェシカ殿には似つかわしくないようにも思えるが」

「言ったでしょ。ここのところ懸賞金の相場が下がっていて、実入りが悪いのよ」


 一昨日は折角の大物を逃しちゃったし、と付け加えると


「あと、三レヴほどあるかな? 五レヴと言いたいところだが、こちらの都合もあることだし、三レヴでよかろう」


 老人は代金の追加を求めてきた。

 不足があったのなら、この老人はそのように告げる。余分に利益をあげようとする人物ではない。

 これは何か別の含みがあるのだと察したジェシカ、黙って言われた通りレヴ硬貨三枚を渡してやった。

 装束の裾を引き摺るようにして聖堂左奥の小部屋へ引っこんだ老人。

 間もなく出てくると、硬貨を入れていた小袋を手渡してきた。中に弾を入れてあるようだが、ずしりと意外な重みがある。


「……今どき弾(バレット)なぞ使うのはお前さんしかおらん。よりによって常弾を購めていくなど、なおさらだ。十五発分、入れてある。保管が長すぎて錆が浮いてきたし、ここらで処分という訳だな。ただし、もうこれっきりだよ」


 八発分の代価で、十五発もつけてくれたという。

 しかしながら、これが最後の常弾らしい。


「ありがと、師教さま。恩に着るわ」


 もう売ってはくれないのか、などとジェシカは言わない。

 老人が口にしたように、銃器を愛用する狩人はこの街で彼女以外にない。その彼女ですら普段は使わない代物が常弾なのだ。今日の今までとっておいてくれただけ、有難いと言わねばなるまい。

 小袋を皮の腰帯に括りつけているのを眺めていた老人――師教――はつと


「研げば幾らでも使えて護りにも有効な刃器(ウェッジ)に替えろと言いたいところだが……シルファの形見とあらば、そう言うのはお節介というもの。――ただ、ジェシカ殿」


 風防の下から老人が視線を上げた。

 すっかり伸びて覆いかぶさった眉毛の下で、細い目が蝋燭の光を受けてぎらりと光っている。


「いつ、何時、常軌を逸した妖魔に出くわさないとも限らん。せめて、弾だけは強力なものを持ち歩くが良かろう。ヴィヴァーラの教典にもいうだろう。己が身を護る術は即ち己自身なり、とな」


 こんなときに教義を持ち出してくる師教の言い草が可笑しくなったが、ジェシカは笑わなかった。

 街外れの朽ちた聖堂で独り、狩人相手に闇の商売をしているとはいえ、これでも国教であるヴィヴァーラ正教の師教――教義を熟知し、人に教え広める立場にある者――なのだ。本来ならば宮廷内の荘厳な大聖堂にあって国王やその臣下に教義を説き聴かせる役割をもった、相応の身分の人間といっていい。

 が、この老人は自ら宮廷を出て、市井の片隅に埋もれ暮らす道を選んだのだった。

 というのも、ヴィヴァーラ正教はその教義において、殺生を戒めている。それは不可思議の存在たる妖魔といえども例に漏れないというのが、ヴィヴァーラ正教の正式な見解である。しかしながら、いかにヴィヴァーラ正教が「万命共存」を説いたところで、妖魔のほうがその教義を理解してはくれない。

 そのうえ、皮肉なことに、妖魔には聖文を刻んだ武器が有効であることがわかっている。

 聖文とは多岐にわたる教義のうち、人間をかどわかす「魔」に抗し滅する重要性、方法を説いたくだりのことを指す。この「魔」とは人間の内面に具わり、あるいはそこから湧き起こるものという解釈が通っていたため、人間とは別に現れ出てくる妖魔は「魔」と同列にみなされなかったのである。

 妖魔を「万命」のうちに加えるという見解を発したものの、彼等が人々を襲い苦しめる事象が頻発するに及び、最高指導者である主教は悩んだ。黙っていれば、さらに多くの人々が妖魔の手にかかることは火を見るより明らかなのだ。幸いなことに、市中には自ら妖魔退治を引き受ける者も現れているという。といって行きがかり上、堂々と討滅令を出すのは憚られる。かつ、教義である聖文を「万命」を傷つけ屠るための武器に刻ませてよいものか。ヴィヴァーラ正教会が自ら招いたこの事態、指導者達は収拾するための知恵を持ち合わせていなかった。

 が、この二律背反の悩ましき問題を一挙に解決するべく、一人の若き師教が進み出た。


「一つ、方法がございます。聞けば、妖魔を退けるには聖文を刻んだ武器さえあれば十分とのこと。要は、妖魔退治を請け負う者達が、陰でその武器を手に入れられるようにしておけば良いのです。あとのことは彼等が闇に紛れて行う所業。ヴィヴァーラ正教会としては、見て見ぬふりをしておればよいでしょう」


 聖文を刻んだ武器をこっそり売ってしまえという。

 この乱暴な発想に主教は驚いたが、若い師教は重ねて


「武器に聖文を刻むのは、ヴィヴァーラ正教の徒でなければなりません。その役目、私が負いましょう。もしこれが教義に背く咎であったとしても、多くの人々つまり『万命』を護るための方途。いささかも恥ずるものではありません」


 表向きにはできない、いわば汚れ役なのだが、それを自分が引き受けると申し出た。

 果たしてその申し出は容れられ、彼は独り廃聖堂の片隅で一生を送ることになった。

 ジェシカが祖母シルファから聞いた話によれば、その師教が――目の前の老人であったらしい。正教会とは断絶して暮らしているとはいえ、師教にまでなった人物である。心の奥底では今もなお教徒としての篤い信仰心が脈打っているに違いなかった。

 ジェシカ自身は、ヴィヴァーラ正教徒になったつもりはさらさらない。一介の懸賞金稼ぎだと思っている。そもそも、正教会が表向き「万命」に数える妖魔をあちこちで討ち果たしている以上、正教徒も何もあったものではないのだ。

 ただ、自分もしかり祖母もまた世話になったというこの老師教に対し、粗略に扱う気持ちはないというのも正直な心情である。

 ゆえに、彼女はその美しい相好をやんわりと緩め


「……わかっているわ、師教さま。次からはいい弾、買うしかないものね?」


 そうして真紅の外套を翻すと、足早に聖堂を出て行った。

 ゆっくりと閉まっていく扉を見つめる老師教、その口元に僅かな笑みが浮かんでいる。


(あの娘を見る度に思い出す。シルファの面影に、そっくりだな……)

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